第16節
スマホの通知音。
それは、昨日のお客様からだった。
私は、お店の床に座り、それを見つめている。
「今日、店に行くからさ。アフター行こうよ。写真のこと、気になるでしょ?」
写真、それは、高校を辞めた理由のひとつ。
私に告白してくれた人が、私の明日を壊した。
そして、私は、それを拒めなかった。
何も言えず、何もできず、ただあれをされるがままに。
茜色の教室で、あの日、私は、光を手放していた。
気になることなんて、何ひとつない。
私は、あの写真の旋律を、知っているのだから。
「わかりました。」
ゆっくりと打ち込む言葉。
ただ、怖かった。
それだけだった。
病院に行って、変われた気がした。
でも、私は、何も変わっていない。
捨てられずに持ってきてしまった、ココアの空き缶を見つめる。
私は、それを掴み取り、ゴミ箱へと、そっと入れた。
開店とともに、あのお客様が来店した。
「お姉ちゃん、今日は来ないよ。」
お客様の座る席へと歩く私に、音色が纏わりつく。
あの影の紡ぐ、私の声。
「うん…。」
私は、小さく囁いた。
「また、私に押し付けるの?」
頭に響き渡る旋律。
それを振り払う様に、私は首を振った。
お客様にお辞儀をして、ヘルプ席に座る。
「指名してるんだから、隣に来てよ。」
わかっている。
でも、怖くて、怖くて、そこに行けない。
「はい…。」
ゆっくりと立ち上がったまま、動けずにいた。
「どうしたの?早く。」
その音色に、肩を跳ね、私はソファへと腰を下ろした。
その刹那、私の背中を不快感が這う。
私は、ただ震えながら、膝を握りしめる私の手を見つめる。
「見る?写真。」
その音色とともに、差し出されたスマホ。
お姉ちゃんが消したはずの写真。
「これさ、サイトで見つけたんだよね。顔にモザイクかかってるけどさ。これ、あやめちゃんだよね?」
耳を舐め回す様に、お客様の旋律が這い回る。
「…。」
「胸のホクロ、三つ連なってるよね。これ、同じだよね?」
ドレスから覗くホクロを指差し、歪な微笑みが彩られる。
私は、ただ俯き、言葉を探し続けた。
「すいません、ヘルプいいですか?あやめちゃん、良いよね?三人も居るけど…、今日ハゲでさ。」
それを打ち壊す様に、女の子たちが、ソファに座った。
「良いって言ってないよ。」
慌てる様に、スマホを仕舞うお客様。
それを引き止めるように、隣に座った子が、スマホを取り上げた。
「うわ、何これ。エッチな写真なんて見せつけてたの?」
「ちょっと、お客さんに失礼よ。でも、このホクロのメイク、一時期、流行ってたよね。」
「私もやってたわ。胸に三連ホクロとか、セクシー過ぎだよね。」
「え、待って、あんたもやってたの?」
「あんたもって、あなたもやってたの?これじゃ、三馬鹿トリオじゃなくて、三ホクロトリオって呼ばれちゃうよ…。」
「それは、あやめちゃんに失礼よ。ほら。」
お客様を無視するかのように、三人で盛り上がる彼女達。
その三つの指が、私の胸を差した。
「あやめちゃんって、もしかして、ちょっと流行から遅れちゃったりする?」
「逆に、今、三連ホクロつけた方が、格好いいかもよ?」
「ねえ、お客さん?私たちも三連ホクロにしたら、指名してくれる?」
詰め寄る彼女達に、お客様は、小さく囁いた。
それを掻き消すように、彼女達は、盛り上がり続ける。
だから、私には、もう、お客様の声が聞こえずにいた。
「安心して?私達は、世界一可愛いから、ホクロなくてもモテるのよ。」
「何言ってるのよ。私達、あやめちゃんより売上が下でしょう。」
「美貌の話をしてるのよ。ね、あやめちゃん。」
「う、うん…。三人とも、とても可愛いよ…。」
私は、三人の会話が、何だか楽しげで、思わず微笑んでいた。
「あやめちゃんに可愛いって言われると、何だか、負けた気分ね…。」
「王者の余裕ってやつ?」
彼女達の笑い声は、お客様が帰るまで続いた。
私は、お酒を飲んだことがない。
それでも、次々と来られる方が帰られる度に、控え室で崩れ落ちてしまう。
今日は、朝から出かけていたからだろうか。
それとも、始めてネカフェで夜を過ごしたからだろうか。
いつもより、力が入らなくなり、少しだけ休ませてもらっていた。
部屋の外から聞こえる声。
それは、誰かが挨拶を交わしている声。
床に寝そべり、私はドアを見つめていた。
勢い良く開かれるドア。
私は、その旋律に、体を跳ねた。
「あやめちゃん、あいつ来たの?大丈夫だった?三馬鹿トリオは助けてくれた?何もされなかった?辛いの?起きなくていいわよ。紅茶買ってきたから。これ好きでしょう?いつも飲んでるやつ。」
靴を脱ぎ捨てながら、駆け寄るのは、いつも助けてくれる人。
「お姉ちゃん…。」
その音色が漏れた刹那、私の瞳から雫が溢れ出した。
「ごめんね、幻滅しないでね。家では、こんな格好だからさ。外出る時は、オシャレしてるからね。本当に。」
それは、煌びやかなジャージ姿。
お姉ちゃんは、こんな格好と言ったけれども、私の瞳には、綺麗なモデルさんの様に彩られている。
「あの…、お休みじゃ…。」
私は、雫に溺れそうな音色を、必死に紡いだ。
「キャバ嬢は、年中無休でキャバ嬢なのよ。さっきまで、色恋してる太客の部屋に居たし。プロフェッショナルって呼んでもいいわよ。」
掻き上げる髪が、どこか艶めかしく、とても格好良く見えた。
「それで、あいつは、どうなったの?」
「帰りました…。」
「うん、それは、知ってる。」
お姉ちゃんが、微笑みながら、ため息を奏でる。
「とにかく、あいつは出禁ね。オーナーに言っておくわね。」
お姉ちゃんは立ち上がり、電話をし始めた。
「あの、ママ…。入ってもいいですか?」
私を助けてくれた彼女達の一人が、ドアから顔を覗かせる。
お姉ちゃん、電話をしながら、頷いた。
「あやめちゃん、これあげる。」
手渡されたのは、コンシーラー。
「買ったは良いけど、色間違えちゃってさ。白すぎたのよ。でも、あやめちゃんは色白だし、多分、合うよね。」
私は、その音色に、首を傾げることしかできずにいた。
「胸のホクロ、流行に乗り遅れてるって、思われちゃうからさ。何だか、可哀想だなって。それだけ。」
彼女は、ウインクと共に微笑み、部屋を出ていった。
私の手を彩る、新品のコンシーラーを残して。
「それと、売上のこと、バラしちゃって、ごめんね。」
ドアの隙間から、再び顔を小さく覗かせ、手を振る彼女。
私は、それに呼応する様に、手を振った。
閉じられていくドアを見つめながら、私はコンシーラーをぎゅっと抱きしめていた。
「ありがとう…。」
小さな吐息が、ゆっくりと流れていった。
ちくちくと、心を啄む記憶。
私は、それを忘れることができない。
今も、溺れそうになる。
沈んでしまうこともある。
きっと、ずっと、変わらない。
胸のホクロを掻き消す様に、コンシーラーで塗りつぶしていく。
その色彩が、私の肌へと溶けていく。
まるで、私が私を手放すような感覚に、私は少し揺れていた。
「メイク道具なんだから、メイクに使うのは、当たり前よ。」
スマホを構い、ボーイさんが持ってきたお酒を飲みながら、お姉ちゃんが紡ぐ。
「ごめんなさい…。今日は、色々と…。」
「休み潰したって思ってる?」
「はい… 。」
「客の家に行ってたんだから、仕事よ。給料も、オーナーに請求するつもりよ。」
お姉ちゃんは、一気にグラスを空にした。
「でも、申し訳ないって気持ちがあるならさ、仕事終わったら、ちょっと付き合ってよ。」
私の肩を包み込む、お姉ちゃん。
そこには、上品な香水の香りと、お酒の香りが混ざり合い、溶け込んでいた。
「何か、するのですか…?」
「お腹が空いたのよ。」
控室を包み込む様に、お姉ちゃんの笑い声が反響した。
「結局、いつも、ここになるのよね…。」
辿り着いたのは路地裏の奥の居酒屋。
「本当、この街って、ラーメン屋か居酒屋しか空いてないわよね。」
ここに辿り着くまでに次々と声をかけてきたキャッチの人たち。
その全部を、お姉ちゃんは、撃沈させていった。
仕事中、そのたった一言で。
その颯爽と奏でられる姿に、私も、次から真似しようと思った。
「居酒屋でいい?」
お姉ちゃんが振り返る。
「はい。私は、何でも…。」
「何でも、食べるって言ったね?食べるって言ったからね?」
お姉ちゃんが、イタズラっぽく微笑む。
「付き合ってもらうわよ?今日は、最後まで。」
お姉ちゃんは、とても細い。
身長が、私より顔ひとつ分も高いから、本当にモデルさんの様に煌めいている。
そして、その体のどこに入っていくのだろうと不思議に思うほど、たくさん食べる。
その美味しそうに食べる姿に、私は、少し、憧れていた。
「頑張って、いっぱい食べます。」
私の奏でた音色に、お姉ちゃんは、笑った。
「頑張らなくて、いいわよ。美味しく食べれる範囲で。」
お姉ちゃんの柔らかな手が、私の頭を撫でる。
「それにしても、本当に似合ってるわね、その白いリボン。」
その音色に、私は少し照れながら、白いリボンにそっと触れた。
お姉ちゃんが、浴びる様にお酒を飲んでいる。
お店が閉まるのを待っている間、確かに、お姉ちゃんは、お酒を飲み続けていた。
もしかしたら、これは水なのかもしれない。
そう思い、私は、少しだけ、口をつける。
「うええ……。」
私は、独特の香りと味に、思わず口を背けてしまった。
「何やってるの、飲んでないのに酔ってるの?それ、お酒よ。」
お姉ちゃんが、笑いながら、お水を差し出してくれる。
「ありがとうございます…。もしかしたら、お水かもしれないって、思っちゃって…。」
「どこをどう見たら、お水に見えるのよ…。本当、相変わらずね、あやめちゃんは。」
微笑むお姉ちゃんの頬が、私の頭を撫でる。
「でも、あやめちゃんの酔ってるところ、見てみたいかも…。」
「わ、私、17歳です…。」
「ふふ、冗談よ。…本気だけど。」
「飲んだ方が、良いですか?」
「飲んじゃだめよ、あやめちゃんは。」
微笑みながら撫でてくれる、その柔らかな手が、とても温かく感じた。
「あの、お姉ちゃん…。」
「なあに?」
私は、思い出した様に、紡いだ。
それは、病院での約束。
「お店のバイオリンを、借りたいのです…。」
「借りたいも何も、あれは、あやめちゃんに買った物よ。何、弾いてくれるの?」
「れ、練習します…。えっと…、病院に持って行きたいのです…。」
「病院?」
「はい…。今日から通い始めたのです。」
「病院なのに、バイオリン?」
「あの…、私、…その……。」
「そっか、よく頑張ったね。行きづらい日があったら、呼んでね。」
お姉ちゃんは、嬉しそうに微笑み、私を抱きしめてくれた。
「バイオリン、持って行きなよ。そのまま持って帰ってもいいし、お店に置いておいてもいいから。」
「お店に置いてあると、お仕事、頑張ろうって思えるのです…。」
「嬉しい事を言ってくれるわね。焼き鳥食べる?」
抱き合ったまま、お姉ちゃんが焼き鳥を口へと運んでくれた。
「お肉、久しぶりです。」
私は、一欠片を頬張り、口に広がる甘さと香りに、静かに微笑んだ。
「何か、これ、いいわね…。」
少しずつ滑舌がとろけていく、お姉ちゃん。
この日、私は、お姉ちゃんの手で、ご飯を食べた。




