第10話 お前は、この世界で何をした
七月の第二週。その日は朝から雨が降り続いていた。喫茶店の窓は、湿気で内側から白く曇っていた。
店内は冷房が効いているはずなのに、湿った制服が背中に張りつき、快適とは言い難かった。
いつもの一番奥のボックス席に、三人分の飲み物が並んでいる。
僕のアイスコーヒー。平坂のアイスティー。そして宮森さんの、なんだか複雑な色をしたクリームソーダ。試作品だそうだ。
「では、報告会を始めましょう」
平坂がそう言って、ノートを開いた。几帳面な字がびっしりと並んでいる。相変わらず、こういうところは真面目である。
「まず宮森さん。東高のほうは?」
「はい。同級生百四十六人のうち、百十九人に聞けました」
「すごいわね。どうやったの?」
「クラスを回って、順番に」
平坂の眉が、わずかに動いた。
「……なんて聞いたの?」
「『あなた、十月二十六日生まれですか? あと、前世の記憶ってありますか?』って」
僕はアイスコーヒーを吹きそうになった。
「ド直球すぎるだろ!」
「だって、遠回しに聞くと、よく分からなくなっちゃうので」
「学校でどう思われてるんだ君は」
「もともと不思議ちゃんキャラで通っているので、ノーダメージです!」
彼女なりの処世術なのかもしれない。
「で、結果は?」
「十月二十六日生まれの人はいませんでした。あと、前世の記憶がある人は四人いました」
「いるのかよ!」
「はい。前世はナポレオンと、猫と、ドラゴンと、あと『言えない』でした」
またドラゴンがいた。というか、僕にDMを送ってきたやつと同一人物では?
平坂が額を押さえて、静かにペンを置いた。
「……不来方くん。あなたは?」
来た。
僕はグラスの水滴を指でなぞりながら、視線を落とした。
「……特に、なかった」
「投稿は?」
「した」
「何件来たの」
「えー……」
正確に言えば、自分の裏切り行為に気づいた後も、数日おきに文面を変えながら投稿はしていた。
だが、通知が来るたびに画面を伏せて、まともに開いていない。
やらなければいけないのは分かっている。分かっているのに、指が動かなかった。
見つけてしまったら、どうするんだ。そう思うと、どうしても手が止まる。
一応の投稿は、平坂への言い訳用だ。どっちつかずの自分に嫌気がさした。
「不来方くん」
「……悪い。ちょっと、今週は忙しくて」
我ながら、下手な嘘だった。平坂は数秒こちらを見ていたが、それ以上は追及せず、ノートに目を戻し、「そう」とだけ言った。
追及されなかったことに、僕はほっとした。そのあと、テーブルに頭を打ち付けたくなった。
「じゃあ、私の報告をするわ」
平坂は、ノートを一枚めくった。
そこには、数字が並んでいた。
「蓬莱市の人口は、約十五万人。それで、十六年前の年間出生数を調べたの」
「調べられるのか、そんなもの」
「市の統計資料よ。図書館に普通に置いてあるわ」
普通に置いてあるらしい。素直に感心した。
「あの年は年間で、およそ千二百人。日ごとの数字までは公表されていないから、単純に三百六十五で割ると――」
「一日あたり、三人ちょっとか」
「そう。理屈のうえでは、十月二十六日にこの市で生まれた子どもは、三人か四人しかいない」
宮森さんが、クリームソーダのアイスをつつきながら目を丸くした。
「でもここに三人いますよ?」
「そう、仮に生まれたのが四人だったとしたら、私たちを除いた最後の一人が、マンテの可能性が高い」
「じゃあ、その人を調べれば」
そこで平坂はため息をついた。
「と、思うでしょ。それが簡単そうで、とんでもなく高いハードルなのよ」
平坂はペンの尻でノートを軽く叩いた。
「今は個人情報の扱いが厳しいの。市役所の職員なら調べられるのかもしれないけど、それを教えてくれる職員はいないでしょうね」
そこで一度、言葉を切る。
「それに、可能性を追っていくとますます絶望的になる。……例えば、生まれた時間が少しずれたら、どうなると思う?」
そう、それは僕も危惧していたことだった。
「……日付が変わるってことか」
「そう。夜中の一時に生まれた子と、二十三時に生まれた子。仮に同じ『瞬間』に転生していても、誕生日は一日ずれてしまうわ。だから前後一日ずつを範囲に入れるとして、それだけで対象は三倍」
十人前後。僕たち三人を除けば一桁だ。まだ現実的な数に思える。
そう思った僕の顔を見て、平坂は小さく首を振った。
「まだあるわよ。この街で生まれた子が、この街で育つとは限らない」
「あ」
「いわゆる里帰り出産ね。お母さんが実家に戻って出産するの。その場合、生まれた場所はこの市でも、育ってるのはこの市の外かもしれない。逆に、今この市に住んでいる子が、よその街で生まれている可能性もある」
宮森さんが、うんうんと頷いている。分かっているのだろうか。
「そうなったら、もう追いきれない。全県……いえ、全国が対象になるもの」
たしかに、そうだ。
僕たちは、たまたま近くで生まれた。それを根拠に「近くにいるはずだ」と思い込んでいたが、それはあくまで僕たちがそうだったというだけの話でしかない。
「それにね」
平坂は、そこでペンを置いた。
いままでの事務的な口調とは、少し違う声だった。
「ここまで可能性を広げてみると、もっと根本的な問題にぶつかるの。私、ずっと考えていたんだけど……そもそも転生って、いつ起きたものなのかしら」
「え? どういうこと?」
「私たちがこの世界に来たのは、どの瞬間なの? 生まれ落ちた瞬間? それとも、お母さんのお腹の中にいるとき? 受精した瞬間? 着床した瞬間?」
「あの」
宮森さんが、みるみる顔を赤くして手を挙げた。
「そういうお話は、その、ちょっと」
「なぜ? 医学の話よ」
「そうなんですけど、そうなんですけど……」
平坂は不思議そうな顔をしていた。何百年もの間に、そのあたりの感覚はすり減ってしまうのだろうか。
「話を戻すわ。もし転生した瞬間が『受精のとき』だったら、どうなると思う?」
「……えっと」
「出産予定日なんて、人によって二週間や三週間はずれるのよ。同じ日に受精しても、生まれる日はバラバラ。つまり――」
平坂はノートの上で、何かを塗りつぶした。
「誕生日という手がかりそのものが、意味を失う」
雨の音が、急に大きく聞こえた。
そうか。
僕たち三人の誕生日がたまたま一緒だったということが、あの仮説の唯一の根拠だった。
だがそれは、三人が「生まれ落ちる瞬間」に転生したことを意味しない。三人が同じ日に生まれたという、ただそれだけの事実にすぎない。
同じ日に生まれたのだから同じ日に生まれた人を探そう、というのは、よく考えれば、何も証明していないのだ。
「そのシステムが分からない限り、この方法でこれ以上絞り込むのは難しいわね」
平坂は、そう締めくくった。
冷静すぎる声だった。
――今だ、と思った。
たぶん、この二週間ずっと、僕はこの瞬間を待っていたのだと思う。
「なあ、平坂さん」
「何?」
「……もう、やめないか」
宮森さんの、ストローをかき混ぜる音が止まった。
「今の話を総合すれば、行き詰まったってことだろ。誕生日でも駄目、SNSでも駄目、しらみつぶしも無理。そもそも転生の仕組みが分かってないんだから、仮に二人揃えたって、何が起こるかなんて誰にも分からない」
言いながら、自分の口がやけに滑らかなのが気持ち悪かった。用意していた台詞だからだ。
「仮にマンテを探しだせたとして、その次に必要なのは魔法を使うことだぞ。それはもうこの世界の理を外れてる。人探しとは次元が変わってくる」
平坂は表情を全く変えず、僕を見ていた。見透かされているようで、早口になるのを必死で抑えた。
「それに、うちは一応進学校だからさ、受験のことも考えないと。いつまでも――」
「やめないわ」
平坂の返事は、即答だった。
「なんでだよ」
「なんで、ですって?」
「今の世界の、何が不満なんだ」
言ってしまってから、しまった、と思った。
だが、止まらなかった。二週間ぶんの澱が、勝手に押し出されてくる。
「学校があって、家があって、飯が食えて、雨に濡れなくて済む家がある。あんたなんか、お嬢様に生まれて、みんなにちやほやされて。前の世界に、それ以上の何があるんだよ。戦いの果てに心臓を貫かれて死んだんだぞ、あんたも僕も」
「……ほう。ならば聞くが」
平坂の目の色が、変わった。
「お前は、この世界で何をした」
「は?」
「剣を捨て、正義も捨て、危険を避け、醒めた顔で一歩下がったところから世界を眺めておるだけの男が、なぜ知ったような口をきく」
「……なんだよ、それ」
「前世でもそうじゃったろう」
平坂は、テーブルに身を乗り出した。
「勇者ユグレト。あやつはいつでも、自分が正しい側にいると信じて疑わなんだ。疑うということを知らぬ男じゃった。今のお前も同じじゃ。何ひとつ賭けておらぬ癖に、賢しらに『やめないか』と来おった」
胸の中心を、十五年ぶりに貫かれた。
言い返せなかった。
言い返せない理由が、自分でも分かっていた。彼女の言っていることが、僕が自分に向けて考えていたことと、ほとんど同じだったからだ。
僕が絞り出した次の言葉は、一番言ってはいけないことだった。
「……そうやって、人のことばかり言うんだな」
「なに?」
「僕は少なくとも、この世界で生きてる人間のことを考えてる。あんたは自分のことしか考えてないだろ!」
平坂の表情が、すっと消えた。
「……そうね」
低い声だった。
「私は、自分のことしか考えていない」
グラスの氷が、からん、と音を立てた。
「悪かったわね。付き合わせて」
しまった、と思った。
僕が言いたかったのは、そんなことではない。いや、少なくともこんな言い方をしたかったわけではない。
だが、謝るには、言った言葉が的確で鋭利すぎた。
雨の音だけが、やけに大きい。
何もできなかった。
僕は自分のアイスコーヒーを見つめ、平坂は窓の外を見ていた。曇ったガラスの向こうは、何も見えないはずなのに。
「あの」
どうしようもない沈黙の中で、宮森さんが声を上げた。
「再来週、うちの近くで夏祭りがあるんですけど」
僕と平坂が、同時に彼女を見た。
「屋台がいっぱい出て、花火も上がるんです。うち、毎年お店休みにするので、その日は暇なんですよね」
一体何の話をしているのだろう。
この張り詰めた空気の中、この子だけが、まったく違う気候の中にいた。
「三人で行きませんか?」
――今もって、僕には分からない。
あれが、僕たちを見かねて気を利かせたのか。それともいつも通り、何ひとつ空気を読んでいなかったのか。
ただ、確かなことがひとつある。
あのとき彼女がそう言わなければ、僕と平坂の関係は、たぶんあの雨の日で終わっていた。




