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残響  作者: ことは
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第3節

髪が、濡れている。

濡らしているものが何なのか、わからない。

取り残されたリビングで、私はソファに沈んでいた。

作っておいた夜ごはんの香りが、私に嘔吐を誘う。


まだ、夢の中にいる。

早く、覚めてほしい。

伝えなきゃいけないことがあるから。


なのに、何も変わらない。

ゆっくりと、顔を動かす。

天井を彩っていた瞳が、散らかる服を描く。

「リボンが、無い…。」

掠れた声が、空虚に溶けた。

ただ、雨音だけが、私の耳を撫で続けている。



ゆっくりと、体を起こす。

気怠さが、腹部の痛みに蠢く。

乱れた髪に触れ、嫌悪感が込み上げる。

それは、喉を伝い、カーペットを濡らした。

透明な吐瀉物が、素足に触れる。

その不快感が、夢ではないことを突きつけてくる。

揺れる瞳が、視界を滲ませる。

ぽたぽたと太ももに弾む雫が、悍ましく感じた。

だから、それを見ないように、視線を逸らした。

転がっている白いリボン。

私は、それにゆっくりと手を伸ばす。


「ママ…。」

私が、リボンに触れた刹那、家中の窓が割れる音が響き渡る。

その音に、私はリボンを胸に抱いた。


少し遅れて、階段を駆け降りる音が反響する。

私は、その旋律に体を跳ね、散らかった布で体を隠した。


「何だ、今の音は。」

なぜ、いつものように話しかけてくるのだろう。

なぜ、いつものような顔で、私を見つめるのだろう。

あなたは、さっきの人と、同じ人なの?


それとも、やっぱり、これは夢なの?


背中越しに突き刺さる視線と、振り返った瞳に刻まれる私の知る人。

私は、何一つ奏でることさえできずに、ただ、そこに座り込んでいた。


「もう、こんな時間だ。明日も学校だろう。早く寝るんだよ。」

穏やかな音色が、不協和音となって、耳を撫でる。


不快。

私の中に流れ込む、さっきまでの旋律。

私の瞳から溢れ出す、生温い穢れた雫。


どうして。

どうして、どうして、どうして。

どうして、どうして、どうして、どうして、どうして。

声が出ない。

乱れる吐息に、景色が歪む。

再び湧き上がる嫌悪感に、私は抗おうとはしなかった。

撒き散らされる吐瀉物が、まるで私のように地を這っている。


私は、それを踏み潰すように、体を丸める。


息が、できない。

空気が、入ってこない。

どれだけ吐息を繰り返しても、どれだけそれを強く奏でても、何も変わらない。

体を揺らし、全身が、呼吸を求めている。

なのに、そうしているのに…。


私は、失ったんだ。


雨音が、いつのまにか、消えていた。



いつもの時間。

ゆっくりと開く瞼に、陽光が差し込む。

柔らかいシーツが、私を包んでいる。

ベッドの柵に触れようと、布団から手を伸ばした。

手には、白いリボンが握られている。

「嫌な夢…。」

私は、言い聞かせるように囁いた。


部屋に戻った記憶も、ベッドに潜り込んだ記憶もない。

ただ、私が、こうしていることだけが、今が現実であることを伝えている。


「あんな事、起こるわけないよね…。」

そう信じたい。

そう信じていたい。

ゆっくりと体を起こすと、布団がずり落ちた。

柔らかな肌寒さに、私は知りたくない色彩を掴む。


私は、何も着ていなかった。

「そんなわけ、ないよね…。」

膝を手繰り寄せ、顔を埋める。

足に伝う雫が、何故か温かく感じた。


思考が、崩れていく。

それをわかっていながら、手を伸ばそうとさえ思えない。

ただ、あるがままに、身を委ねる。

それしか、私には、わからなかった。

握りしめた、白いリボン。

「ごめんね…。」


何かが、私の背中を撫でてくれた気がした。

ただ、それが、とても悲しくて、苦しくて、罪悪感だけが、そこに落ちた。

響き始めたアラームが、どこか遠くに響いているように、部屋に溶ける。



私は、その日、学校に行くことはできなかった。

扉を叩く音も、私に起きるように促す声も、遠い世界に感じる。

やがて、それは、静寂に薄れていき、代わりに、スマホの通知音が部屋に響いた。

でも、私は、それを取りに行く気力が湧かない。

ただぼんやりと、ベッドの上で、無色の旋律に揺れていた。


「君が悪いんだよ。」


耳を撫でる声。

私の声。

視界の隅に、影が霞む。

それが、私を嘲笑っているようで、顔を伏せた。


「あはは。」


乾いた笑い声が、体を這う。

どうして、笑っているのだろう。

何が、可笑しいのだろう。

止まらない笑い声が、私の口を塞ぐ。


着信音が、響いている。

私は、顔を上げた。

もう影は、居ない。

足元に転がった白いリボンを見つめる。

私に、これを付ける資格は無い。

もう、無くなってしまった。


「ずっと、わかっていたんだろう。」

あの声が、心に再生される。

「何を今更、抵抗するんだ。」

ずっと…、今更…。


私は、昨日、初めて、男の人を突き付けられた。

込み上げる嫌悪感。

私は、キッチンへと駆け降りた。


シンクに弾ける吐瀉物は、何の色も持っていない。

昨日までは、あの瞬間までは、私も透明だった。


本当に…?

あの人が言っていた言葉が、私を覆う。

ずっとって、いつから。

今更って、何を。


私の知らないところで、私は何をしていたの。


違う。

私は、知らずにいただけ。

背中を撫でる温もりが、幾つもの雫へと変わっていく。

「ママ…、助けて。」

吐瀉物が、排水溝へと落ちていった。



どれくらい時間が経ったのだろう。

カーテンから漏れる光が、茜色を彩っている。

「夜ごはん、作らなきゃ…。」

それが、私の役目だから。

昨日作った夜ごはんが、どうなったのかは知らない。

あの人が、朝、何を食べたのかも知らない。

お弁当も作らなかったから、お昼をどうしたのかも知らない。


私は、あやめと楽しんだフードコートでの色彩を思い出す。

あれから、何も口にしていない。

でも、食材を見るだけで、食べすぎた時みたいに、不快感が押し寄せる。

手に持った包丁が、私に刃を向ける。


何のために、作るの?

誰のために、作るの?

ねえ、どうして、私は、ここに立っているの?


心の奥底で、真っ黒な塊が蠢く。

それを振り払うように、目の前の色彩にぶつける。

転がるジャガイモ、シンクの中でニンジンが水に曝されている。

その旋律が、何故だか、悔しい。


包丁を持つ手が、震える。

幾つもの雫が、ぽたぽたと刃を濡らした。

「…。」

まな板の要らない肉塊が、小さなせせらぎを彩る。

そこに彩られた痛みに、私がまだ生きていることを思い出した。

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