第7節
あやめの、あんな音色は、聞いたことがなかった。
「絶対に、許せない。絶対に…。」
夕方になり、あやめに家まで送ってもらった私は、散らかる部屋を呆然と眺めながら、ティールームでの色彩を思い返していた。
あやめは、いつも明るくて、ポジティブで、私にとっての太陽だ。
怒っているところなんて、見たことがなかった。
ただ、あやめは、怒っていても、冷静だった。
私たちでは解決できないことを、彼女は理解している。
だからこそ、どうすれば良いかを、必死に考えてくれた。
今も、頭がうまく回らない私にとって、あやめは、救世主の様に感じる。
それでも、あの事を、他の誰かに知られるのは、辛かった。
「私、お父さんに相談してみる。先生にも、一緒に相談しよう。」
だから、私は、この力強い音色にも、小さく首を振ってしまった。
ただ、あんな事されたなんて、知られたくなかったから。
その代わり、あやめは、たくさんのアドバイスをくれた。
その一つが、ドアを外から開けられない様にする事。
ドアノブの下に、物を置くだけで、それは叶う。
この家は、ずっと怖い。
あの人が、何より怖い。
でも、ここだけは、守られる。
きっと、守ってくれる。
私は、散らかった部屋を、片付け始めた。
あんなに、何も気にならなかったのに、あやめの音色が私の心に反響した刹那、この乱れた色彩に、どうしても、もやもやしてしまった。
散らばったコスメをまとめ、可愛いペン立てに並べていく。
ウサギとクマがお茶会をしてるイラストが、私に微笑みを奏でてくれる。
幾つものぬいぐるみを、棚に飾り、そっと撫でた。
「ごめんね…。」
ぬいぐるみの柔らかな顔が、私に微笑みかけてくれる。
散らばった衣服をたたみ直し、下着を小さく折りたたんでいく。
教科書を並べ、ノートを添わせ、ステーショナリーを立てていく。
少しずつ綺麗になりゆく部屋に、私は柔らかなため息を奏でた。
その中に、一つの絵本が彩られる。
それは、私の宝物。
ずっと、宝物だった物。
ママが、毎日、読んでくれた絵本。
「そういえば、私、絵本作家になりたかったんだ…。」
その宝物をゆっくりと抱きしめ、ぬいぐるみの棚の隅へ飾る。
端はよれ、カバーの縁が少し破れている。
何度も、何度も、読み返した、私の足跡。
寝る前の、何よりの楽しみだった。
あの頃の私の、大切な光だった。
だから、私も、誰かの光を紡ぎたかった。
今も、その気持ちに変わりはない。
ただ、私には、文才がない。
ノートに描いた幾つもの物語は、小さな詩となって、幕を閉じる。
絵本のために紡ぎ始めたノートが、今では詩集になっている。
少し恥ずかしくて、誰にも見せられない、私の想いの旋律。
絵本の横に並べられた、何冊ものノートが、私をママの元へと還した。
忘れていた、最後の日。
ママは、小さく囁いていた。
「あなたに、うばわれた。」
うまく聞き取れなかった、その小さな旋律が、鮮明に蘇る。
でも、その意味は、今もわからない。
もし、また会えたなら、ちゃんと聞きたい。
あの何よりも辛そうな顔を、笑顔に変えられるくらい、ママに尽くしたい。
でも、もし、その顔の原因が、私だったら…。
あの時の残響に、引き摺り込まれそうになる。
それは、無意識のうちに。
窓を打ち付ける雨が、ぼんやりとした視界を切り裂く。
その隅で、影が揺らめく。
「君のせいだよ。」
私の声が、静寂の部屋に反響した。
玄関を開ける音に、私は夢を手放す。
あれが、帰ってきた。
洗面台で浸け置きしている、吐瀉物に汚れた下着。
それを片付け忘れていることに気づき、慌てて、部屋を出た。
本当は、捨てようと思っていたけど、それを買い直す余裕は、無い。
だから、すぐに洗濯機に入れられる様に、一階の洗面台を使っていた。
それは、これから、あれと顔を合わせるかもしれないということを、意味している。
だけど、あれに、私の下着に触れられることが、とても悍ましく感じた。
無意識に駆け降りる階段の音色は、いくら耳を塞いでも、家中に響き渡る。
幸い、浸けられたままだった下着を、洗濯機に入れ、私は胸を撫で下ろした。
その刹那、歪な音が、私の背中を突き刺す。
「ゆり、体調はどうだ。学校は、どうだった。」
柔らかく、刺々しい不協和音。
その悍ましい旋律に、私は動くことができずにいる。
鼓動が、身を切り裂く様に反響する。
逃げたい。
でも、動けない。
今日になって、ようやく口にすることのできたものが、溢れ出そうになる。
あんなに美味しかった紅茶が、不快感となって、喉に詰まる。
「まだ、辛いのか。ケーキを買ってきたんだ。良くなったら、食べに降りておいで。」
ふわりと奏で、去り行くあれは、私に鉄塊を振り翳す様に、苦痛だけを残していった。
背中に感じる、ドアの閉まる音。
私の耳に、それが触れた瞬間、階段を駆け上がろうとした。
そうしたかった。
なのに、足が、前に出ない。
無理矢理、それを奏でようとした私は、その場に崩れ落ちた。
乱れる呼吸が、私の身を焼こうとする。
ほんの少し前まで、私は私に触れていたのに、今は厚い膜に拒絶されている。
「あやめ…ちゃん……。」
縋る様に奏でる音色は、指の隙間から零れ落ちる。
この家には、もう居られない。
必死に手すりを握りしめ、一歩ずつ重い足を階段に彩り、ようやく辿り着いた部屋で、私は一つの答えを手繰り寄せた。
ドアノブを見つめる。
何も無いかの様に彩られる部屋が、私を繋ぎ止めてくれる、唯一の旋律。
これを掻き消すように、鼓動が反響する。
私は、思わず、白いリボンを握りしめた。
消えていたはずの雨音が、窓を叩きつける。
私は、耳を劈く鼓動に滲む影を、ぼんやりと眺めていた。
その影の立つ場所に、小さな本棚が揺らいでいる。
そこに置かれた数冊の本は、あやめとの二人暮らしを夢見て買った、レシピ本。
大学を夢見るよりずっと前、付き合って間もない頃から何度も読み返し、何度も試した思い出の本。
もう、全部のレシピを覚えてしまい、読み返すことも無くなった。
私は、それを両手に抱え、ドアノブの下へ置いた。
ドアノブは、少し動くものの、ドアが開く心配は無いように感じた。
私は、その小さな安心感に、そこへ座り込んだ。
三段の一番上に立てられた本を、中段へと移す。
空洞に挟まれた、ずっと夢見た、あやめとの未来。
私は、それを飾りつけるように、白いリボンを上段に彩った。
テーブルの上で、小さく震えるスマホ。
画面を開くと、あやめが、心配そうに、いくつものメッセージを紡いでくれている。
私は、元気であるかのように、言葉を紡ぐ。
部屋を片付けていて、気づかなかったと、何度も謝りながら。
ティールームで、あんなに話したのに、まだまだ、話題は尽きない。
歪みゆく画面に、私が微睡みに触れていることに気づく。
ゆっくりと体を起こし、スマホをテーブルに置く。
今、何時だろう。
そう思った頃には、もうスマホは手の届かないところに彩られている。
腰を下ろしたべっどが、柔らかく沈んでいる。
私は、崩れるように体を倒し、天井を見つめた。
今日こそは、何も起きませんように。
きっと、もう大丈夫。
明日こそ、学校に行こう。
願いにも似た祈りの中に、私は意識を手放した。
もう、雨は降っていないみたい。
あまりの静寂に、意識が揺らぐ。
いつの間に眠ったのか、わからない。
時計の針が、部屋を包み込むように旋律を奏でる。
カーテンの隙間から漏れる月明かりが、淡く部屋を彩る。
私は、その穏やかさに、心を溶かしていた。
がたん。
来た。
そうなる事は、知っていた。
それでも、鼓動が跳ね上がる。
本棚が、ドアノブにぶつかり、揺れている。
その小さな隙間が、私の心を侵食する。
何度も揺らされる本棚。
その上で、激しく踊るドアノブ。
それにより、鳴り響く旋律。
私は動けないまま、それを見続けた。
溢れ出す雫が、枕を濡らしていく。
来ないで。
その祈りが、薄暗い部屋に沈む。
開くはずがない。
その願いが、騒音に掻き消される。
がたん、がたん。
私は、ベッドの上で両手で口を覆い、その旋律を防ごうと抗う。
それが、何も意味を持たぬと考える余力すらなく、ただ雫に溺れる。
吐息を忘れた嗚咽が、私の意識を混濁させる。
「あやめちゃん、助けて…。」
それが、音色となって紡がれたのかは、わからない。
ただ、溢れる思いだけが、私に反響する。
静寂。
それは、突然、訪れた。
諦めたのだろうか。
あやめのアドバイスは、正しかった。
時計の針の音色が、再び部屋を支配する頃、私は、それを信じた。
それでも、鼓動は鳴り止まない。
雫だけが、月明かりに溶けていく。
私は、私を取り戻すように、深く息を吸い込む。
それを吐き出す刹那、鈍い金属音が、本棚に弾んだ。
揺れ続けた本棚と、その衝撃で、白いリボンが舞い落ちる。
「逃げられないよ。これは、二回目だから。」
穏やかに流れる音色。
慰めるように、寝かしつけるように、微笑むように。
私の声が、私を、悪夢へと突き落とす。
それは、まるで、本棚を跳ね、床に転がり落ちたドアノブの様に。
ドアを貫いた小さな穴から、悍ましい目が、私を覗いているように感じる。
だから、そこから目を離せずにいた。
落ち着いてきたはずの鼓動は、もう既に、体を切り裂く様に爆ぜている。
ゆっくりと、穴を這い出る、細い影。
それが、何なのかを知るより先に、ドアが僅かに動く。
それは、私を絶望へと落とした。
ばん。
本棚が倒れた音なのか、ドアが開いた音なのか、私に知る必要はない。
ただ、その悍ましい揺めきだけが、私の知るべき事。
「お前、もうしないと約束したよな。」
それは、蹴り上げられた本棚と共に、部屋に響き渡った。
聞き覚えのある声の、聞き覚えのない旋律。
あれから紡ぎ出される乾いた空気が、私を押し潰す。
私は、ただ、両手で口を塞いだまま、それを見つめ続けることしかできずにいた。
近づくあれの歪な色彩が、私を覆う。
来ないで、触らないで、助けて。
目を見開き、その想いをぶつけるように、それを見る。
だから、口元がにやりと蠢くのを、私は知った。
その刹那、頬に弾ける旋律が、私の視界を奪う。
瞳に映る全てに星が爆ぜ、痛みがカノンする。
「これを、求めているんだろう?」
あれの不快な旋律が、私の耳を舐めた。
聳え立つあれが振り翳したのは、足。
振り下ろされたのは、私のお腹。
声無き叫びが、静寂を切り裂く。
「ごめんなさい…。」
それを紡げるまでに、どれくらいの時間が経ったのだろう。
奏でられ続けた痛みが、コンチェルトの様に、私に刻まれていた。
そして、それは、未だ終演を知らない。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。」
一つの音色が、堰き止めていた音色に呼応する。
ただ、救いを求める祈りの様に、それを唱え続けた。
やがて、新しい痛みが紡がれなくなったころ、私は顔が膨れ上がる様な苦しみに踠く。
その固く不気味な二つの手が、私の首を強く包み込んでいた。
「か…は…。」
もう、ごめんなさいとさえ、言わせてもらえない。
口をどれだけ大きく開けても、そこには、空気は入ってこない。
その触れたくもない手を握りしめ、取り除こうとしても、微動だにしない。
ただ、溢れ出す雫だけが、それに抗っていた。
「お…えん…な…はい……。」
必死に紡ぐ言葉は、何を紡いでいるのかさえ、わからない。
それを塞ぐ様に、何かが私の口へと侵蝕する。
それは、あれの口から垂れ流れる汚物。
私は、顔を背け、瞳に映る全ての色彩を拒んだ。
その刹那、私の首は、苦しみから解き放たれる。
代わりに紡がれたのは、硬い痛み。
少しずつ、何も感じなくなっていく私の体を、月明かりだけが見守っていた。
それをぼんやりと見つめながら、私の中を這う不快に溺れる。
もう、私を撫で回す悍ましい色彩も、私の瞳には映らない。
逃げられない、逃げる事は許されない。
その真実だけが、私の心を満たしていく。
頬を伝う雫に、私の中の私を零す様に。




