第11話 こんなの、勇者のやることじゃない
夏祭りの日は、嘘みたいに晴れた。
午後六時半。空の端はまだ明るく、山の稜線がはっきりと見て取れた。
宮森さんの家の近く、川沿いの神社で毎年やっているという祭りは、思っていたよりもずっと大きかった。
参道に沿って屋台がびっしりと並び、提灯の明かりが川面に落ちて揺れている。浴衣の人も、そうじゃない人も、皆一様に祭りを楽しんでいた。ソースと、油と、蚊取り線香の匂いが混ざって流れてくる。
僕は一年ぶりに紺色の浴衣を着て、鳥居の脇で二人を待っていた。
正直なところ、気は重かった。気は重かったのに、宮森さんに「絶対に浴衣を着てくるように」と命じられてしまった。
あの雨の日から、平坂とはほとんど口をきいていない。学校で顔を合わせても、彼女はいつもの完璧な微笑みで「おはよう」と言うだけで、それ以上でも以下でもなかった。用事がなければ話しかけてこない。いわゆる他人と同じだった。
そしてそのまま、夏休みに突入した。
「はあ……」
夏休みに入ってから、何度ため息をついたか分からない。
謝るべきなのは分かっている。だが、何をどう謝ればいいのか。
「あんたは自分のことしか考えてない」――あの台詞を取り消すには、自分の想いを全てさらけ出さなければならない。できるわけがない。
「真白様ー!」
顔を上げると、宮森さんが手を振っていた。
淡い黄色の浴衣に、朝顔の柄。いつもは下ろしている長い髪をゆるい三つ編みにして、片側に流している。茶色がかった髪に、その淡い黄色がよく馴染んでいた。丸眼鏡はいつもどおりだが、提灯の明かりのせいか、頬がほんのり赤く見える。喫茶店のエプロン姿とは、まるで別人だった。
「誰かと思ったぞ。似合ってるな、それ」
「えへへ。母のお下がりなんです」
彼女は袖を持ち上げて、くるりと回ってみせた。
「ごめんなさい、ちょっと遅くなっちゃって」
「いや、僕もさっき――」
言いかけて、言葉が止まった。
宮森さんの後ろから、平坂が歩いてきていた。
濃い藍色の浴衣だった。白い花が裾のあたりにあしらわれている。上品で、派手なところは何ひとつないのに、通り過ぎる人が何人も振り返っていく。
いつもは下ろしている黒髪が、後ろで上げられていた。
細く、白いうなじが、見えていた。
「……不来方くん?」
「あ」
「どうかした?」
「いや」
僕は視線を逸らした。声の出し方が分からなくなったかのように、言葉が出てこない。
落ち着け。こういうのをさらっと褒められるのが、かっこいい男というものだ。
「あの、その」
……僕には無理だったようだ。
その様子を見て、平坂が心配そうに言った。
「変かしら、これ」
「いや! 似合ってる! ……とても」
言ってから、しまったと思った。
さっき宮森さんに言ったのと同じ言葉なのに、口から出るまでにかかった時間がまるで違った。
一瞬の間があって、平坂が小さく「そう」とだけ言った。表情は、よく見えなかった。
「じゃあ行きましょう! 屋台、制覇しますよ!」
宮森さんが二人の間に割って入って、ずんずんと参道を進んでいく。
こういうときだけは、この子の空気の読めなさが、ありがたかった。
*
歩き始めて五分で、僕は妙なことに気づいた。
平坂が、やたらときょろきょろしている。
「何あれ」
「射的。やったことは?」
「実弾でならあるわ。アメリカで」
「そんなのと同列に語るな」
「あの、『飴ごんり』っていうのは?」
「りんご飴」
「どうして逆から書くの? 飴なの? りんごなの? どっち?」
「どっちもだよ」
「どっちもってどういうこと!?」
屋台を見るたび、律儀に聞いてくる。学校では絶対に見せない顔だった。
「平坂さん、お祭り初めてなんですか?」
宮森さんが無邪気に尋ねると、平坂は少しばつの悪そうな顔をした。
「……こういうのは、行ったことがなくて」
聞けば、彼女の家では、夏といえば家族で避暑地の別荘に行くか、そうでなければ父親の付き合いでどこかのパーティーに出るかのどちらかで、地元の祭りなどというものには縁がなかったらしい。
そもそも中学までは、日が暮れてから友人と出歩くこと自体、許されていなかったのだという。高校生になって、ようやく解禁されたばかりなのだそうだ。
なるほど。
魔王としての過去がなかったとしても、平坂家というのはあまりにも浮世離れした存在らしい。
たこ焼き屋の前で「たこって焼くとこんなに丸くなるの!?」と真剣な顔をしている。
この歳でたこ焼きを知らないのは、さすがに天然記念物すぎる。
なんだか、おかしくなってきた。
「たこ焼き、食ってみるか」
「いいの?」
三人で一パック買って分けた。平坂は熱いのを口に入れて涙目になり、宮森さんは「ふーふーしてから食べるんですよ」と保護者みたいなことを言い、僕は笑いをこらえるのに苦労した。
*
食べ終わると、平坂が射的をやりたいと言い出した。
「一回三百円だってさ」
平坂は即座に金を出した。勝負ごとが好きらしい。
だが、コルク銃というのは思っている以上に当たらない。五発撃って、五発とも景品の脇をかすめていく。宮森さんは全弾明後日の方向に飛ばして「難しいですねえ」と笑っていた。
三百円を追加し、二回目。四発目までは同じだった。
そして最後の一発が、棚の端に置かれた小さな熊のぬいぐるみに当たり、ぱたりと倒した。
「――見たか!」
平坂が、コルク銃を掲げて叫んだ。
「見たか阿呆! 儂の腕を見たか! ド阿呆が!」
屋台の店主がぎょっとした顔でこちらを見た。近くにいた小学生も見た。
僕はすかさず「すみません、演劇部なんです」と言った。もはや条件反射である。
彼女は熊のぬいぐるみを受け取ると、それを胸に抱えて歩き出した。
その後ろ姿を見ながら、僕は自分の胸のあたりが、妙にざわついているのに気づいていた。
魔王の顔でもない。お嬢様の顔でもない。
ただ、射的が当たって嬉しかった、十五歳の女の子の顔だった。
*
その空気が壊れたのは、参道を外れたときだった。
「あっちにも屋台あるんですけど、毎年空いてて穴場なんですよ!」
宮森さんが指したのは、神社の裏手に回る細い道だった。屋台の列から外れているせいか、人通りは少なく、提灯の間隔も広い。
三人で歩いていると、前から四人組が来た。
高校生だろうか。少し年上かもしれない。全員が派手なシャツを着て、ガニ股で歩いている。そのうちの一人は、暗がりでも分かるほど鮮やかな金髪だった。
すれ違いざま、一人が足を止めた。
「ねえねえ、そこの浴衣の子」
平坂は完全に無視して歩いた。賢明な判断だと思う。
「無視すんなよ」
肩を掴まれた。
平坂ではない。宮森さんのほうだった。ぬいぐるみを抱えた平坂を庇うように、少し後ろを歩いていた彼女が、一番手近だったのだろう。
「ひゃっ」
宮森さんの体が、後ろに引かれてよろける。眼鏡がずれた。
そこから先のことを、僕はあまり考えていなかったと思う。
気づいたら男の手首を掴んでいた。
「痛っ」
手が離れた隙に、宮森さんと男の間に割り込んだ。
「なんだお前」
金髪が前に出てきた。他の三人も、面白がるようにこちらへ寄ってくる。四人。距離は近い。狭い道。背後の二人は下駄だ。逃げ道はない。
――やるか。
道端の植え込みに、剪定されたまま放置された枝が落ちているのが、視界の隅に入っていた。
長さは五十センチほど。細く、先の方に葉が一枚ついている。男たちを視界に収めつつ、拾い上げた。
彼らは喧嘩慣れしているのかもしれない。だが、それは殴り合いの話だ。
僕がやっていたのは、殺し合いだ。
片手で枝を持ち、半身で構えた。
「あのさ」
僕は枝の先を、軽く下げた。
「一応聞くけど。悪いことは言わないから、帰ってくれないか」
「はぁ?」
金髪が手を伸ばしてきた。
僕は半歩だけ引いて、その手をやり過ごし、枝の先を跳ね上げた。
狙うのは、目だ。
潰すのではない。突くのでもない。
眼球を、葉が撫でた。
人間は、目に異物が入ると反射的に目を閉じる。そして、そこに一瞬でも痛みが走れば、涙が出る。涙が出れば、数十秒は何も見えない。
「――っ、あ!?」
金髪が両手で顔を覆った。
大げさな。かすっただけだ。
二人目が横から掴みかかってきたので、同じ動作を繰り返した。面、胴、小手は必要ない。目だけでいい。
三人目は、僕が枝を構え直した時点で足を止めた。
枝の先は、正確に彼の両目の真ん中を狙っている。
四人目は、もう逃げていた。
十秒もかかっていなかったと思う。
「な、なんだよお前……」
金髪が目を押さえたまま、後ずさる。
「見えねえ、涙が」
「三十秒もすれば治る。それまでに帰れ」
「くそ、覚えてろよ!」
彼らは互いに肩を貸し合いながら、来た道を戻っていった。
そのうちの一人が、振り返ってこう叫んだ。
「キヨちんに言いつけてやるからな!」
誰だよ。
*
静かになった。
遠くで、祭り囃子が鳴っている。
僕は手の中の枝を見下ろした。ずいぶん久しぶりの感触だった。中学に上がってから、竹刀にも木刀にも触れていない。
「……あの」
宮森さんが、ずれた眼鏡を直しながら、おそるおそる言った。
「真白様、すごくないですか?」
「すごくはない」
「すごかったです。なんか、しゅっ、しゅって」
なぜかシャドウボクシングのように拳を突き出している。
そんなことをした覚えはないが。
僕は丁寧に枝を植え込みに戻して、それから、平坂のほうを見た。
彼女は、ぬいぐるみを抱えたまま、じっと僕を見ていた。
いつもの微笑みはなかった。魔王の顔でもなかった。何かを確かめるような、静かな目だった。
目が合うと、彼女は何も言わずに視線を外した。
*
歩き出してから、僕はずっと同じことを考えていた。
小学生の頃、僕は剣道でやりたい放題やって、それをやめた。前世の記憶を使って、同い年の子どもを叩きのめすのは、弱い者いじめでしかないと思ったからだ。
それは間違っていなかったと思う。
だが。
たった今、僕がやったことは、なんだったのか。
弱い者いじめではない。誰かを守るために、前世の技術を使った。それだけのことだ。
そして、それだけのことを、僕はこの何年も、一度もしてこなかった。
『お前は、この世界で何をした』
雨の日の平坂の言葉が、今ごろになって、まっすぐに刺さってきた。
そうだ。何もしていない。
前世の記憶があるだのなんだのと言いながら、僕がやっていたのは、うじうじ悩んで、嘘をついて、こっそり足を引っ張ることだった。
やらなければいけない仕事を放り出して、スマホを伏せて、忙しいなどと言い訳をして。
正しさを盾にして、何ひとつ選ばないでいた。
こんなの、勇者のやることじゃない。
勇者ってのは、そういうものじゃないだろう。
誰かに勇気を与える者のことだ。誰かを全力で守り、支える者のことだ。
そう呼ばれていた男が、いつの間にかずいぶん遠いところまで来てしまった。
前を歩く平坂の、上げられた髪と、細い首筋が見える。
宮森さんが何か話しかけていて、彼女がそれに短く答えている。
僕は、その背中に向かって、一度だけ小さく息を吐いた。




