第17節
私が病院に通い始めて、何ヶ月が経っただろう。
あの日から、私は、家には帰っていない。
ネカフェから、お店に通っていた。
そんな日々の中で、週に一度の病院が、少し楽しみになっていた。
それは、作業療法室での色彩。
その一つ一つが、少しずつ生き直しているようで、たくさんの勇気をもらえた。
だけど、この日は、初めて、病院を休んだ。
台風の警報が、ネットニュースを覆い尽くしている。
ネカフェに居ると、外の様子はわからない。
でも、流れてくる映像が、外に出られない事を教えてくれる。
「お店、どうしよう…。」
今日は開店しないという連絡は、きていない。
まだ、出勤時間まで数時間もあるけれど、不安に押し潰されそうになる。
病院も、お店も、私が私である証明だった。
だから、どちらにも触れられないのが、怖かった。
薄暗い個室で、私は膝を抱く。
見慣れた彩りが、急に広く感じ始める。
それを埋める様に、ぽつぽつと色彩が湧き上がる。
「また、沈むの?」
私の背中を撫でる、私の声。
「…。」
私は、それに応えることはできなかった。
言葉を紡ぐことさえ、今の私には、できない。
目の前に広がるのは、手放したい旋律。
テーブルに置いたままの、白いリボン。
私は、それに縋る様に、手を伸ばす。
がたん。
その音は、隣の個室から響いてきた。
だけど、まるで、私を捕まえる様に感じた旋律に、私は跳ね上がる。
「ごめんなさい…。」
囁きが、足の隙間へと消えていく。
誰に向けた、音色なのだろう。
考えるまでもない。
それは、あの忌々しい家の色彩。
そこで紡がれ続けた悪夢。
それを奏でる、歪なあれ。
「それは、私に押し付けたものでしょう?」
私を抱く様に反響する声。
私だけ響く、私の声。
あの日、リビングで、初めてあれに穢された。
それよりも、もっと昔の残響。
ママがぶら下がる部屋で、あれは、私を覆っていた。
瞼を強く閉じる。
音が消えた。
そこには、何も感じない。
その不協和音に、ゆっくりと瞼を開く。
そこに彩られたのは、私の部屋。
床に散らばる、服と下着。
ゆっくりと視線を動かす。
少し開いたドア。
その隙間から覗く、ママの瞳。
「違うの、ママ。無理矢理だったの…。」
その叫びは、私の中に反響する。
縋る様に伸ばした手が、暗闇へと溶けていく。
「これは、君のじゃないよ。君が、私に押し付けたんだから。」
その暗闇から聞こえてくる、私の声。
私は、強く瞼を閉じて、首を振った。
「ごめんなさい…。」
重なる音色。
それは、私の声と、私の声。
開く瞼と、色彩を刻む瞳。
それは、謝罪を奏で、泣き叫ぶ私と、それを嘲笑うあれ。
机には、高校受験の参考書が並んでいる。
遠くの部屋で、ママの寝息が聞こえた気がした。
これが、初めての日。
そう気づいた時、通知を知らせるバイブ音に、目を覚ました。
ぼんやりとした輪郭に、スマホを探す。
「嫌な、夢…。」
私は、震える唇を、ぎゅっと閉じた。
画面に彩られる文字。
「今日は、休業します。」
私は、その旋律に、体を丸めた。
悪夢が、私を蝕む。
逃げても、逃げても、私を追い越していく。
囲む様に、私を嘲笑う。
私は、着せ替え人形。
私は、娼婦。
私は、オモチャ。
私は、虫。
私を呼んだ、幾つもの名前。
それを紡いだ、幾つもの真実。
私が溺れていたのは、その不快感と嫌悪感の海。
そこにないはずの歪な温もりが、私の体を這い回る。
まるで、幾つもの手が、私を壊していく様に。
その手のひとつひとつを、私は、覚えている。
「助けて…。」
掠れた音色が、雫へと消えていった。
「また、私に押し付けるの?」
雫に塗れながら、私は強く、首を振る。
「どうして?ずっとやってきた事でしょう。」
それでも、私は首を振る。
「私は、もう、用済み?」
響き渡る旋律。
「違うの…。」
心の中を反響し続ける音色に、私の口が声を漏らした。
「なら、君は、また私に押し付けるんだね。」
「違うの…。」
「何が、違うの?」
「あなたに、苦しんでほしくないの…。」
「何を言っているの?」
笑い声が、響き渡る。
「ごめんなさい…、ずっと…。」
「まだ、わからないの?」
暗闇の中で、影が私の顔を覗き込む。
「私は、君の…。」
その旋律を掻き消すように、バイブ音が鳴り響いた。
「飲みにいくよ。どこにいるの?病院?」
その声は、お姉ちゃん。
その音色に聞いた刹那、私の全身の力が抜け落ちていく。
私は、嗚咽を奏でながら、ここを伝えた。
「出て来れる?入った方がいい?」
しばらくして、再び繋がったスマホから、少し慌てたお姉ちゃんの音色が紡がれる。
大丈夫です、出れます。
そう伝えたいのに、言葉が出てこない。
「ちょっと待っててね。何号室?」
「びー…、ご…。」
それは、いつもの部屋。
毎日、通い続けるうちに、そこは、いつきても空席となっていた。
スマホの向こうが、少し騒がしくなる。
その音と、個室の外から漏れる音がカノンしていく。
重なり合う、お姉ちゃんの二つの声。
開かれた扉には、雨に濡れたお姉ちゃんが彩られていた。
「また、思い出しちゃった?まだ、思い出してる?手首は?何もしてない?辛いことはある?吐き出す?」
私を優しく包み込みながら、お姉ちゃんは穏やかに奏でてくれる。
「思い…、出したの…。」
私は、嗚咽と共に、掠れる音色を零した。
こんな事、いつまで続くのだろう。
もう終わった事なのに。
新しい道を歩き出したのに。
病院にも通っているのに。
逃げても、逃げても、私を捕まえにくる。
私は、私を握りしめた。
崩れてゆく私を零さないように、赤く滲む肌に爪を立てて。
私は、私の瞳に刻み続けた。
私を包み込んでくれる温もりに縋る様に、雫の底へと溺れながら。
「ゆりちゃん、ここ、出よう。」
お姉ちゃんが、私の名前に触れた。
「私…、あやめ…。」
「知ってるわよ。でも、今は、ゆりちゃんでしょう。」
「はい…、はい。」
「ゆりちゃんは、私の可愛い妹なんだから。」
膝を包み、暗闇を抱く。
そんな私を撫でながら、お姉ちゃんは、優しく囁いた。
ひとつひとつ、散らかった私の荷物を集めながら。
お姉ちゃんに連れ出されて、ネカフェのドアを潜る。
待っていたのは、一台のタクシー。
「飲みに行くわよ。」
お姉ちゃんが、タクシーに乗り込みながら微笑む。
「断らせないわよ。そのために来たんだから。」
私は、小さく頷いて、後ろに続いた。
「ねえ、聞いてもいい?」
「はい…。」
「ずっと、あそこで生活してるの?」
「…。」
「マンションとかアパートとか、借りないの?」
「どうやって…?」
「あそこで、生活してるのね。」
「…。」
お姉ちゃんは、どこかに電話をし始めた。
窓の外を流れる景色。
風と雨が、ガラスを叩きつけている。
「あの子が辞めたら、店の売り上げが20%は下がりますよ。だったら、投資すべきじゃないですか?」
何だか、難しそうなお話をしている。
「とりあえず、今月分の領収証はもらえたので、よろしくお願いしますね。」
あまり聞かない、お姉ちゃんの音色。
「当然でしょう。ここで働くために、あそこで生活してたんですから。本当なら、全部、遡って払うべきですよ。」
きっと、聞いてはいけないお話。
だから、私は、窓の外の雨音に、耳を委ねた。
「あの、ケチ関西人…。」
お姉ちゃんが、電話を切ると同時に呟いた。
「オーナーさんですか…?」
「もしかして、あやめちゃんも、オーナーのこと、ケチって思ってる?」
「いえ…、オーナーさんは、優しい人です…。」
「え、あれが…?あやめちゃんには、オーナーが、どう映ってるのよ…。」
「えっと…、優しい人です…。」
「みんなケチ関西人って言うわよ?」
「この前だって、チョコをくれました。ケチじゃないです…。」
「ゆりちゃん、良い人とダメな人を見分ける力をつけようね…。」
お姉ちゃんの手が、私の両肩を確りと掴んだ。
タクシーが着いたのは、豪邸だった。
「お姉ちゃんの、おうちですか…?」
私は、それを見つめ、ぼんやりと呟いた。
「違うわよ。ここは、居酒屋。」
お姉ちゃんは、笑っている。
「ちょっとお高いけどね。」
振り返り、私の手を取る。
着物を着た女性が、傘をさしてくれた。
「ありがとうございます…。」
通された奥の部屋、そこは、お城の様だった。
「温泉もあるのよ。入る?」
「えっと…。」
「恥ずかしい?」
「少し…。」
「あはは。私は、気にしないけど。」
そう微笑みながら、お姉ちゃんは、呼び鈴を押した。
「料理、お願いします。飲み物は、ビールと…紅茶ってありますか?…じゃあ、それで。」
「ここ…、本当に居酒屋さんなのですか…?」
「居酒屋って言わないと、断ったでしょう?」
「…。」
「あやめちゃんは、お店でトップクラスだけど、私は、その倍は稼いでるから。」
「えっと…。」
「うちの店の子は、本当に売り上げとか気にしないから、困ったものだわ…。」
「ごめんなさい…。」
「あやめちゃんは、売り上げ持ってるから、良いのよ…。」
お姉ちゃんのため息が、柔らかく漂う。
「それはそうと、倍は言い過ぎたわね。とにかく、何も気にしなくて良いって事よ。」
次々と運ばれてくる料理。
そのどれもが、絵画の様に彩られている。
「綺麗ですね…。」
「美味しそうじゃないんだ。」
10杯目は超えたビールを飲み干して、お姉ちゃんは笑った。
「お仕事じゃないのに、たくさん飲むのですね。」
私は、その色彩に、少し微笑む。
「お酒が好きじゃなかったら、こんな仕事、すぐ辞めてるわよ。お酒が好きでも、ゆりちゃんくらいの時は、何度も飛ぼうと思ったくらいよ。」
「…。」
「本当に、凄い子ね、ゆりちゃんは。」
「そんな…。」
「ゆりちゃんは、夜は好き?」
「みんなのことは、大好きです…。」
「他に道ができたら、どうする?」
「……私、この仕事を辞めたら、生きていけません…。」
お姉ちゃんは、私を静かに見つめ、微笑んだ。
「私はね、15歳から、この世界に居るのよ。」
「え…。」
「父と一緒に、母を埋めたのよ。その父は、どこかの鳥籠の中に居る。どうでも良いけど。だからさ、この世界しか、私には無かったのよ。ゆりちゃんと、似たようなものね。」
新しく配されたグラスを飲み干し、お姉ちゃんは、笑う。
「でも、私は、この世界が気に入ってるのよ。辞めるつもりもないし、最後まで、この世界から贅を搾り尽くすつもりよ。でも、ゆりちゃん、この世界は、夜だけじゃない。もし、新しい一歩を見つけたら、遠慮なく言うのよ。」
強く彩られた瞳が、私を抱きしめる。
「でも、あのケチ関西人には、言っちゃダメよ。私が、何とかするから。」
「…。」
「さあ、ゆりちゃん、飲め。」
笑いながら差し出された紅茶を、私はゆっくりと飲み干した。
「良い飲みっぷりだね。お酒が、美味しくなるわ。」
お姉ちゃんは、ビールを三杯注文した。
「料理、また出てきましたね…。」
「お箸、全然進んでないわね。お腹いっぱい?」
「…ごめんなさい。」
「私も、このコースが、こんなにたくさん出てくるなんて思ってなかったのよ。」
まだ、メインも出ていないと教えてもらった私は、少し固まってしまった。
「ゆりちゃんは、もうちょっと、ごはんを食べれるようになると、良いわね。いつも、サラダしか食べてないでしょう?」
「チョコとか、クッキーも、食べてます…。」
「それは、ご飯とは言わないわよ…。」
お姉ちゃんが、ため息の中に微笑んだ。
「でも、どうして、今日は、こんな豪華なご飯なのですか?」
「まだ、気づいてないの?」
「えっと…。」
「今日は、ゆりちゃんの誕生日でしょう。」
私は、その言葉に、慌ててスマホを確認した。
「そうでした…。」
私の慌てた様子に微笑み、お姉ちゃんが、囁く。
「今日はね、二つお話があるのよ。ひとつは、良い話。もう一つは、ゆりちゃんにとっては良い話じゃないかもしれない。でも、あやめちゃんとしては、良い話かもしれない。」
「はい。」
私は、少しだけ緊張して、音色を紡いだ。
「微妙な方から、話すわね。デザートは、最後に食べるものだもの。」
「デザートの話ですか?」
「ふふ、それは、とっておきの話だから、違うかな。」
「えっと…。」
「あのね、撮影の依頼が来たのよ。」
「撮影…、お店が紹介されるのですか?」
「それもあるけど、ちょっと違うかな。」
「違う…?」
「紹介されるのは、あやめちゃん。貴女よ。」
「え…?」
「この前、私のヘルプについてくれた日のお客さん、覚えてるかしら?」
「どのお客さんですか?」
最近は、それをする時間が、ほとんどなくなった。
でも、お姉ちゃんにお客様が来ると、私は、それが許される限り、必ずヘルプについていた。
それは、入った日から続いている。
一つは、勉強のため。
そして、もう一つは、安心するから。
「最後に、ヘルプについてくれた時のお客さんよ。」
私の頭に彩られる、少し怖そうな男の人。
「あの方が、どうかされたのですか?」
「あの人、この地域のガイド誌の編集長さんなのよ。もちろん、夜の部門も見ておられるわ。」
「凄い方なのですね。」
「そうね。その凄い方が、ゆりちゃんを見つけちゃったのよ。」
「見つけちゃった…?」
「貴女を表紙にしたいって。18歳になったから、こういうのに載っても問題は無いわ。」
「…。」
「でも、ゆりちゃんの心は、どうかなって。」
「えっと…。」
「お店としては、受けてもらえると、助かるわ。貴女の可愛い顔も、綺麗なスタイルも、お客さんを呼び込む武器だから。」
その言葉に、顔が赤く爆ぜる。
「…。」
「もちろん、決めるのは、ゆりちゃん。どうしたい?」
「がんばったら…、えっと…。」
「頑張ったら、ご褒美がほしいのかな?何でもあげるよ。」
「えっと…、がんばったら、その、私は、みんなの役に立てますか?」
「今でも、充分すぎるほど、役に立っているわよ。」
「…がんばります。」
「がんばらなくて、良いのよ。」
お姉ちゃんは、私の心だけを見てくれている。
でも、私が頑張れば、お店が嬉しいとも言ってくれた。
だから、とても揺れたけれども、答えは、決めた。
「や、やってみます…。」
「本当に?さっそく、彼に電話………したいところだけど、今は、ゆりちゃんとの時間だから、それを謳歌するわね。」
「私も、お姉ちゃんとの時間を謳歌したいです。」
「ということで、良い話が、二つに増えたわね。一つは、今のご褒美に何が欲しいか。そして、もう一つは、ゆりちゃんの誕生日プレゼントの話よ。」
「プレゼントなら、もうもらってます。」
「まだ、何にもあげてないわよ。」
「ずっと、もらってます。今も…。」
「私が、男なら、ちゅーしてるところだったわ…。」
「でも、特別なプレゼントがもらえるなら、ひとつだけ…。」
「なになに?何でも言って。高級バッグでもいいわよ。可愛い服やアクセサリーでも、何なら全部でも。」
「えっと…、これからも、お店の外では、ゆりって呼んでほしくて…。」
「て、天使…、本物の天使だわ…。既に、みんな、ゆりちゃんのこと、天使って呼んでるけど…。」
「え…、私、天使って呼ばれてたのですか…。」
「え、知らなかったの?みんな目の前で呼んでるじゃない…。」
「誰のことだろうと、思ってました…。」
「そんな…、アホな…。」
お姉ちゃんが、固まった。
コースは、まだまだ始まったばかり。
「これ、食べきれないと思うから、三馬鹿トリオも呼んじゃう?料理の後にも、とっておきのデザートもあるし。」
「はい。」
私は、弾む音色で微笑む。
「良い笑顔ね。やっと見れたわ。」
お姉ちゃんもまた、弾む音色で微笑んでくれた。
五人に増えた個室は、それでも広かった。
新しく、コースは用意できないけれども、その分、料理も増えた。
その色彩に、どうしようかと、お姉ちゃんと顔を見合わせる。
そんな心配もよそに、来てくれたいつもの三人は、ぺろりと食べてくれた。
「美味しいものって、いくらでも入りますね。」
黄色い声が、私の耳を撫でてくれる。
「お祝いしに来たのに、お祝いされちゃった気分…。」
「お祝いもするから、というか、お祝いがメインだから。」
「そうよ、食べて終わりじゃないでしょう。そろそろ、あれを…。」
「わかってるよ。忘れてないから、安心して。」
ひそひそと、囁き合う三人。
彼女達は、ゆっくりと立ち上がり、持ってきた荷物へと歩く。
手にしたのは、大きな紙袋。
有名な高級ブランドのショッパーだった。
それを、私へと差し出した。
「えっと…。」
私は、思わず、それを受け取る。
「誕生日、おめでとう。」
中に入っていたのは、可愛いショルダーバッグ。
それは、小さなキャリーバッグのようなモチーフ。
いつか、みんなで雑誌で見ていたときに、可愛いねと漏らしたバッグ。
「何も言わずに渡したら、受け取ってくれるって、言った通りだね。」
「プレゼントっていうと、受け取ってくれなさそうだもんね。」
「受け取ってもらえなかったら、私たち泣いてたわよ。」
私に囁きかけるように、三人が語り合う。
私は、みんなの心が、何よりも幸せで、その紙袋を抱きしめたまま、幾つもの雫を奏でていた。
運ばれてくる、最後の彩り。
大きなケーキと、店員さんの拍手。
この日、私たちは、世界で一番美味しいケーキを食べた。




