第17話 彼女はずっと舞台の上
雷は、僕の頭に落ちた。そう錯覚するくらいの衝撃だった。
「キンタ……」
思わず口にした僕に、宮森さんが続ける。
「マンテ……」
清春が、両手で頭を抱えたまま、テーブルに肘をつき、突っ伏していた。
おそらく、記憶の奔流が彼を苦しめているのだろう。
だが今見るべきはそれではない。
今見るべきなのは、平坂の表情なのだ。
僕と宮森さんはほぼ同時に顔を上げた。
「~~~~!!!」
平坂は腕で口元を隠し、眉間にしわを寄せていた。
かろうじて見える頬が、紅潮している。
――あの平坂が。恥ずかしがっている。
いつも冷静でめったに表情を変えない平坂が。
怒った表情くらいしか見せたことのない平坂が。
照れている。
思わず宮森さんと顔を見合わせた。
彼女も平坂の表情を見て、目を輝かせていた。
突っ伏したままの清春が呻いた。
「あ、ああ……記憶が入ってくる……」
「そうか、ガンバレ!」
思い返せば心当たりがある。
ここでマンテの名前を呼ぶことを避けようとしていたこと。
やたらマンテの名を出すときに言いよどんでいたこと。
極めつけは清春を「キヨちん」と呼んだことだ。
あれは「キンタマ……」と間違えて呼びそうになり、誤魔化した結果なのだ。
小賢しく立ち回っていた平坂の、この恥ずかしそうな顔!
今日はいいものを見れた! もう帰って寝よう!
「あああっ!!!!」
突然、叫び声をあげて清春が顔を上げた。
天井を見たまま、ゆっくりと立ち上がる。
ふらふらとボックス席の奥から出ようとしたので、我に返った宮森さんが慌てて道を開けた。
清春は平坂の横まで来ると、流れるように片膝をついた。
「偉大なる我が王、ダリューゼ様。忠実なる臣下の中の臣下、キンタ=マンテが遅ればせながら参上いたしました」
その名乗りを受け、平坂は口元を隠していた腕を下した。残念ながらいつもの表情に戻ってしまっている。
「ずいぶんと待たせてくれたのう。マンテよ」
平坂は腕を組み、清春を見下ろしたまま、冷たい声で言った。
さっきまでの雰囲気から一転、店内には緊張感が張り詰めている。
「体は変わってしまったが、儂は儂じゃ。これからも粉骨砕身、儂に仕えよ。マンテよ」
さっきから「マンテ」で上書きしようとしてないか?
清春、いや、マンテは、垂れていた頭をさらに深く下げた。
「ははっ、ありがたき幸せ。この命ある限り努めます」
マンテは頭を上げ、僕を見た。その瞳は暗く、僕の奥底の何か別のものを見ているような気がした。
「まずはそこの出来損ないの勇者を」
まずい。何かおかしなことが起きている。
「八つ裂きに――」
「やめんか」
平坂がマンテの頭を叩いた。と同時に瞳から暗さが消えた。
「痛っ! 何するんすか~」
「……あなた今、消えかけていたわよ」
どうやら元の清春に戻ったらしい。しかし消えかけていたとはどういう意味か。
「突然大量の記憶が流れ込んできたから、キヨちんとしての記憶が隅に追いやられてしまったのだと思う。放っておけば完全にマンテになっていたかもしれない」
「キンタに」
「そう、キンタ=マンテに」
言わされたと気づいて睨みつけてきた。
「キヨちんじゃなく、マンテとして語りかけてきたから焦ったわ。咄嗟に話を合わせたけど」
あれは演技だったのか。さすが自称演劇部員だ。
「どれだけ情報を引き出せるか試してみようかと思ったのだけど、不来方くんのこと、殺す気だったから」
「俺、そんなことになってたんすか!?」
あの冷たい瞳を思い出し、身震いした。
「でもマンテは文官でひ弱だったし、使える魔法も戦闘向きではなかったし、不来方くんがやられる心配はないと思うけど。それに日本語でしゃべってたでしょ。だから完全にマンテの記憶に支配はされていなかったと思う」
「いや、でも助かったよ。久しぶりに本気の殺気を感じて肝が冷えたよ」
「で。マンテさんはどこ行っちゃったんですか?」
隅で小さくなっていた宮森さんがおずおずと質問を投げかける。
「消えてはいないと思う。形を成していたものが、散っていってしまった感じ。恐らく、バラバラの状態でキヨちんの中に残っているわ」
「キヨちんがしっかりしていれば、さっきのようなことは起こらないってことでいいんですかね~?」
「きっとそうね。頼むわよ、キヨちん」
「うっす、俺に任せてください!」
恐らく清春は何もわかっていない。
マンテとのギャップに力が抜けた。
*
外は、いよいよ本降りだった。
窓の外は白く煙っていて、道の向こうがもう見えない。時計は八時を回っている。
「おーい、栞」
奥から、店長――宮森さんの父親が出てきた。
何度か顔を合わせているが、思ったよりも若く、飄々としていて掴みどころのない人だ。
「みんなどうやって帰るんだ? あれだったら車で送ってくぞ」
「え、いいんですか」
「傘貸してもいいけど、さすがにこの雨じゃやばいだろ」
店長は傘立てにある清春の竹刀を見て、不思議そうな顔をした。
「じゃあ、お言葉に甘えましょうか」
迎えを呼ぼうとしたスマートフォンをバッグに戻し、平坂が立ち上がった。
*
喫茶店の裏、屋根付きの駐車場に停まっていたのは、ガンメタリックのSUVだった。
有名な「ザ・外国車」のエンブレムがついている。
確かこの車は、僕の家のファミリーカーの五倍以上の値段がするはずだ。
「……これ、店長の?」
「ああ」
「喫茶店って、儲かるんですね」
「んなわけねーよ。他のトコは知らんけど」
「え」
じゃあこの車は何なんだ。
助手席のドアを開けながら、宮森さんが涼しい顔で言った。
「父の仕事は、株がメインなので」
「株?」
「デイトレーダーっていうんですか? 朝から店の奥でパソコンの画面ずっと見てるんです。お店は、おじいちゃんから継いだやつなので、なんというか、趣味です」
趣味か。
あの蜂蜜レモンバジルかき氷の正体が、たった今、判明した。
売る気がないのだ。
*
運転席に店長、助手席に宮森さん。
後部座席は、右に平坂、真ん中に僕、左に清春という並びになった。
平坂が最初に乗り込んだとき、迷わず次に僕が乗り込んだ。
決して、平坂と清春を隣同士にさせたくなかった訳ではない。と思う。
右を見れば、雨で少し濡れた髪を直しもせずに、窓の外を見ている平坂がいる。左を見れば、清春が車の天井をボーっと見上げている。
店長がエンジンをかけた。
「どこから回ればいい?」
「清春の家は僕の家からそう遠くないけど」
「じゃあ私が最初かしら。では明王山でお願いします」と平坂が運転席に向けて言った。
明王山とは山ではない。住宅地の名称だ。
高台にあり、蓬莱市の中心街やその向こう側にある海を見渡せるロケーションから、企業の経営者など、お金に余裕がある人たちが好んで住んでいるらしい。
やはりお嬢様という噂は本当だったのだ。
*
車を十分ほど走らせると、美術館や警察署がある、蓬莱市の中でも治安の良いエリアに入る。
そこから緩い坂を上っていくと、明王山の住宅街になる。
やはり聞いていた通り、立派な家が多い。
清春が家々を見ながら隣でポカーンと口を開けている。
住宅地の真ん中を貫く道を上ると、大きな公園が見えてきた。
「あの公園までが明王山のシモ、ここからがカミ。さらに金持ちが住むところ」
と店長が教えてくれた。
「……まさか、一番上じゃないよな?」
店長が平坂に聞くと、「すみません、一番上なんです」と苦笑いで答えた。
一瞬、店長がぎょっとしてバックミラー越しに平坂を見たのが分かった。
その意味は、五分後に分かった。
坂を上り切った突き当りに、長い塀が左右に伸びていた。
下半分が石積みで、上半分が漆喰で塗られており、時代劇で見るような塀だった。
大きく道路側にせり出した笠木は、黒い瓦で仕上げられている。
平坂の指示で左に曲がる。塀は車の右手側にずっと続いていた。
最初はお寺か何かかと思っていた。
前から後ろに流れていく塀を見ていると、大きな門が流れてきた。
「そこの門の前で大丈夫です」
「えっ」
車が門の前で止まった。瓦の乗った屋根付きの門。門扉自体には木材と木材の間に隙間があるので、その奥の庭園と、それを貫く石畳が伺える。
さらに奥に、灯りのついた日本家屋の輪郭がぼんやり見えた。雨靄と庭木に阻まれ全体像は分からないが、今見えているのは全体のごく一部なのだろう。
門の屋根の下に、不釣り合いな防犯カメラが光っていた。
「ありがとうございました。助かりました」
「……いや。参ったね、こりゃ」
店長が、ハンドルを握ったまま言った。
宮森さんと清春に至っては口をあんぐりと開けたまま固まってしまっている。
門の潜り戸が開いて、傘を持った女性が小走りに出てきた。
年配の、きちんとした身なりの人だった。母親? いや、家政婦さんだろうか。もう何も驚かない。
その人は車の横で傘をさしたまま深く頭を下げた。
運転席の店長にだけではない。乗っている僕たち全員に向けた礼だった。
お嬢様を送り届けていただきありがとうございます、という意味なのだろう。
店長が慌てて片手を上げて応えている。
こちらが恐縮してしまった。
「じゃあみんな、おやすみなさい」
平坂はそういうと、ドアハンドルに手をかけた。
その瞬間、背筋が伸び、顎の角度がほんの少し変わった。
平坂永遠が切り替わった瞬間だった。
*
潜り戸が閉まって、車が動き出す。
僕は、リヤウインドウから塀を見ていた。
――ずっとだ。
ずっと、あの顔でいるんだ。
考えたことがなかった。あの家に帰って、あの家の人たちの前でも、彼女は「平坂永遠」を続けている。十五年間、一度も外していない。
僕には、家がある。
蒼真が宿題を持って部屋に押しかけてきて、母さんが風呂に入れと怒鳴って、父さんが金魚を見て昔話を始める、あの家がある。そこでは僕は、別に誰でもない。ただの不来方真白でいればいい。
彼女には、それがない。
学校でも、家でも、たぶん両親の前でも、彼女はずっと舞台の上にいる。
素に戻れる場所が、どこにもない。
――いや。
僕は、左側を見た。清春が、窓に頭をつけて船を漕いでいた。
助手席では、宮森さんが父親と今日のかき氷の話をしている。
そうか。
あの喫茶店の、一番奥のボックス席。
あそこだけだったのか。
*
次は清春の番だった。
「このへんで大丈夫っす」
車を降りるとき、彼は少しだけためらってから言った。
「じゃあ、また、な」
「ああ、連絡するよ」
僕が言うと、清春はほっとしたような顔をした。
車から離れる清春の背中の先、街灯の下に見覚えのある看板が見えた。
『金成剣道教室』
古びた木の看板だった。三年前と、何も変わっていなかった。
胸のあたりが、少しざわついた。
*
僕の家は、そこからすぐだ。
「不来方くん、だったか」
車を停めて、店長が振り返った。
「今日はありがとな」
「いえ、こちらこそわざわざありがとうございました」
「んー、そうじゃなくて」
店長は、少し言いにくそうに、鼻の頭を掻いた。
「栞な。最近、いつも楽しそうなんだわ」
「お父さん」
「毎日ばたばたして、笑って。あんな顔、久しぶりに見た」
「お父さん!」
宮森さんが、助手席で真っ赤になっていた。
「もういいから! 変なこと言わないで!」
「はいはい」
店長は笑って、片手を挙げた。
「じゃあな。またいつでも来てくれや」
大きな車は、雨の中に消えて行った。
*
「ただいまー」
上がり框に座り込み、濡れた靴下を脱ぎながら、僕は今日のことを考えていた。
今日は怒涛の展開だった。不良軍団に絡まれたと思ったら、そのうちの一人が目的の人物だったとは。
これは本当に偶然なのだろうか。前から感じていたことだが、まるで誰かが用意したシナリオみたいで、少し気味が悪い。
「お帰りー」と、蒼真が廊下を走ってきた。
またゲームで魔王がどうの、勇者がどうの言っている。
ふと気になり、今どこまで進んだのか聞いてみた。
「今ちょうど仲間がみんな揃ったところ!」
偶然だ、と自分に言い聞かせた。




