第5節
絡み合う指。
その温もりだけが、私の真実。
まだ、夢の中にいるようで、この瞳を過ぎていく色彩が、輪郭を失っている。
ただ、路地に反響する二つの足音だけが、私が歩いている事を教えてくれた。
「ねえ、本当に、帰っても大丈夫なの?」
あやめが、私の顔を覗き込む。
その瞳が、不安を奏でているようで、私は意識が抜け落ちる感覚に揺れた。
「本当は、泊まりたいけど、お父さんにもお母さんにも黙って出てきちゃったから…。」
その柔らかな音色と共に、あやめがスマホを取り出した。
「ね、見て。この履歴。全部、お父さんとお母さんなんだよ。」
その微笑みが、私を包み込む。
「もう、本当に、厳し過ぎ。」
明るく彩るため息が、私を優しく包み込もうと、吐息に揺れる。
「ごめんね、私のせいで…。」
なのに、私は、こんなことしか紡げない。
それしか、言葉が浮かんでこない。
他の音色を紡ごうとしても、口が硬くて動かせない。
でも、それでも、あやめが来てくれた。
だから、私も、歩かないと。
もう、これ以上、心配をかけたくない。
何があっても、明日は、学校に行く。
握りしめた手が、痛みで痺れる。
それが、揺らぐ私の心を強く引き止める。
「無理しなくていいんだよ。」
あやめが足を止め、私をそっと包み込んでくれた。
このまま、全部、委ねてしまいたい。
もう何も考えず、あやめの中に沈んでいきたい。
私は、あやめの胸に顔を埋め、その雫を隠した。
街灯が、ぱちぱちと点滅している。
生まれては消える影に、私は少し懐かしさを覚えた。
小さな子守唄が、私の中で反響する。
ふらふらと紡いできた足跡が、私の住んでいる場所へと繋がった。
でも、これ以上、動けない。
「ねえ、ゆり、私の家に来る?」
絡み合う指を引き寄せ、あやめの頬が、私の頬へも重なる。
「ごめんね、平気…。」
家に帰るのが、怖い。
でも、帰らないのは、もっと怖い。
どうしてか、わからない。
ただ、日常を取り繕わないと、全てが崩壊してしまいそうで、私はここに留まり続けた。
まるで、それが義務であるかのように、私が私である為かのように。
リビングの窓から漏れ出す光に蠢く影が、警報音のように、私を劈く。
「あやめちゃん…、一緒に…きてほしいの…。」
一人で入るのが怖い。
私の家だと思っていたものが、今は歪つな旋律を奏でる不快な森へと彩られている。
だから、せめて、その奥にある私の鳥籠までは、愛する人に寄り添ってほしい。
ぽたぽたと、コンクリートを染めていく雫が、私の足を絡め取る。
本当は、あの場所に、行きたくない。
そう言えばいいのに、そう思えなかった。
何事もなかったと、そう取り繕おうとしていた。
どうして、そんな事を思っているのか、わからない。
なのに…。
「お邪魔します。」
あやめの音色が、玄関に響く。
「あやめちゃん、こんばんは。…ゆり、心配したんだよ。体調が悪そうだな…。大丈夫か?」
可憐な音色に顔を出したあの人が、私を見つける。
その口から吐き出された旋律と共に、その手が私に触れようとする。
私は、思わず体を丸めた。
震えが止まらない。
気持ち悪い。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。
あんなに大好きだったパパの温もりが、パパの手が、あの人の色彩が、あの人の旋律が、あれの全部が…、ただ、気持ち悪い。
「ごめんなさい、パパさん。ちょっと本当に…、具合が悪そうなので、部屋まで連れて行きますね。」
あやめが、私を守るように、包んでくれた。
ゆっくりと上がる階段。
足に感じる視線が、恐怖を思い出させる。
ここを出る前に、無造作に取った服。
それは、よく着ているワンピース。
丈が短くて、最初は後悔してた。
だけど、お揃いのショーパンを買って、隠れた姉妹コーデになった時、お気に入りの一着になった。
たった一つのショーパンだけでも、何かに縋らないと溺れてしまう今の私には、何よりも大切な宝物。
だから、それを履かずにきたことを、後悔した。
何だか、私を守ってくれるものが、何もないかのように、心細くなる。
あやめが、私の腰を強く引き寄せる。
その腕を、震える手で握り締めた。
ショーパンが無くても、愛する人が、そこに居る。
それを忘れないように、ただただ、その温もりに縋り続けた。
階段の下にある、あの人の瞳が、私の心を劈く。
それを見ないように、私たちは、部屋へと入った。
散らかった床。
私は、それを瞳の端に彩りながら、あやめの腕に身を委ねる。
ゆっくりと下されたベッドに、私たちは沈み込む。
「ねえ、やっぱり、泊まろうか。」
笑顔の消えたあやめが、ゆっくりと紡ぐ。
「…。」
私は、声を出せない。
出したくても、息が動いてくれない。
「うん。泊まるね。ちょっと、待ってて。お父さんに電話するから。」
あやめが、ゆっくりと立ち上がる。
ただ、そこから一歩も動こうとはしなかった。
私は、無意識に、あやめの裾を握りしめていた。
「独り…、怖い…。」
やっと出た音色は、リビングから聞こえてくるテレビの音に掻き消された。
「わかった。でも、明日、一緒に怒られてよね。」
その消え入りそうな音色を、あやめは抱きしめてくれた。
明日を見る。
その小さな旋律に、私は、ようやく小さな微笑みを奏でることができた。
「やっと、笑ってくれた。」
そのほんの僅かな色彩さえも、あやめは強く抱きしめてくれる。
隣に座るあやめに、私は寄りかかる。
もっと、温もりが欲しい。
全部を忘れられるくらい、強く痛く苦しいくらいの温もりに、私を沈めてほしい。
あやめの肩が、止まらない雫に濡れていく。
私の背中を優しく撫でる手が、それを加速させる。
私を織り成していたものが、騒がしく散らかる部屋。
枕と布団に紛れ、服や下着が乱れるベッドの上。
そこに寄り添う、ただただ愛する人の腕の中。
二人だけの小さな聖域に、澄んだ嗚咽が反響する。
それを優しく包み込むように、重なる吐息が、私を夢へと誘った。
微睡みの中に響く、ドアの音。
階段を降りる、二つの足音。
やがて、リビングから聞こえてくる、あやめとあの人の声。
何を話しているのかは、わからない。
それを確かめに行く勇気も、気力もない。
ただぼんやりと滲む私の部屋が、かろうじて現実を掴んでいる。
ゆっくりと上がってくる足音に、薄く目を開ける。
小さな吐息が、止まることを知らずに、奏でられている。
私の手は、無意識に、白いリボンを探していた。
ただ、それがどこにあるのか、わからない。
「ごめんね、帰らなきゃ…。お父さんとパパさんが、電話で話してたみたい…。ごめんね…。」
ベッドの前に座り、あやめの顔が、私の瞳へと近づく。
「…ごめん…ね。」
寝息と吐息の狭間に揺れる音色が、私の想いを紡ぐ。
その色彩に触れたいと祈るように、私は手を伸ばした。
絡み合う指が、ほんの少しだけ、安心を奏でてくれる。
「あり…がとう…。」
唇に触れる柔らかさに、私は、再び夢へと落ちた。
「これからは、知らないよ。」
ふわふわと浮かぶ。
真っ黒な空間に、何も触れるものはない。
「これは、君のものなのだから。」
聞こえてくるのは、私の声。
でも、私は、何も話していない。
「もう、私に押し付けないで。」
何かに押される。
それは、手。
私の、手。
でも、それは、私のものじゃない。
真っ暗な空間の隅、その先へと吸い込まれる。
これは、夢。
そう気づいたのは、全身を這い回る不快感のせい。
歪な色彩が、不協和音となって、私に微笑みを彩る。
まだ、夢は、終わっていない。
それは、逃げられない悪夢。
ワンピースすら手放した私は、もう何も守ることはできない。
あやめが奏でてくれた、柔らかな温もりを塗りつぶすように、それが私へと入り込む。
その嫌悪感が、喉を駆け上がる。
声無き声に、悲鳴が体中に反響する。
ただ、それを覆い尽くすように、あの人の揺らぎが、私を支配した。
その冷たい熱が、私の中で弾け飛ぶ。
痛い、苦しい、怖い、辛い、気持ち悪い。
助けて、助けて、助けて、助けて、助けて。
どれだけ叫んでも、そこに音色は生まれない。
塞いでいるのは、私の下着。
それに気づいたのは、吐瀉物に塗れて這い出た純白に、雫が溢れたせい。
あれが、何かを言っている。
でも、それが何か、私にはわからない。
まるで、車の行き交う大通りの真ん中に立たされているように、全てが騒音となって耳を劈く。
ようやく見えた天井は、ぐるぐると回りながら私の中へと落ちていく。
もう、どこが上で、どこが下で、どこが右で、どこが左で、ここがどこで、私が何なのかさえ、わからない。
何も、わからない。
ただ悍ましさだけが、私に振り翳してくる。
お願い、助けて。
…誰か。
その祈りだけが、私の見えない月へと、静かに奏でられた。
顔を背け、乱れたシーツが、瞳に彩られる。
何かわからないものが、私の体を濡らす。
吐瀉物に沈む髪が、その異臭を紡ぎ、私をここに繋ぎ止める。
それを流していくように、止まらぬ雫が、私の意識を閉ざしていった。
虚ろになりゆく色彩に見たのは、小さなテーブルに置かれた、白いリボン。
それに手を伸ばそうと踠いても、大きな手が、私の枷となった。
もう、私を、消して。
私の首筋を握り締める、悍ましい二つの手に、私は願いを込め続ける。
「今日は、静かだね。ちょっと、残念だよ…。」
ようやく理解できた、あれの音色に触れた刹那、何かが切れた。
そうか、これは、パパなんだ。
じゃあ、私は、何?
雨音が、窓を打ち付ける。
その旋律だけが、頭の中に螺旋のように蠢き続けた。
煌めく月明かりが窓を貫き、この瞳に刻まれる歪つな色彩を揺らしている。
途絶えそうな意識の狭間で、私は、紡がれない旋律を奏でていた。
ゆっくりと、夢の中へと沈み込んでいきながら。
「君が、悪いんだよ。」
頭の中に、響き渡る声。
真っ暗で、影さえも見えない。
「いつも、君は、私にばかり押し付けてくる。」
少しずつ消えていく声に、真っ黒な空間が溶けていく。
それは、瞼を焼く陽光が、この現実を突き刺してきたから。
枕が濡れている。
きっと、それは、悪夢で零れた雫のせい。
ベッドの隅で塊を彩る布団。
きっと、それは、悪夢で暴れたせい。
ただの、悪夢だよ。
だって、私は、ワンピースを着ているもの。
全部、悪夢だよ。
あの日からのこと、今日のこと、全部、全部…。
握りしめたリボンは、吐瀉物に濡れ、異臭を奏でていた。
私は、それに嘔吐き、思わず手放す。
シーツに転がるそれが、私の下着だと気づいた時、全てが現実だと思い知った。
こんな事、最初から、わかってた。
これは、悪夢。
現実という、悪夢。
これからも、決して覚めることのない、悪夢。
陽光に煌めく、悍ましい旋律。
私の安らぎの場は、私を壊す廃棄物処理場へと朽ちていた。




