第2節
ママが居なくなってから、私は、たくさんの料理を覚えた。
ただ、ママみたいになりたかったわけではない。
家事も全部、やらなければならなかったから、やっていた。
でもきっと、一人暮らしを始める頃には、やっていて良かったといえるはず。
「今日は、変な一日だったな…。」
パパの帰りを待つリビングで、私は、スマホの中であやめと話していた。
ただ、あの影のことを話すことは出来なかった。
別に、怖くはなかった。
それでも、この話は、きっと、あやめを不安にさせる。
だから、もう触れずにいることにした。
床が軋む音色が、背後に彩られる。
「パパ?」
いつのまにか、帰ってきたのだろうか。
振り返った先には、電気のついていないキッチンが揺らいでいる。
気のせい。
今日、それを、何度思っただろう。
やっぱり、疲れているみたい。
私は、スマホをテーブルに置き、ソファに身を沈める。
「今日こそ、パパに言わなきゃ。」
本当は、まだ迷っている。
県外の大学にするか、この家から通える大学にするか。
私の、本当の気持ち。
あやめと一緒に暮らしたい。
それを理由に、進学を決めてもいいのだろうか。
でも、それをパパに言わなくてもいい。
ただ、県外の大学に行きたいとだけ伝えれば、それでいい。
そうしたら、パパは、一人になってしまう。
ママは、自らの意思で、この世界から去ってしまった。
私まで、ここから出て行ってしまったら、パパまで去ってしまうかもしれない。
「考え過ぎ…。」
自分に言い聞かせるように、音色を紡ぐ。
「手紙に書こうかな。」
これまで、何度も伝えようとしてきた。
でも、結局、ここまで言えずにきた。
きっと、今日も言えない。
私は、それをわかっていた。
昔から、言いにくいこと、相手にとって都合が悪いと感じたことを言えなかった。
それが、私に何をもたらそうとも、それをわかっていても、言えなかった。
私は、臆病者だから、卑怯者だから、いつも、ママに頼ってきたから。
髪を飾る白いリボン。
それを外し、テーブルに置く。
明日は、あやめちゃんとお揃いになる。
私の瞳に彩られた可憐なリボンが、少しだけ勇気をくれる。
私は、リボンを優しく抱き、便箋を持ってきた。
県外の大学に行く。
私は、この家を出る。
たった二つの想いを伝える為に、幾つもの言葉が便箋を飾っていく。
でも、大丈夫、ちゃんとパパのこと、大好きだから。
だから、一人じゃないよ。
ただ、私は、恋してるの。
それは、ママにも、パパにも、誰にも言えなかったこと。
知っているのは、あやめだけ。
昔から、男の子が苦手だったから。
微睡みに、文字が歪む。
ころころと転がるペン。
ほら、やっぱり疲れてた。
続きは、後で書こう。
ため息に、想いを彩る。
柔らかく私を包むソファに、吐息が沈んでいく。
それは、少しずつ寝息に移ろいゆく。
私は、夢の中に入ると、なかなか起きない。
それで、何度も失敗している。
起きようと思った時間になるまで、何が起きても目を覚まさない。
だから、地震が起きても、火事が起きても、寝ていそうで心配。
あやめとお泊まり会をした日に、彼女が微笑んでいたのを思い出す。
「また、お泊まり会したいな…。」
あの日の記憶。
まだ、大好きなママが居て、紅茶とマドレーヌを持ってきてくれた。
本当は、フィナンシェの方が好きだけど、ママの作るマドレーヌも大好きだった。
何より、あの笑顔が、いつも私を見てくれていると思うだけで、安心できた。
帰りたいな、あの日に…。
私は、夢の中へと落ちていく。
その寝息に、書きかけの手紙が、テーブルに揺れる。
手に包み込んでいたリボンが、床へと舞う。
「あ…。」
もう、それを拾う気力はない。
やがて、開かなくなる瞼に、最後の色彩を見る。
それは、低いテーブルの向こう。
影が、消えていった。
体を這う温もり。
何が起きても目を覚まさないと、私は言われ続けた。
ただ、私は、まだ微睡みの中にいた。
動けない体と、鮮明になる感触。
何かが、私に触れている。
その不快感だけが、私を起こそうと揺らしている。
遠くに聞こえる雨音が、窓を打ちつけている。
それが、警報音のように、私の耳を劈いていた。
お泊まり会のためにかった、お揃いの部屋着。
私はピンクを選び、あやめは黄色を選んだ。
ふわふわした肌触りと、可愛いボタンが選んだ理由。
その肌触りが、ゆっくりとずらされていく。
そのボタンが、一つ一つ外されていく。
それを描いているのは、私の体を這う手。
それだけは、確信できた。
私の身を守ってくれる最後の布が、弱々しく、純白に揺らめく。
助けて。
小さな吐息に叫びを奏で、私は、体を動かそうと踠いた。
差し込む光の中で、私の瞳を刻んだのは、私のよく知る色彩だった。
「パパ、やめて…。」
起きたばかりで、霞む声。
それが、届いたのかわからない。
ただ、ようやく動くようになった手足が、その悍ましい旋律を振り払っていた。
「ずっと、わかっていたんだろう。」
パパの声が、歪つに揺れる。
「何を今更、抵抗するんだ。」
何を言っているのか、わからない。
この人は、私の知ってるパパじゃない。
私の手を抑え込み、その不快な手が、布の中へと入り込む。
私の顔から溢れ出る雫が何なのか、そんなものを気にしている余裕もない。
声にならない声が、部屋を切り裂く。
解放された右腕が、必死にリボンを探している。
この人は、パパじゃない。
きっと、これは夢。
早く、覚めて。
ぼんやりと滲む天井に、私は祈り続けた。




