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残響  作者: ことは
8/22

第8節

鳴り響く、着信音。

私は、ぼんやりと、それを見つめていた。

「謝らないと…。」

言い聞かせるように、囁く。

体を起こそうとしても、痛みで動かない。

散乱した服と、乱れた布団が、肌に触れる。

それさえも、痛い。

震える腕を這わせる。

触れた頬に、伝うのは、鋭い痛み。


あれは、私を、おもちゃだと思っている。


それを確信した時、雫が溢れ出した。

私は、おもちゃ。

私は、ただのおもちゃ。

私は…。


リビングからは、静寂が鳴り響いている。

家鳴りが、私の心を蝕む。

時計の針の音が、私の頭を突き刺す。

ゆっくりと起き上がった肌に、冷たい空気が纏う。


私は、服を着ることさえ忘れ、階段を摺り降りる。

そのまま、ふらふらと浴室へ倒れ込み、蛇口を握った。

手が滑り、何も出ない。

まるで、私の思考の様に、シャワーから、ぽたぽたと水滴が舞う。


この穢れを、全部捨てたい。


それだけが、真っ暗な心の奥底に、波紋を描いていた。

何度も、蛇口を握り直し、ようやく出た冷水に、全身の痛みが悲鳴を上げる。

なのに、何も苦しくない。

ただ、その痛みが、穢れた私を罰してくれている様で、それに縋った。

頬に流れ続ける冷たい温もりが、私の嗚咽を掻き消す。

口の中から這い出る幾つもの雫に、私は呼吸を忘れる。

排水溝へと消えていく、ひとつひとつの私。

私は、それを見つめ、私を嘲笑った。


水の弾ける音が、心地いい。

壁にもたれ掛かり、座り込んだ体に、幾つもの冷たい棘が刺さる。

その棘が生まれゆく場所を、ぼんやりと見つめている。

そこには、何もない。

私の全部は、もう排水溝の奥へと沈んだ。

透明なせせらぎに、未だ赤が滲んでいる。


ゆっくりと挙げた腕が、瞳に刻まれる色彩を溶かした。

白濁の吐瀉物が、手のひらにこべりついているように、その色彩へと滲む。

私の穢れは、二度と消えない。

この幾つもの痣が、いつか消えたとしても、それだけは、変わらない。


もう、どうでもいい。


もう、どうでもいいはずなのに。

どうして、こんなに痛いの。

体の中で反響する痛みだけが、悲鳴を上げていた。


叩きつける床に、皮膚が弾ける。

飛び散る赤が、どこか綺麗で、私を飾る。

それを押し潰す様に、何度も叩きつける。

声にならない声が、その旋律を覆い尽くす。

やがて、その手は、私を殴り続けていた。

腫れ上がる太ももは、あれにつけられた痣に消える。

握りしめた拳に、爪を抉り、小さな温もりが腕を這う。

それを飲み込む様に、私は手首を噛んだ。

そこには、何も感じない。

痛みも、不快も、嫌悪も、記憶も。


シャワーから奏でられる冷水の旋律だけが、全てを洗い流す様に、子守唄を奏でていた。



私は、眠っていた。

体を打ち付ける冷水を布団の様に纏い、夢を見ていた。

止まらないシャワーの音が、雨音の様に、耳に触れる。

真っ暗な部屋の中で、私は、ただ歩いていた。

聞こえてくる声。

私の声。

私を嘲笑う声。

私を責める声。

私の嫌いな声。

私の声。


「君が、私に押し付けてきたことだよ。」

冷たい旋律に、私は、夢から逃げた。



戸棚から引き摺り出したバスタオルに、幾つものカノンが降り注ぐ。

それは、私の瞳には、彩られない。

握りしめたそれを見つめ、私は、何をしようとしていたのか、思い出せずにいた。

二階から、着信音が鳴り響いている。

その旋律に、私は意識を取り戻し、握りしめたそれを引き摺りながら、階段を登る。

濡れた手に握る手すりが滑る。

私は、そこへ倒れ込んだ。

もう、立ち上がる力は残っていない。

見上げる先に、ドアの開いた私の部屋が虚ろに揺れる。


どんどん。


背後に響く、巨大な旋律に、私は固まった。

「ゆり、居るの?ゆり、開けて。あやめだよ。」

その旋律は、玄関から響いていた。

「ねえ、ゆり、大丈夫?ゆり、ねえ。」

今も響いている、着信音。

「居ないの?ゆり、居るなら、返事だけでもして。」

私は、ゆっくりと立ち上がり、玄関へと這い摺る。

その痕跡を彩る様に、透明なせせらぎに赤が滲む。

「どこに行ったんだろう…。」

二階から再び鳴り響き始めた着信音に紛れ、目の前のドアの向こうから音色が漏れる。

靴を掻き分け、体を這わせ、鍵へと手を伸ばす。

震える腕に、手のひらから零れ落ちる赤。

ようやく鍵を開けた時、もうそこには、音色は残っていなかった。


「行かないで…。」

その小さな囁きが、ドアに反響する。

私は、ドアノブに両手を紡ぎ、ドアに体重を乗せる。

ゆっくりと開かれるドアに、空の頂きを彩る陽光が、私を突き刺した。

その惨めな色彩に、振り返ったのは、あやめ。

スマホが落ちる音が、庭先に鳴り響く。

二階からの着信音が、いつのまにか消えていた。


可愛く着崩した制服。

頭に揺れる黄色いリボン、真っ白なブラウス、靡くミニスカート。

そのどれもが、可憐なあやめを煌めかせている。

そのどれもが、あやめの大切な宝物。

少しでも汚れるだけで、いつも嘆いていた。

なのに、あやめは、それを水と土の中へと汚した。

それを隠す様に、私を包み込む柔らかな音色。

その腕から伝わる温もりが、私を溶かしていく。

「ごめんね、ゆり。ごめんなさい。本当に、ごめんね。」

叫びの様な嗚咽が、空を劈く。

「帰さなかったら良かった。一緒にいれば良かった。ごめんね、ごめんね…。」

この温もりだけが、私の唯一の拠り所。

私は、ただ、それに身を委ねた。


共鳴する嗚咽。

泥まみれの制服。

画面の割れたスマホ。

大切なあやめ。

穢れた私。


閉ざされた玄関のドアが、私たちを世界から切り離す。

かけられたバスタオルが、小さな温もりを奏でている。

私を包み込む、あやめの柔らかな色彩が、私に私を与えてくれる。


「ごめんね…。」

「ゆりは、何も悪くない。」

「制服…、汚れちゃった…。」

「そうだね。」

「スマホ、割れちゃった…。」

「そうだね。」

「ごめんね…。」

「ゆりは、何も悪くないんだよ。何も、悪くない。」

「でも、…私は…。」

「ゆりは、私の天使だよ。今までも、これからも。」


重なる頬が、雫に溺れた。

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