第6節
ぐちゃぐちゃになった部屋、クローゼットから引っ張り出すキャミソール。
掛けられた制服を握り締め、ふらつく体を支える。
散らばるコスメに触れる勇気は、どうしても生まれなかった。
それでも、学校に行こうと思ったのは、ここに居たくなかったから。
昨日、あやめと約束したから。
もう、私の聖域は、あそこにしか残されていないから。
「リボンは、つけなきゃ…。」
言い聞かせるように囁く。
きっと、今日も、あやめは、リボンをつけてくる。
だって、私たちは、約束したから。
二階にある洗面台。
普段は、使わない。
いつも、リビングで、最初に、おはようって交わすから。
埃一つない純白に、私が濁り落ちる。
戸を開け、綺麗に並べられた新しい歯ブラシを取り出す。
大好きなピンクは、もう無くなっている。
でも、それは、どうでもいい。
ゆっくりと立ち上がると、眩暈が私の心を掴んだ。
握りしめた棒、それが何なのか、少し戸惑う。
ただ、ぼんやりと見つめ、それに吸い込まれそうになる。
部屋で、アラームが鳴り出した。
その音色に、私は現実に触れた。
水を流す音が、耳を撫でる。
その冷たさに、昨夜の不協和音が蘇った。
体の力が抜け、崩れ落ちる。
息を吸っても、何も入ってこない。
その苦しさに、何度も吐息を奏でる。
肩を揺らし、雫が爆ぜ、嘔吐くように、空気をかき集める。
どれだけ、こうしていただろう。
水の音だけが、私の耳を貫いている。
私は、洗面台の縁を掴み、ゆっくりと立ち上がる。
揺れる視界と意識。
湧き上がる吐瀉物が、流れる水と、透明に混ざり合い、吸い込まれていく。
そこに、私も委ねることができたなら。
ただ、雫だけが、それに抗うように、水面に奏でていた。
歪な鏡に、微笑みを取り繕おうとする。
もう、そこには、私は写っていない。
ただ、ぼんやりと何かの輪郭だけが揺らいでいる。
それでも、私は微笑みを奏でようとした。
笑顔で、おはようって言うの、何があっても。
いつのまにか、交わされていた、言葉のない約束。
それだけが、私に表情を与えてくれる拠り所。
零れ落ちる雫に、歪な微笑みが、不協和音を奏でていた。
ゆっくりと階段を降りる。
下腹部に疼く痛みが、足を重くさせる。
私は、手すりを握りしめ、まだ立っていることを確認する。
リビングから漏れ出す音。
テレビから、ニュースが流れている。
連続婦女暴行事件、少し前から世間を騒がせている話題。
でも、私には、どこか遠い世界の物語だった。
今は、全部が、遠くに感じる。
私は、リビングを避けるように、玄関に腰を下ろした。
靴の履き方が、わからない。
どちらが右で、どちらが左かさえ、何もわからない。
ただ呆然と、その歪な色彩を眺めていた。
がちゃ。
背中を貫く音色に、私は肩を震わせる。
「おはよう。朝ごはんは、食べないのか。」
あれの音が、耳を舐め回す。
「今日は、学校に行くんだな。あやめちゃんが心配していたよ。」
全部、聞こえている。
なのに、意味が全然わからない。
ただ、その不協和音が、とても不快だということだけは、わかる。
私は、逃げるように、靴に足を突っ込み、ドアを開けた。
「いってらっしゃい。気をつけてね。」
突き刺さる旋律が、背中を這う。
閉ざされゆくドアに、それを擦りつけるように、私は俯いた。
煌びやかな陽光が、私を突き刺す。
駆け出すように門を出た足が、ゆっくりと止まりゆく。
行き交う笑顔が、とても幸せそうで、私には辛かった。
ここに崩れ落ちてしまいそうな旋律が、私の体に反響する。
行かなきゃ。
それでも、私が足跡を奏でるのは、あやめが居るから。
学校だけが、私に残された聖域だから。
私は、私の影を見つめ、何度も言い聞かせた。
ちゃんと、おはようって、言えるのかな。
ちゃんと、笑顔を彩れるのかな。
ちゃんと、いつものように、楽しいって奏でられるのかな。
ちゃんと、あやめを安心させることができるのかな。
ねえ、もし、私が消えたら、私のこと、忘れてくれるかな?
突然、感じた、背中に触れられる感覚に、私は跳ね上がった。
「ごめんね。何度も、声をかけたんだけど…。」
優しい音色。
大好きな音色。
大切な音色。
私の、唯一の救いの音色。
振り向いた私は、溢れ出す雫に溺れた。
私を包み込む柔らかな温もり。
嘲りに感じる、行き交う人々の視線から守るように、あやめが抱きしめてくれている。
それを気づかせないように、微笑んでくれている。
その何よりも鮮やかで、何よりも綺麗な旋律に、私の嗚咽が共鳴する。
重なり合う吐息が、私の揺らぎを支えてくれる。
繋がる額から流れてくる想いが、私はここに居るよと教えてくれる。
「ごめんね…、ごめんね…。」
本当は、ありがとうって言いたいの。
本当は、大好きって言いたいの。
なのに、口から溢れる音色は、ひとつだけ。
「大好きだよ。ゆり。」
絡み合うまつ毛が、柔らかな旋律に触れた。
「ねえ、今日は、学校サボっちゃおう。」
首を傾げながら、あやめが微笑む。
「昨日だって、夜に外出しちゃったんだし、私たち、もう不良だよ。」
私を包み続けてくれる手が、背中を優しく撫でてくれる。
「ゆりも、共犯だからね。」
ゆっくりと立ち上がる二つの影に、私は小さく頷いた。
私は、一人で歩けなくなっていた。
足の進め方が、わからない。
さっきまで、知っていたのに。
あやめに触れた瞬間から、私の体が私の体じゃなくなっていた。
なのに、あやめが触れてくれているところだけは、私を感じる。
そこだけが、あやめだけが、私が私である証。
そんな気がして、私は、あやめに体を委ねてしまった。
蹌踉めく影。
あやめが、私の頭を撫でてくれる。
「ゆりは、いつも、甘えん坊だね。」
その柔らかな音色に、私の足が私を取り戻した。
「もうすぐ、着くよ。」
あやめの指差した先にあるのは、初めて見る店。
「このティールーム、最近できたらしいよ。」
ぼんやりと見つめる私に、あやめは声を弾ませる。
あやめは、紅茶が嫌いなわけではない。
でも、ずっと興味を持ってくれなかった。
私の淹れた紅茶は、いつも美味しいって、たくさん飲んでくれる。
でも、お店で飲もうとはしなかったし、お店を探すことなんて、一度もなかった。
なのに、あやめは、見つけてくれた。
探してくれた。
それが、どれだけ、私に色彩を与えてくれるか。
それが、どれだけ、私に旋律を与えてくれるか。
それが、どれだけ、私を救ってくれるか。
それが、どれだけ、私を幸せへと包んでくれるか。
今は、そのどれも、触れるのが、怖い。
それでも、その温もりは、私を逃さないように抱きしめてくれる。
溢れ出る雫と共に、私は、大きく頷いた。
「…ありがとう。あやめちゃん。」
やっと言えた小さな旋律が、私たちの絡まる指を、強く結んだ。
「私こそ、ありがとう。」
あやめの柔らかな音色が、私の頬を優しく撫でた。
「すいません、隅の席でもいいですか?」
あやめは、こんな事を言ったりはしない。
私と同じように、どこの席でも気にしない子だった。
なのに、今日だけは、隅がいいと想いを告げた。
「どうしたの…?」
私は、背中越しに、あやめへと囁く。
「今日は、何だか、隅に座りたい気分なのよ。」
振り返るあやめの笑顔に、私は少しだけつられた。
「やっぱり、ゆりは、笑顔が一番可愛いね。」
店員さんの視線を気にすることもなく、あやめは私の頭を優しく撫でてくれた。
「特等席。」
その弾む音色と共に、あやめは、椅子を引いた。
いつもなら、壁を背に座るのが好きなのに、私の隣に座っている。
幾つもの賑やかな音色が、背中に触れる。
それが、何だか怖くて、私は腕が震えている事を知った。
それを包み込むように、あやめは、私に寄り添う。
「ほら、見て。ゆりの好きな、茶園物もたくさんあるんだよ。」
メニューを開きながら、あやめが微笑む。
「マーガレットホープの…夏…?が、好きなんだっけ…。」
首を傾げながら、私を覗き込むあやめに、私は小さく微笑んだ。
「うん。去年は、それが一番おいしかったよ。」
あやめが、私の好きをたくさん見てくれている。
たくさん覚えようとしてくれている。
それが、何より嬉しかった。
「今年は、違うの?」
あやめは、不思議そうにメニューを見ている。
「毎年、少しずつ変わるの。今年は、どこが一番おいしいのかな。」
テイスティングによって奏でられた色彩が、小さく書かれている。
それを見つめながら、私は、好みのお茶を探した。
「全部頼んで、飲み比べしちゃう?」
あやめが、いたずらっぽく微笑んだ。
「そんなに、お金ないよ。」
私は、柔らかな微笑みに、弾む音色を囁いた。
「お姉さんに、任せなさい。臨時収入があったから。」
あやめは、胸を小さく叩き、誇らしげに奏でる。
「じゃあ、半分ずつにしよう。」
私は、あやめの肩に寄り添い、そっと囁いた。
「それじゃあ、いつもと同じでしょう。」
あやめの柔らかい音色が、私の頭を撫でる。
結局、私たちのテーブルは、次々と運ばれてくる紅茶に彩られた。
「お店で紅茶を飲むの、初めてかも。」
あやめは、楽しそうに微笑む。
「でも、ゆりの淹れた紅茶が一番好きだな。」
小さく囁くあやめの旋律に、私の心は大きく弾む。
「ありがとう。」
私の微笑みが、湯気に煌めいた。
「ねえ、フレーバーも飲んでみない?」
ティーカップの重なる音色に溶け込むように、あやめが微笑んだ。
メニューに描かれた、幾つものフレーバー。
「アールグレイもフレーバーなんでしょう?」
あやめの音色が弾む。
「アップルとか、レモンならわかるけど、アールグレイもだなんて、面白いね。」
「色んな名前のフレーバーがあるよ。アールグレイでも、色々あって、私は、フレンチブルーが好きなの。」
「ブルーって、青いの?」
「青いお花が入っているの。」
こんな小さな会話も、特別な時間。
ずっと、そうだったけど、今の私にとっては、なおさら。
「ねえ、前に言っていた、ますかる?フレーバー?もそうなの?どんな香りなの?」
「そうだよ。でも、着香したものじゃなくて、葉っぱに虫さんが寄って来ちゃうのを、あっちに行ってって、葉っぱが香りを出すの。それがブドウみたいな香りなの。だから、マスカテルなの。」
「なら、マスカットフレーバーでいいのにね。このままだと、マスカルポーネの香りかと思っちゃう。」
「あはは、確かにマスカテルとマスカルポーネは似てるわね。あやめちゃんは、いつも鋭いね。」
私は、いつのまにか、笑う事を思い出していた。
それがどうしてか、私は知っている。
だって、いつだって、あやめは、私を、嬉しいに導いてくれるから。
「ゆりって、お茶を飲む時は、いつでも幸せそうだけど、失敗したことはないの?」
「それがね…、あるの。缶が可愛いブランドがあってね。私、紅茶を飲み始めた頃に、見た目に惹かれて買ったの。」
お小遣いを貯めて買った、遠い思い出。
あの頃は、まだ、ママが居た。
「それでね、蓋を開けたら、本当に良い香りで。もう、たくさん期待しちゃって。すぐに淹れたの。」
穏やかな瞳で、私を見つめる、あやめ。
その温もりが、あの頃、ママに感じた安らぎに似ている気がした。
「そしたら、本当に、もう…。賞味期限が切れてるのかなって思うくらい…。蓋を開けたまま、何ヶ月も置いてたのかなって思うくらい…。」
その小さな記憶に、思わず、両手で顔を隠してしまう。
「美味しくなかったんだね…。」
「…うん。」
何故だか、それがおかしくて、二人で微笑み合った。
「ゆりは、どんなお茶でも美味しく飲むと思ってたよ。」
小さな笑い声を奏でた後、あやめは、静かに吐息を紡いだ。
「私、ゆりのこと、何でも知ってるつもりだったけど、まだまだ、知らないことも、いっぱいあるんだね。」
その穏やかな微笑みが、私を包み込む。
「いつか、ちゃんと、全部、知りたいな。嬉しいことも、辛いことも…。」
私の鼓動が、その穏やかな音色に、共鳴した。
あやめには、何も隠したくない。
あやめには、知っていてほしい。
あやめには、全部、話したい。
あやめに、助けてほしい。
「あのね…、あやめちゃん…。………聞いてほしいの…。」
私は、あの日のこと、あの日からのこと、全部を話した。
嗚咽に途切れ、記憶が錯交し、旋律が乱れ、色彩が輪郭を失っていても、言葉にならなくても、雫に溺れながらでも、呼吸を忘れるほどに、ただ縋るように。
それが伝わらなくても、あやめは聞いてくれた。
静かに、私を見つめ続け、その柔らかな腕で、優しく私を包み込みながら。
私たちの雫が、静寂の海となって混ざり合う。
その蒼く深い底に紡がれる、二人だけの世界。
その鮮やかな色彩に、絡め合う指に旋律を重ね、私たちは、ここに居るよと、確かめ合った。




