第19節
この日の出勤時間は、いつもより一時間も早かった。
それは、一週間前には、全員に伝えられていた。
その理由を、みんなは知っている。
いつもギリギリに来る子達も、今日は私より早くきていた。
レジ袋を四つ抱え、エレベーターを降りる。
両手でドアノブを掴み、体重を乗せて開けるドア。
そんないつもの色彩の先には、いつもと違う旋律が流れていた。
この日、私が最後の一人だった。
「今日も、お菓子買ってきてくれたの?」
病院のある日は、心が弾んで、お土産を買ってきてしまう。
もしかしたら、迷惑かもしれない。
そう分かっているのに、どうしても、コンビニに寄ってしまう。
作業療法室でもらった嬉しいを、みんなにお裾分けしたかったから。
「これじゃあ、どんどんツケが溜まっていっちゃうわよ。」
レジ袋を覗き込みながら、みんなが囁き合う。
「いつも、本当にありがとう。」
次々と贈られる温かなプレゼント。
ごめんなさいじゃなくて、ありがとうと言う。
そんな私の宿題が、どれだけ大切なことなのか、心の奥へと響き渡る。
「それにしても、今日は、特別、多いわね。」
シュークリームを手に取り、私を見つめて囁く音色。
「えっと…、今日は、一時間早いって聞いたから…。」
「本当、天使。当社比ナンバーワンよ。売り上げは、ママの次だから、ナンバーツーだけど。」
幾つもの手が、私を包み込む。
それが、何だか、恥ずかしくて、でも、とても嬉しくて、私は、俯いて囁いた。
「ご、ごめんなさい…。でも、喜んでもらえたなら、嬉しいな…。」
「実は、毎週木曜日が、楽しみだったりするのよ。天使ちゃんのお菓子センス、最高だし。」
「お菓子が、好きなので…。」
私は、私の体が、どんどん小さくなっていくような、不思議な色彩に、身を委ねた。
「本当に、天使ちゃんは、夜に染まらないよね。」
「荒野に咲く一輪の花よ、本当。」
「売れる秘訣、ここに見極めたわ…。」
「それだけで売れるなら、誰も苦労しないよ。」
「誰も苦労してないじゃん。売れてもないけど。」
「天使ちゃんが、最後の砦なんだから、新しい子に負けないでね。」
「だから、私たちも頑張ろうよ。」
「いや、だから、私たちが勝てると思ってるの?」
私を囲むように、笑い声が奏でられる。
夜の部屋でも、そうだった。
学校でも、そうだった。
みんな、私を囲んで笑っていた。
笑うって、同じなのに、同じじゃない。
あの時は、あんなに怖かったのに、今は、嬉しい。
みんなにつられて、私も少し笑った。
「新しい子、楽しみだね。」
私の囁きが、みんなの中へと溶けていく。
それは、弾む音色達と、共鳴するように。
みんなで分けたクッキーが、今日は、いつもより美味しかった。
「お、美味そうなクッキーやん。ひとつもろてええ?」
控室に入ってきたオーナーが、クッキーを一枚頬張った。
「たくさんあるので、いっぱい食べてください。」
私は、ゆっくりと微笑む。
「ちゃんと、あやめちゃんにお礼してくださいね。」
「そうですよ。じゃないと、また何か言われますよ。何とか関西人とか。」
「ケチ関西人やろ?もう知ってるわ。でも、そやな、いつもお菓子買ってきてくれるし、お礼せなあかんな。」
「みんな、聞いた?聞いたわよね。オーナーが、高級お菓子買ってくれるってさ。あやめちゃん、いっぱい請求しなよ。」
「高級なんて言ってへんし、いっぱいはあかんで。一人一つまでや。」
「ケチ関西人…。」
「何やと…。あやめちゃんには、ちゃんと高級お菓子買うたるわ。」
「だってさ、あやめちゃん、何買ってほしいの?」
「え…。えっと…、え…?」
私は、突然の質問に、固まってしまった。
「見てみ、みんな。これが、天使っちゅうやつや。ほんま、見習いや。」
「キャバ嬢に、何言ってるんですか…。」
「そりゃそうや。ほな、ええか?仕事の話するで。」
オーナーの色彩が、引き締まる。
その旋律に、みんなは真剣な瞳を彩る。
私は、口元にまで運んでいたクッキーを、そっと、戻す。
「いや、食べながらでええで。」
オーナーが、優しく微笑んだ。
「まあ、もうみんな知ってると思うけど、今日から新しい子が来る。出勤時間は、あと三十分やで、もう来るかもしれん。」
静かに紡ぎ始める、オーナー。
「この辺やと、有名な子や。優しい子や聞くけど、他の追従を許さへん売り上げ持ってる子や。何で、うちに来たんかもわからん。はっきり言って、うちはこの辺りでも最弱やからな。」
笑うオーナーと、固まるみんな。
「いや、笑えよ。悲しなるやん…。」
「あやめちゃんも、最近は、有名ですよ。今月のガイド誌の表紙もソロで飾ってたし…。」
一人の子が、小さく囁いた。
それを皮切りに、音色が溢れ出す。
「そうよ、私たちの店だって、ちょっとは有名になるはずよ。」
「私たちだって、あやめちゃんにばっかり頼らないように、最近は営業がんばってますよ。」
「それに、最強のママだっているじゃないですか。」
「みんなで力を合わせたら、負けませんよ、たぶん、きっと、できれば…。」
「いや、そこは強気で行こうよ。」
次々と浴びせられる旋律に、オーナーが、あちこちを見渡している。
私は、こっそり、クッキーを食べた。
「ちゃうやん。争うとか、そんなんちゃんねん。でも、負けんように頑張っていこなって話やんか。」
取り繕うように、紡ぐオーナー。
「せやから、みんなの反応見て安心したわ。ただ、新しい子も、うちの子になる。仲間やいうことだけは忘れんと、仲良うしいや。」
それだけ奏でると、オーナーは、ドアへと歩いていった。
「後、ほんまにクッキー食べながら聞くと思わんかったわ。流石、天使やな…。」
その音色を残し、オーナーは、控室を出ていった。
ただ、それを見送る人は、誰も居なかった。
代わりに、クッキーをもぐもぐ食べている私に、視線が集まる。
「ご、ごめんなさい…。」
顔が爆ぜそうになるのを感じながら、私は俯いた。
「ねえ、どんな子だと思う?」
「トップクラスのキャバ嬢なんて、絶対、怖い人よね…。」
「私たちのこと、遊び半分とか言って怒るかも…。」
「でも、怖い人って噂は聞かないわよね。寧ろ、優しいって言われてるよ。」
「だから、怖いのよ…。しっかり表裏を使い分けれてそうで…。」
「そういえば、変な噂も聞いたわよ。」
「え、なになに?どんな噂?」
「ガイド誌の陳列棚を通り過ぎたと思ったら、猛ダッシュで戻ってきて、何冊か持って行ったって…。」
「何それ…、絶対に見間違いでしょう…。私、見かけたことあるけど、凛としたモデルみたいな雰囲気だったし。」
「いや、その人、一応、読モ…。」
「そうなんだけどさ、もう、オーラがね…、近寄りがたいというか…。」
「それに群がって、サインを求めるホストたちって、どうなのよ…。」
「まあ、キャッチに出てるレベルのホストだからね…。」
「でも、それを無視して颯爽と歩くんでしょう?夜の女王って感じね…。」
「颯爽と歩かなくても、女王だけどね…。」
「そんな女王が、こんな場末の店に来るなんて…。」
「絶対に、何かあるわよね…。トラブルとかかしら…。」
オーナーが控室を出て、女の子だけの部屋となったここは、色んな想いが飛び交い始める。
あちこちから奏でられる、幾つもの音色。
その殆どは、不安だった。
みんなが、新しい子を怖がっている。
みんなが言う通り、このお店は、小さなお店なのかもしれない。
そこにやってくる、大きな新人さん。
その子は、この街でも有名なくらい売れている子。
優しい子と言われていても、本当は、怖い子なのかもしれない。
そんな不安が、私の目の前を飛び交っていた。
「あの…。」
私は、消え入りそうな音色を紡ぐ。
集まる視線。
私は、声を奏でたことを、少しだけ後悔した。
「えっと…、その子と、おしゃべりしてみてから、決めてもいいのかなって…。」
俯きながら、私の手に向かって紡ぐ。
みんなを否定してしまったかもしれない。
私なんかが、こんなことを言って、烏滸がましいと思う。
でも、まだ見ないその子が、辛い言葉を向けられているようで、とても辛かった。
それが、不安のせいなのは、知っている。
みんなが、優しくて、陰口なんて言わないことも、知っている。
でも、何だか、とても悲しくなってしまった。
ぽろぽろと零れる雫。
「ごめんなさい…。」
私が紡ぐ、小さな音色。
「私たちこそ、ごめんね。」
それを包み込むように、たくさんの手が、私を撫でてくれる。
「ちょっと怖がりすぎたかも。でも、その子のこと、楽しみでもあるのよ。ごめんね、怖がらせて。」
次々と、私へと贈られる温かな音色。
私は、雫の中に、ゆっくりと微笑みを奏でた。
三回のノックと共に開かれ始めるドア。
控室には、既にみんなが集まっている。
そのドアを開くのは、きっと、新しい子。
みんなが、その音へと瞳を彩る。
ゆっくりと開くドアの先に立っていたのは、お姉ちゃんだった。
「な、何よ、みんな。」
集まる視線に、お姉ちゃんは、少したじろいだ。
「でも、ちょうど良いわ。新人の子と一緒に来たのよ。でも、その前に…。」
お姉ちゃんの瞳に、私が彩られる。
「あやめちゃん…、今となっては、それも呼びにくいわね…。」
「はい…。」
私は、何かしてしまったのだろうか。
その真剣な眼差しに、私は少し肩を跳ねる。
「畏まらなくていいのよ。でも、驚かないでね。」
そう微笑んで、お姉ちゃんが、新人の子を部屋へと招いた。
「やっと、見つけた。」
その旋律に、私の全てが、色を変えた。




