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残響  作者: ことは
15/21

第15節

彼らは、ただただ私の紡ぐ言葉にならない言葉の羅列を、聞き続けてくれていた。

ただ静かに、私から目を逸らすこともなく。


優しい手が、私を抱きしめてくれている。

バッグから散らばった荷物を、拾い集めてくれている。

通り過ぎる足跡から隠すように、覆ってくれている。

私の全部を、間違っていないよって囁くように、頷いてくれている。

よく頑張ったねって、頭を撫でてくれている。


あの時、聞こえた音色。

あの時、見えた彩り。

あの時、触れられた柔らかさ。

あの時、感じた温もり。


あの時、彼らが彩ってくれた雫。

あの時、彼らが奏でてくれた微笑み。

あの時、彼らが紡いでくれた言葉。


あの時、与えられた生きるという意味。

あの時、与えられた生きてもいいという希望。

あの時、与えられた生きたいという旅路。


絶対に、忘れない。

何年経っても、色褪せることなんてない。

きっと、この先、何十年経っても、一欠片も手を離す事はない。


あの時のすべてを、思い出すことがないのは、ひとときも、忘れたことがないから。


一つだけ、後悔しているのなら、それは、彼らの名前を知らないままということ。

もしまた会えたなら、何度でも、ありがとうを伝えたい。

もしまた触れられるなら、何度でも、恩返しをしたい。

それだけを、今も願い続けている。



それは、私が、光に触れた刹那の残響。

何を思い出しても、何に触れても、その全てが私を痛みへと引き戻しても、それを覆うように、私に彩られ続ける、大切な残響。



この日、私は、家には帰らなかった。

この日から、私は、家に帰る事はなくなった。


ネカフェの夜。

浴びるシャワーの音に、私の雫が溶け落ちていく。

時折、隣から聞こえる音は、時計の借りと共に、寝息へと沈んでいく。

私は、それを静かに聞きながら、微睡みへと落ちていった。

陽光の届かない、真っ暗な部屋。

そこは、小さな楽園。

何もない、安息の園。

静かに荷物をまとめ、お会計を済ませる。

開いたドアの先には、朝日が輝いていた。

静かに、吐息を奏でる。



私は、彼らの優しい言葉を抱きしめて、その言葉のままに、病院へと足を運んだ。


大きな建物。

その入り口で、私は足を止めてしまった。

次の一歩を踏み出すのが、怖い。

その理由は、わからない。

通り過ぎていく人を感じながら、私は私の足元を見つめ続ける。

鼓動が、私を急かす。

なのに、なのに…。


足が、コンクリートに張り付いている。

腕が、鉛のように重い。

震える手を、体に這わせ、頭へと手繰り寄せる。

私は、縋るように、髪に飾った白いリボンに触れた。

少しだけ、ほんの少しだけでいいから、勇気をください。

そう祈るように、小さく握りしめた。

鼓動が、優しい音色へと沈んでいく。


私は、深く息を吐いた。

大丈夫だよ。

そう言ってもらえた気がして、ゆっくりと、顔を上げた。



真っ白な空間。

俯く人々。

みんな、何かを抱えている。

待合室に、私の名前が響く。

私は、ゆっくりと立ち上がる。

誰も、私を見ない。

私も、誰も見ない。

そこには、言葉一つ紡がれない。

みんな、何かを抱えている。


それが、少しだけ、苦しかった。


部屋には、優しそうな先生が待ってくれていた。

私は、何も紡げずに、ただ座っている。

「ごはん、食べれてますか?」

覚えている、彼の最初の言葉。

もしかしたら、それよりも先に、何かを言っていたのかもしれない。

でも、覚えているのは、その言葉。

「一昨日…、サラダを食べました…。」

その時に初めて、私は昨日、何も食べていない事に気がついた。

「その前には、何を食べました?」

「………、わかりません…。」

「何日も前に食べたものなんて、覚えている方が、凄いですからね。」

私は、先生の微笑みに、少し安心した。

「では、少しだけ、ゆりさんのことを、お話ししましょう。そうですね、その可愛いリボンは、どこで買ったのですか?」

「これは…、ママからもらった誕生日プレゼントなんです…。」

「じゃあ、大切な宝物なのですね。」

「はい…。」

何でもないような雑談。

でも、お店にいる時とは違う、柔らかな言葉たち。

それに触れていくうちに、私は、ひとつ、ひとつと、心の中を零していた。



「鬱病、…それと、解離性同一性障害。」

先生から紡がれる、初めて聞く言葉。

「少しずつ、説明していきますね。」

私は、ぼんやりと、その言葉の羅列を眺めていた。


「私を、捨てるの?」

ふと瞼を閉じた刹那、背中を撫でた声。

いつも聞こえる、あの声。

それは、私の声。


違うよ。

そう紡ぐように、私は、小さく首を振った。



「疲れていませんか?」

「はい…。」

「じゃあ、後一つだけ、今日はやってもらいことがあります。」

先生が、私に微笑みかける。

私は、その微笑みにカノンする様に、綻ぶ顔で小さく頷いた。


渡されたのは、一枚の紙。

そこには、難しそうな言葉が並んでいる。

先生が持っていた紙は、二枚。

そのもう一つは、看護師さんへと渡された。


廊下の奥の待合室。

真っ白な壁に、可愛い装飾が溢れている。

ここに案内してくれた看護師さんは、あの紙を持って、中へ入っていった。

私は、ぼんやりと装飾を見つめながら、昨日のことを心に描いていた。


先生には、全部話した。

あの鮮やかな色彩のひとつひとつも、全部。

でも、一つだけ、話せなかったことがある。


あの踏切で、私がしようとしていたこと。

それだけは、話せなかった。

話すことが、どうしても怖かった。


言わなきゃいけない気がしたのに、言わなかった。

私は、嘘つき。

私は、嘘つきなのかな…。


私は、俯き、少し汚れた靴を見つめた。


呼ばれる名前。

私は、その音色へ、ゆっくりと顔を上げた。

微笑みかける女性は、とても優しそうで、私は少し安心した。



部屋には、たくさんの人が居る。

テーブルを囲み、みんなが何かを作っていた。

私は、その後ろを静かに通り、奥の部屋へと入った。

「今日は、少しお話しだけしましょうね。」

私を椅子へ座る様に促し、彼女は、斜めの席に座った。

ゆっくりと紡がれる言葉は、私を穏やかに包み込む。

その音色に、私は微笑みを紡ぎながら、小さく頷いた。

「私は、作業療法士というのをしているのよ。」

「作業…。」

何かをする、治療…、なのだろうか。

私は、ぼんやりと、その意味を考えた。

「簡単に言えば、いろんな事をして、辛い事を減らしていこうって感じかな。さっきの部屋で、みんなが何かしてたのは、見た?」

「えっと…、何かを作ってました。」

「うんうん、よく見てるね。ゆりちゃんは、周りを見れる子なんだね。素敵よ。」

私は、その音色に、罪悪感へと落ちそうになる。

「ゆりちゃんは、褒められるのが、苦手?」

「…わからないです。」

俯きながら、囁く。

「じゃあ、来週までの宿題を出そうかな。」

「宿題…。」

「そう。ゆりちゃんの素敵なところ、三つ探してみよう。」

「三つも…。」

「そう、三つだけ。でも、どうしてもわからなかったら、一つだけでもいいよ。」

「…がんばります。」

「うん。宿題は、頑張ってみようね。」

差し出された小指に、私はゆっくりと指を絡めた。


「先に宿題を出しちゃったけど、お話ししないまま終わるのは、寂しいわね。そうね…、まずは、好きなことから聞こうかしら。」

好きなこと、何も思い浮かばない。

私は、俯き、紡ぐ言葉を探していた。

「そっかそっか。今は頑張ってる時なんだね。じゃあ、昔は好きだったなって思う事はあるかな?」

私は、私の旅路を振り返った。

ただただ、楽しかった事を探すために。

浮かんだのは、あやめと、ママ。

「紅茶と…、バイオリンです…。」

途切れる様に紡ぐ言葉。

「え、バイオリン弾けるの?」

弾む様に問いかけてくる彼女。

「今は…、弾けないです…。ごめんなさい…。」

「実はね、私ね…。」

彼女が、私の瞳を見つめ、ゆっくりと囁く。

「今も昔も、弾けたことなんてないのよ。」

「えっと…。」

「だからね、ちょっと教えてほしいな、なんて。だめかな?」

「先生は、弾きたいのですか?」

私は、恐る恐る聞いた。

「弾けたら、格好いいじゃない。弾いてみたいな。」

「私に教えられることなんて、全然、無いです…。」

「じゃあ、一緒に、秘密の特訓をしようよ。」

「特訓…ですか。」

「そう。隣の部屋にいるみんなを、脅かせようよ。」

私は、ドアの向こうから響く、小さな音色を見つめた。

「うちでは、クリスマス会をやっていてね、その出し物を任されちゃったのよ。ゆりちゃん、助けてくれない?お願い。」

困った様な音色を奏で、私に微笑みかける。

「…わかりました……。」

私は、少しだけ顔を上げ、小さく頷いた。

「本当?ありがとう。助かるわ。本当にありがとう。」

私の手を両手で握りしめ、弾む様に笑ってくれた。

私は、それにつられるように、少し微笑んでいた。


「ところでさ、紅茶も好きなんだよね?」

「はい…。」

「私も、最近、紅茶に興味が出てきてね、おすすめのお茶とかってある?」

淡く描かれた部屋の色彩に、柔らかな旋律が、ゆっくりと反響する。


この部屋に入る前、ここでの時間は1時間と聞いていた。

でも、先生が時計を見た頃には、もう既に、10分も超えていた。

「ごめんね、長引かせちゃって。来週からは、ちゃんと時間を守るから、今日だけは、許してね。」

ドアの外まで出て、私を見送ってくれる。

その柔らかな音色に、私は、また触れたいと感じていた。



今日は、たくさん、自分のことを話した。

こんなに話したのは、あやめが居た頃以来な気がする。

先生も優しかったけど、その後に話した彼女が、とても近くに感じた。

気づけば、私は、全てを曝け出していた。


お会計を待つ椅子で、私は、ココアを買っていた。

何かを飲みたいと思えたのは、たくさん話したからかもしれない。

私は、何かを飲みたいと思った。

私は、私の想いで、ココアを選んだ。

今、この時、私は、確かに、何かを望んだ。

私が、私のために、何かを選んだ。

それが、何だかとても嬉しかった。


缶から伝わる温もりが、何だか、私の心を溶かしていく様で、それを大切に抱いた。

口から流れてくる柔らかな甘さが、何だか、私を認めてくれている様で、私は微笑んでいた。

「美味しい…。」

人が行き交う病院のエントランスで、確かな旋律が、私の口から紡がれた。

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