第12話 何百年ぶんの、帰りたい場所
「あ、金魚すくいあった!」
宮森さんが、あからさまに嬉しそうな声を上げた。
裏参道の突き当たりに、三軒だけぽつんと屋台が出ている。そのうちの一つで、水槽の上でぶら下がった裸電球が、赤いものをちらちらと照らしていた。
「私、ちょっとやってきます!」
「ひとりで大丈夫か」
「金魚は襲ってきませんから」
そういう問題ではないのだが、彼女はもう小走りで駆けていってしまった。下駄の音が遠ざかる。
残されたのは、僕と、熊のぬいぐるみを抱えた平坂だった。
気まずい、と思う間もなく、遠くでひゅう、と音がした。
「あ」
平坂が空を見上げる。
一拍おいて、藍色の空の高いところで、赤い花が開いた。
*
どちらからということもなく、二人で土手のほうへ歩いて、腰を下ろした。
祭りの喧騒は背中側にあって、川べりまで来ると、思ったより静かだった。花火は正面の、少し離れた河川敷から上がっている。人はまばらで、みんな空を見ていた。
しばらく、どちらも喋らなかった。
花火が開くたびに、川面が一瞬だけ明るくなる。金色。緑。それから、ゆっくり散っていく赤。
「……綺麗ね」
平坂がぽつりと言った。
「初めて見た」
「花火を?」
「外国の花火と違うのね。テレビでは見たことあるけど、こうやって、下から見上げても丸いのね」
音が遅れて届く。腹に響く低い音だ。
彼女はぬいぐるみを膝の上に置いて、両手でそれを抱えるようにしていた。
「ねえ、不来方くん」
「ん?」
「オルジェナ山脈って、覚えてる?」
僕は、思わず彼女の横顔を見た。
覚えているどころではない。
大陸の北側を横切るように連なった、あの黒い山脈。魔王軍が異様なまでに厳重に固めていて、勇者一行は結局、最後まで足を踏み入れることができなかった場所だ。
僕たちはあそこを迂回するために、半年近く余計な時間を使った。
「忘れるわけがない。ずいぶん苦労させられた」
「そうでしょうね」
平坂は、少しだけ笑ったようだった。
「あの山脈の中にね、洞窟があるの。奥のほうまで行くと、大きな広間みたいになっていて」
彼女は花火から目を離さないまま、続けた。
「そこの岩肌に、特殊な鉱石が混じっているの。松明を持って入って、それを動かすでしょう。そうすると、壁がいっせいに光るの。赤とか、金色とか、緑とか。火を動かすたびに、次から次へと」
僕は、その光景を想像した。
そして、目の前で開いた花火と、それが重なった。
「……こんなふうに?」
「そう。ちょうど、こんなふうに」
平坂は、空を見上げたまま頷いた。
「懐かしいな」
僕は花火を見るのも忘れ、平坂の横顔をじっと見ていた。
「……え?」
何かおかしかった。人間側と魔族との言い分の違いが気になり、つい聞いてしまった。
「じゃあ、魔族はその鉱石を守っていたってこと? 僕たちは、あそこを――邪神復活の地だと、教えられてたんだけ……ど……」
口にしてから、しまった、と思った。
ダリューゼがあの場所を大切にしていたのは分かる。
その大切な場所を、貶めるような発言だった。
祭りの音が遠くに聞こえる。
平坂は、こちらを見なかった。
ただ、ふ、と息だけで笑った。
「邪神とは、ひどい言われようね」
「ごめん」
それきり、しばらく黙っていた。
そして、また花火が上がったとき、彼女は何でもないことのように言った。
「あそこはね。墓所なの」
「……お墓ってこと?」
「私の、両親の。両親だけじゃなく、代々魔王という役割を担ってきた一族の」
平坂の瞳は、花火を見ているようで、遠い故郷の地を見ていた。
「魔族はね、種族によって全く違って、そもそも墓を作らないものも多いのよ。私の一族は、作るほうだった。それだけの話」
だから、と彼女は続けた。
「人間を入れたくなかっただけ。副葬品とかもあったし、踏み荒らされたくなかったの。それ以上の理由なんて、何もないわ」
なんだそれ。
「まあ、種族ごとに死生観も信仰も違うから、中には代々の魔王を神としてあがめていた者たちもいたけど。人間が邪神と言って警戒していたのも分かるわ」
半年だぞ。
僕たちは、あの山脈を避けるために半年かけた。その間、あそこには何か途方もないものが眠っているのだと信じて疑わなかった。魔族が命がけで守っているのだから、そうに決まっていると。
「毎年、決まった時期に行っていたの。数日かけて」
平坂の声が、少しだけ揺れた。
「何百年も、欠かさず。……そういうのって、途中でやめられないものなのよ。誰に見せるわけでもないのに」
彼女は、そこで一度言葉を切った。
もう一度、花火が開いた。
大きな尺玉だった。空いっぱいに広がって、川面まで白く染めて、それからゆっくりと崩れていく。
その光の中で、彼女の頬に、一筋だけ光るものが見えた気がした。
平坂は、それを拭わなかった。
「……ごめんなさい。私、変な話しちゃった」
声は、まったく揺れていなかった。
驚いたのは、そこだった。
こんなときでも、彼女は「私」のままなのだ。
「儂」とも、「じゃ」とも言わない。腹が立てば魔王に戻るくせに、本当に苦しいときには、平坂永遠の仮面を一枚も外さない。
――たぶん、外せないのだ。
ここでダリューゼに戻ってしまったら、彼女はきっと、耐えられなくなる。
僕は、何も言えなかった。
慰めの言葉が思い浮かばなかったわけではない。ただ、そのどれもが、あまりに軽く感じられた。
僕には、帰りたい場所がない。
十五年ぶん、この世界の家族と、この世界の日常があって、それで十分だと思っている。だから彼女に「帰りたい」と言われても、正直、ずっとぴんときていなかった。
でも平坂には、あるのだ。
何百年ぶんの、帰りたい場所が。
そして、
――おそらく二度と帰れない。
*
最後の花火が上がって、しばらくして、あたりが本当に静かになった。
背中側の祭りだけが、まだにぎやかに続いている。
「不来方くん」
平坂が、膝のぬいぐるみを見下ろしたまま言った。
「この前は、悪かったわ」
「……いや」
「言い過ぎたと思ってる。あなたに手伝わせるべきじゃなかった」
彼女は、そこで一度、息を吸った。
「元勇者にさせることじゃないもの。よく考えたら」
その言い方が、あまりに彼女らしくて――つまり、正論の塊をぶつけるような謝り方で、僕はどう返せばいいのか分からなくなった。
だから、もういろいろと考えるのはやめた。
「平坂さん」
「なに」
「僕さ、足を引っ張ってた」
平坂が、ゆっくりとこちらを向いた。
「SNSの件だけじゃない。ずっとだ。マンテなんて見つからないほうがいいと思ってた」
言い出したら、後は簡単だった。
「平坂さんを元の世界に戻すのが、正しいことなのか分からなくなったんだ。あっちにはもう勇者がいない。そこに魔王を送り返すのは、向こうで生きてる連中への裏切りなんじゃないかって。……だから、わざと動かなかった。忙しいって嘘をついて、通知も見なかった。この前の『やめないか』っていうのも、あれ、用意していた台詞だ」
言い終わって、僕は自分の膝を見ていた。
殴られても文句は言えないと思った。
「知ってたわ」
顔を上げた。
「え?」
「あなた、嘘が下手なんだもの」
平坂は、呆れたような顔をしていた。涙の跡が残ったままの顔で。
「あの日、投稿に対して何件返事が来たか、答えられなかったでしょう。あなたはしっかり者だから、答えられないのはおかしいもの。あそこで気づかないほど間抜けじゃないわ」
「……なんで、何も言わなかったんだ」
「言ったら終わりだと思ったからよ」
彼女は、ぬいぐるみの耳を指でつまんだ。
「あなたに嫌われたら、私、この世界で前世の話ができる相手がいなくなるじゃない」
「お、おい、それはずるいぞ」
「何がよ」
「き……」
嫌うわけないじゃないか、と言えずに口ごもった。
なんだか振り回されっぱなしだ。いつかやり返してやろう。
「……とにかく!」
僕は立ち上がって、浴衣の裾についた草をはらった。
「まだ、分からないけど」
「何が?」
「平坂さんを帰していいのかどうか。正直、まだ答えは出てないけど」
平坂が、こちらを見上げている。
「でも、それとこれとは別だ。分からないからって、こそこそ足を引っ張るのは、いちばんやってはいけないことだった」
僕は、はっきり言った。
「マンテを見つける。全力でやる。そのあとのことは、そのとき考える」
数秒、間があった。
平坂は何か言おうとして、やめて、それからもう一度口を開いた。
「……ずいぶん無責任ね」
「そうだな」
「でも」
彼女は熊のぬいぐるみを胸に抱えて、立ち上がった。
「そっちのほうが、あなたらしいわ」
*
そのとき。
「真白様ーーー! 平坂さーーーん!」
背中から、絶叫が聞こえた。
振り返ると、宮森さんが両手で透明の袋を掲げながら、下駄で全力疾走してくる。危ない。転ぶ。絶対に転ぶ。
「取った! 取った! 六匹も!」
「意外だな」
「本当はこの三倍は取ってたんですけど、店主のおじさんが泣いてたので返してあげました!」
何をやっているんだ、この子は。
平坂が、隣で小さく吹き出した。
「……この子、ほんとうに、なんなのかしら」
「クソウザ魔法使いって言ってたよな」
「……それは撤回するわ」
袋の中で、赤い魚が、呑気に泳いでいた。




