第15話 儂に触れてよい者は、儂だけじゃ
「お前さあ」
先頭の金髪が、一歩前に出てきた。
祭りの夜と同じシャツを着ている。洗っていないのだろうか。
「祭りの日のこと、覚えてるよな」
「知らない。さよなら」
「ちょちょ、ちょっと待て!」
横を通り過ぎようとすると、慌てて金髪が道をふさいできた。
「何だよ。え、まさかあの日からずっと僕たちを探してたの?」
「家には帰りなさいよ。親御さんが心配しているわよ」
と平坂が追い打ちをかけた。
「あの日のことなら、こちらも連れに手を出されたんだ。痛み分けってことでいいんじゃないのか。じゃ、お疲れ」
金髪は、「あ、そうか」みたいな顔をした。
「いや違う! あれ、卑怯だろーが!」
「は?」
「俺たち、丸腰だったんだぞ。なのにお前、得物使いやがって」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。
「エモノ?⠀……いや、君たち四人いたよな。どっちが卑怯なんだ?」
「四人とも丸腰だったろーが」
「人数は武器じゃねえよコラ!」
連れの一人が後ろから援護してきた。
お前、真っ先に逃げ出したやつじゃないか。
「だからさ、先に手を出したのはそっちだろ」
「あれは、肩を掴んだだけ。武器じゃねえ」
「手は武器じゃねえよコラ!」
また援護が入った。
僕は少し考えて、言った。
「じゃあ枝も武器じゃないな。木だし」
「木は武器だろ!」
「なんでだよ」
「硬いから!」
「硬ぇーぞコラ!」
ヤンキーだか不良だか知らないが、同い年くらいの少年たちがキャンキャン吠える様に、チワワの姿を思い浮かべていた。
隣でも、平坂が小さく肩を震わせているのが分かった。
「とにかく、俺たちはお前に納得いってねえの。だからよぉ」
金髪が振り返った。
「キヨちん、出番っすよ!」
後ろに立っていた長身の男が、ようやくこちらを見た。
――そして、僕は息を呑んだ。
*
見覚えがあった。
痩せて、背だけが伸びて、髪の色は昔と似ても似つかない。目つきも、まるで別人だ。
それでも、分かった。
清春。――金成清春。
小学生の頃、僕が通っていた剣道教室の息子。僕と同い年の男だ。
そして、僕が毎回、一方的に叩きのめしていた相手だった。
彼は弱かった。というより、僕が強すぎた。前世で敵を斬っていた男が、竹刀を持った小学生と向き合っていたのだから、勝負になるはずもない。
僕は毎週、彼を打った。面を打ち、小手を打ち、胴を打った。試合形式の練習では、必ず彼がぶつけられた。指導者である彼の父親は、息子である彼に特に厳しかったのだ。
そして彼は、それでも諦めなかった。
歯を食いしばって、泣きそうな顔で、いつも向かってきた。
僕が教室をやめたのは、それが理由だ。
こんなものは剣道ではない。ただの弱い者いじめだ。そう思って、逃げるようにやめた。
やめたきり、彼のことを考えたことは、一度もなかった。
「……清春」
思わず、口から出た。
清春の眉が、わずかに動いた。
「あ? 誰だお前」
覚えていないらしい。後ろめたさから、僕は少しほっとした。
「なあ、キヨちん。こいつっすよ」
「うるせえな。さっき聞いたよ」
清春は、面倒くさそうに首を鳴らした。
「俺、こういうの興味ねえんだけど」
「でもキヨちん、剣道めっちゃ強いじゃないっすか」
「……別に」
その言い方に、僕は妙な引っかかりを覚えた。
「強い」と言われるのを嫌がっているような。
自分の強さに納得できてないのに、周りが「強い」と持ち上げるから、その役を降りられなくなっている。
「やんねえと、こいつら納得しねえから」
清春は竹刀を肩に担いで、こちらへ歩いてきた。
「悪いな。付き合えよ」
*
僕は、道端の植え込みを見た。
祭りの夜と同じように、剪定された枝が転がっている。
別に素手でも構わないのだが、一本適当に選び拾い上げ、平坂のほうを見た。
「下がっててくれ」
「いいわねえ。祭りの夜の時より楽しめそう」
この悪女が。
平坂は数歩下がると、腕を組んでこちらを眺め始めた。完全に観客の顔だった。
*
清春が竹刀を構えた。
その瞬間、僕の中の何かが、勝手に評価を始めた。
――上手い。
正眼。肩の力が抜けている。切っ先が僕の喉のあたりを狙っていて、微動だにしない。足の運びも、重心の置き方も、街の喧嘩で身につくものではない。
十年、続けたんだな。
あの、毎週泣きそうな顔をしていた子どもが。
「どうした」
清春が言った。
「構えねえのか」
「……ああ」
僕は枝を上げた。
祭りの夜と同じ。片手で枝を持ち、半身に構える。フェンシングのような構えだ。
軽い枝を扱うにはこの構えがいいと前回で学んだ。
リーチでは圧倒的に向こうが上だが、負けるビジョンは全く浮かばない。
ただ、気は重かった。
*
最初の一合は、向こうから来た。
速い。踏み込みが鋭く、狙いは面。まっすぐで、迷いがない。
僕は半歩下がってそれを外した。
目の前数センチを、竹刀の切っ先が通り過ぎる。
外しながら、思っていた。
こいつは、僕のせいで強くなったんじゃないか。
毎週打たれて、悔しくて、それでもやめなかった。他の誰も持っていない執念で竹刀を握り続けた。
「ふっ」
二合目。小手から胴への繋ぎ。良い連携だった。
僕はそれも数センチで躱す。
「……おい」
突然、清春が動きを止めた。
「なんで打ってこねえんだよ」
「別に」
「舐めてんのか」
舐めてはいない。
打てないのだ。
僕がこの枝を振れば、たぶん一合で終わる。祭りの夜と同じように、目のあたりを掠めさせて、それで終わりだ。
だが、それをやったら。
僕はまた、あの小学生を打つことになる。僕はどうすればいいかを決めかねていた。
「くそがっ」
清春が踏み出した。
さっきよりも踏み込みが大きい。バックステップで避けきれない。
僕は逃げるのをやめ、枝を横に構えて、上段からの一撃を受け止めた。
竹刀と枝が触れた刹那、枝が折れるぎりぎりのタイミングを見極め、力をずらす。
清春はバランスを崩し、前につんのめった態勢で持ちこたえた。
「……あ」
彼は、崩れた体勢のまま、僕を見ていた。
「お前」
清春の顔から血の気が引き、竹刀を握る手が震えている。
「お前、まさか」
思い出したらしい。
顔ではない。名前でもない。
子どもの頃、何百回と打たれた体が、あの払い方を覚えていたのだ。
「嘘だろ」
清春の声が、上ずった。
「なんでいんだよ、こんなとこに」
*
そこから先は、見ていて気の毒なほどだった。
彼はもう、勝負をしていなかった。ただ力に頼って竹刀を振り回すだけだった。取り巻きたちが「キヨちん!?」と騒いでいるのが、余計に彼を追い詰めているように見えた。
「もういいだろ」
僕は枝を下ろした。
「終わりにしよう。悪かった。祭りのときのことも、昔のことも」
清春は答えなかった。
肩で息をして、目だけがきょろきょろと動いている。逃げ道を探す目だ。
そして。
その目が、僕の後方の平坂を、捉えた。
「――待て」
僕が言い終わる前に、清春は動いていた。
追い詰められた人間の、なりふり構わない動きだった。平坂のほうへ大股で詰めて、その腕を掴もうと手を伸ばす。
人質を取るつもりだったのだと思う。
それが、この場を切り抜ける唯一の方法だと思ったのだ。
*
平坂は、避けなかった。
腕を掴まれたまま、ゆっくりと顔を上げた。
「――放せ」
空気が、変わった。
比喩ではない。本当に、その一言で、あたりの音が消えたように感じた。
魔法ではない。今の彼女には何の力もない。何も起きていない。だが――
平坂の瞳から、光が消えた。
「儂に触れてよい者は、儂だけじゃ」
清春の手が、熱いものに触れたかのように、勢いよく離れた。
彼は数歩後ずさり、そのまま後ろに倒れた。
顔が真っ白だった。
さっき僕を思い出したときとは、まるで種類の違う怯え方だった。あれが「痛みの記憶」なら、こちらは、もっと根の深いところにある何かだ。
「……なん、で」
清春の喉が、ひゅっと鳴った。
「あなたは」
平坂の眉が、初めて動いた。
清春は、震える指で、彼女を指した。
そして、掠れた声で言った。
「ダリューゼ様……?」




