第15節
彼らは、ただただ私の紡ぐ言葉にならない言葉の羅列を、聞き続けてくれていた。
ただ静かに、私から目を逸らすこともなく。
優しい手が、私を抱きしめてくれている。
バッグから散らばった荷物を、拾い集めてくれている。
通り過ぎる足跡から隠すように、覆ってくれている。
私の全部を、間違っていないよって囁くように、頷いてくれている。
よく頑張ったねって、頭を撫でてくれている。
あの時、聞こえた音色。
あの時、見えた彩り。
あの時、触れられた柔らかさ。
あの時、感じた温もり。
あの時、彼らが彩ってくれた雫。
あの時、彼らが奏でてくれた微笑み。
あの時、彼らが紡いでくれた言葉。
あの時、与えられた生きるという意味。
あの時、与えられた生きてもいいという希望。
あの時、与えられた生きたいという旅路。
絶対に、忘れない。
何年経っても、色褪せることなんてない。
きっと、この先、何十年経っても、一欠片も手を離す事はない。
あの時のすべてを、思い出すことがないのは、ひとときも、忘れたことがないから。
一つだけ、後悔しているのなら、それは、彼らの名前を知らないままということ。
もしまた会えたなら、何度でも、ありがとうを伝えたい。
もしまた触れられるなら、何度でも、恩返しをしたい。
それだけを、今も願い続けている。
それは、私が、光に触れた刹那の残響。
何を思い出しても、何に触れても、その全てが私を痛みへと引き戻しても、それを覆うように、私に彩られ続ける、大切な残響。
この日、私は、家には帰らなかった。
この日から、私は、家に帰る事はなくなった。
ネカフェの夜。
浴びるシャワーの音に、私の雫が溶け落ちていく。
時折、隣から聞こえる音は、時計の借りと共に、寝息へと沈んでいく。
私は、それを静かに聞きながら、微睡みへと落ちていった。
陽光の届かない、真っ暗な部屋。
そこは、小さな楽園。
何もない、安息の園。
静かに荷物をまとめ、お会計を済ませる。
開いたドアの先には、朝日が輝いていた。
静かに、吐息を奏でる。
私は、彼らの優しい言葉を抱きしめて、その言葉のままに、病院へと足を運んだ。
大きな建物。
その入り口で、私は足を止めてしまった。
次の一歩を踏み出すのが、怖い。
その理由は、わからない。
通り過ぎていく人を感じながら、私は私の足元を見つめ続ける。
鼓動が、私を急かす。
なのに、なのに…。
足が、コンクリートに張り付いている。
腕が、鉛のように重い。
震える手を、体に這わせ、頭へと手繰り寄せる。
私は、縋るように、髪に飾った白いリボンに触れた。
少しだけ、ほんの少しだけでいいから、勇気をください。
そう祈るように、小さく握りしめた。
鼓動が、優しい音色へと沈んでいく。
私は、深く息を吐いた。
大丈夫だよ。
そう言ってもらえた気がして、ゆっくりと、顔を上げた。
真っ白な空間。
俯く人々。
みんな、何かを抱えている。
待合室に、私の名前が響く。
私は、ゆっくりと立ち上がる。
誰も、私を見ない。
私も、誰も見ない。
そこには、言葉一つ紡がれない。
みんな、何かを抱えている。
それが、少しだけ、苦しかった。
部屋には、優しそうな先生が待ってくれていた。
私は、何も紡げずに、ただ座っている。
「ごはん、食べれてますか?」
覚えている、彼の最初の言葉。
もしかしたら、それよりも先に、何かを言っていたのかもしれない。
でも、覚えているのは、その言葉。
「一昨日…、サラダを食べました…。」
その時に初めて、私は昨日、何も食べていない事に気がついた。
「その前には、何を食べました?」
「………、わかりません…。」
「何日も前に食べたものなんて、覚えている方が、凄いですからね。」
私は、先生の微笑みに、少し安心した。
「では、少しだけ、ゆりさんのことを、お話ししましょう。そうですね、その可愛いリボンは、どこで買ったのですか?」
「これは…、ママからもらった誕生日プレゼントなんです…。」
「じゃあ、大切な宝物なのですね。」
「はい…。」
何でもないような雑談。
でも、お店にいる時とは違う、柔らかな言葉たち。
それに触れていくうちに、私は、ひとつ、ひとつと、心の中を零していた。
「鬱病、…それと、解離性同一性障害。」
先生から紡がれる、初めて聞く言葉。
「少しずつ、説明していきますね。」
私は、ぼんやりと、その言葉の羅列を眺めていた。
「私を、捨てるの?」
ふと瞼を閉じた刹那、背中を撫でた声。
いつも聞こえる、あの声。
それは、私の声。
違うよ。
そう紡ぐように、私は、小さく首を振った。
「疲れていませんか?」
「はい…。」
「じゃあ、後一つだけ、今日はやってもらいことがあります。」
先生が、私に微笑みかける。
私は、その微笑みにカノンする様に、綻ぶ顔で小さく頷いた。
渡されたのは、一枚の紙。
そこには、難しそうな言葉が並んでいる。
先生が持っていた紙は、二枚。
そのもう一つは、看護師さんへと渡された。
廊下の奥の待合室。
真っ白な壁に、可愛い装飾が溢れている。
ここに案内してくれた看護師さんは、あの紙を持って、中へ入っていった。
私は、ぼんやりと装飾を見つめながら、昨日のことを心に描いていた。
先生には、全部話した。
あの鮮やかな色彩のひとつひとつも、全部。
でも、一つだけ、話せなかったことがある。
あの踏切で、私がしようとしていたこと。
それだけは、話せなかった。
話すことが、どうしても怖かった。
言わなきゃいけない気がしたのに、言わなかった。
私は、嘘つき。
私は、嘘つきなのかな…。
私は、俯き、少し汚れた靴を見つめた。
呼ばれる名前。
私は、その音色へ、ゆっくりと顔を上げた。
微笑みかける女性は、とても優しそうで、私は少し安心した。
部屋には、たくさんの人が居る。
テーブルを囲み、みんなが何かを作っていた。
私は、その後ろを静かに通り、奥の部屋へと入った。
「今日は、少しお話しだけしましょうね。」
私を椅子へ座る様に促し、彼女は、斜めの席に座った。
ゆっくりと紡がれる言葉は、私を穏やかに包み込む。
その音色に、私は微笑みを紡ぎながら、小さく頷いた。
「私は、作業療法士というのをしているのよ。」
「作業…。」
何かをする、治療…、なのだろうか。
私は、ぼんやりと、その意味を考えた。
「簡単に言えば、いろんな事をして、辛い事を減らしていこうって感じかな。さっきの部屋で、みんなが何かしてたのは、見た?」
「えっと…、何かを作ってました。」
「うんうん、よく見てるね。ゆりちゃんは、周りを見れる子なんだね。素敵よ。」
私は、その音色に、罪悪感へと落ちそうになる。
「ゆりちゃんは、褒められるのが、苦手?」
「…わからないです。」
俯きながら、囁く。
「じゃあ、来週までの宿題を出そうかな。」
「宿題…。」
「そう。ゆりちゃんの素敵なところ、三つ探してみよう。」
「三つも…。」
「そう、三つだけ。でも、どうしてもわからなかったら、一つだけでもいいよ。」
「…がんばります。」
「うん。宿題は、頑張ってみようね。」
差し出された小指に、私はゆっくりと指を絡めた。
「先に宿題を出しちゃったけど、お話ししないまま終わるのは、寂しいわね。そうね…、まずは、好きなことから聞こうかしら。」
好きなこと、何も思い浮かばない。
私は、俯き、紡ぐ言葉を探していた。
「そっかそっか。今は頑張ってる時なんだね。じゃあ、昔は好きだったなって思う事はあるかな?」
私は、私の旅路を振り返った。
ただただ、楽しかった事を探すために。
浮かんだのは、あやめと、ママ。
「紅茶と…、バイオリンです…。」
途切れる様に紡ぐ言葉。
「え、バイオリン弾けるの?」
弾む様に問いかけてくる彼女。
「今は…、弾けないです…。ごめんなさい…。」
「実はね、私ね…。」
彼女が、私の瞳を見つめ、ゆっくりと囁く。
「今も昔も、弾けたことなんてないのよ。」
「えっと…。」
「だからね、ちょっと教えてほしいな、なんて。だめかな?」
「先生は、弾きたいのですか?」
私は、恐る恐る聞いた。
「弾けたら、格好いいじゃない。弾いてみたいな。」
「私に教えられることなんて、全然、無いです…。」
「じゃあ、一緒に、秘密の特訓をしようよ。」
「特訓…ですか。」
「そう。隣の部屋にいるみんなを、脅かせようよ。」
私は、ドアの向こうから響く、小さな音色を見つめた。
「うちでは、クリスマス会をやっていてね、その出し物を任されちゃったのよ。ゆりちゃん、助けてくれない?お願い。」
困った様な音色を奏で、私に微笑みかける。
「…わかりました……。」
私は、少しだけ顔を上げ、小さく頷いた。
「本当?ありがとう。助かるわ。本当にありがとう。」
私の手を両手で握りしめ、弾む様に笑ってくれた。
私は、それにつられるように、少し微笑んでいた。
「ところでさ、紅茶も好きなんだよね?」
「はい…。」
「私も、最近、紅茶に興味が出てきてね、おすすめのお茶とかってある?」
淡く描かれた部屋の色彩に、柔らかな旋律が、ゆっくりと反響する。
この部屋に入る前、ここでの時間は1時間と聞いていた。
でも、先生が時計を見た頃には、もう既に、10分も超えていた。
「ごめんね、長引かせちゃって。来週からは、ちゃんと時間を守るから、今日だけは、許してね。」
ドアの外まで出て、私を見送ってくれる。
その柔らかな音色に、私は、また触れたいと感じていた。
今日は、たくさん、自分のことを話した。
こんなに話したのは、あやめが居た頃以来な気がする。
先生も優しかったけど、その後に話した彼女が、とても近くに感じた。
気づけば、私は、全てを曝け出していた。
お会計を待つ椅子で、私は、ココアを買っていた。
何かを飲みたいと思えたのは、たくさん話したからかもしれない。
私は、何かを飲みたいと思った。
私は、私の想いで、ココアを選んだ。
今、この時、私は、確かに、何かを望んだ。
私が、私のために、何かを選んだ。
それが、何だかとても嬉しかった。
缶から伝わる温もりが、何だか、私の心を溶かしていく様で、それを大切に抱いた。
口から流れてくる柔らかな甘さが、何だか、私を認めてくれている様で、私は微笑んでいた。
「美味しい…。」
人が行き交う病院のエントランスで、確かな旋律が、私の口から紡がれた。




