第14節
それは、繰り返される悪夢。
どこかで生きていいと知るほどに、それは棘を増やしていく。
だから、私は、全てを忘れる様に、その不快感と嫌悪感に溺れていた。
私の瞳に反射するのは、歪んだ天井と、反響する不協和音。
私を侵蝕するあれは、私が学校を辞めたことを知っている。
それが、あれが私を罰する口実となっていた。
私は、それを受け入れるしかない。
ただ静寂に心を消して、悪夢が終わるのを待つ。
時折、体中に響き渡る痛みにさえ、顔を歪める事は無くなった。
そのお陰かもしれない。
いつしか、悪夢は、私の中へと入り込む、あれから蠢く虫の不快感だけとなっていた。
それは、深く深く、私を蝕んでいく。
人である私と、オモチャの私が交錯する色彩に、記憶が途切れていく。
気づけば、陽光が、私を焼いている。
そんな毎日が、私の足跡を紡いでいた。
その侵蝕は、夜に生きる私にさえ、滲み始めていく。
いつしか、私は、理解していた。
この微笑みは、搾取するための道具。
取り繕う仮面が、ここに集う欲望に蜜を与える。
その対価に、私の持つべきでないものが与えられる。
だから、私は、お給料の全部を、お姉ちゃんに預けていた。
必要な時に、必要なだけ、それを返してもらう。
だけど、必要な時なんて、ほとんどない。
あるとするならば、誰かのお祝いをするときくらい。
服も、カバンも、食べることさえ、お客さんに恵んでもらっていた。
望まぬものに、両手が塞がっていく。
なのに、それを断る勇気すら持てない。
私は、誰かの手によって、ようやくここに立てている。
着飾った私は、ここでも、着せ替え人形であることを、知っていた。
それでも、ここは、私を人として触れてくれる。
それだけは、変わらない真実だった。
それだけが、私が今も立っていられる支えだった。
それを壊す様に、毎日、繰り返される悪夢。
その往復に、私の心は荒んでいった。
コンビニで買ったのは、お店の子たちへの小さな贈り物。
たくさんのチョコと、おすすめのクッキー。
それを袋に詰めてくれる店員さん。
私は、ありがとうさえ言わずに、その袋を受け取った。
一言も奏でることなく店を出たとき、私がどれだけ醜くなっているかを思い知らされる。
私は、私を取り戻し始め、私を嫌いになっていた。
帰り道の、いつもの遮断機。
私に囁きかけてくる。
「まだ、続けるの?」
振り返る先には、一つの影。
私は、私の声に、微笑む。
「ごめんね…。」
今日も、悪夢へと、静かに歩き始めた。
「まだ、あの家に帰ってるの?」
お姉ちゃんが、私に声をかけてくれた。
「ごめんなさい…。」
私は、俯いたまま、小さく囁く。
いつの間にか、私は、お姉ちゃんとさえ、あまり話さなくなっていた。
橋の隅で座っていた頃の様に、一人の色彩に溺れていた。
それでも、時間がくれば、お客様の相手をする。
ただ微笑みを取り繕い、少ない言葉を紡ぎながら。
売り上げだけが変わらず、それが、私を嘲笑っている様で、数字から目を背ける様になった。
「不思議ちゃんから、ミステリアスに変わっちゃってるわよ。」
お姉ちゃんが、頭を撫でてくれる。
「私は…、虫です。」
「そろそろ、蝶って言いなよ。」
お姉ちゃんの微笑みが、私に突き刺さる。
「私は、蝶になれてますか…?」
「あやめが、蝶じゃなかったら、ほとんどの子が蝶を名乗れないわよ…。」
微笑みに溶けるため息が、私の髪を揺らす。
「私、数字を見るのが、怖いんです。」
「売り上げが下がらないか、心配?」
「ごめんなさい…、下がらないのが、怖いんです…。私なんかが…。」
「あやめだから、上がってるのよ。でも、怖いならシークレットにできるわよ。売り上げも、ナンバーも。」
「そうなのですか…?」
「そうしたい?」
「はい…。」
「なら、お姉ちゃんに任せて。」
「でも…、迷惑かけちゃいます…。」
「何言ってるの。ウブで売ってる子は、売れてる影が見えない方が武器なのよ。」
お姉ちゃんは、微笑みながら、ゆっくりとソファから立ち上がり、事務所へと入っていく。
私は、それをぼんやりと眺めながら、お店が開くのを待っていた。
最近、また、記憶が途切れ始めた。
覚えているのは、夜の時間だけ。
抜け落ちたパズルのピースの様に、旋律が消えていく。
私は、いつからここに居て、何をしていたのだろう。
突き刺す陽光に、私は私の部屋で私を探していた。
ぼんやりと眺める彩りは、知っているはずの私の部屋を、見知らぬ空白へと塗り替える。
淡く歪み、滲む色彩に、ずっと開けていない引き出しを見つけた。
私は、守る布さえ奪われた体をゆっくりと動かし、それに触れる。
開かれた中には、白いリボンだけが転がっていた。
ずっと、隠していた色彩。
ずっと、見ない様にしてきた色彩。
ずっと、大切だった色彩。
ずっと、大切なままの色彩。
それが、瞳に彩られた刹那、私の雫は止まることを忘れた。
「あやめちゃん…、ママ…。」
途切れる音色が、私の耳へと反響する。
それさえ雑音に感じるほどに、私は、白いリボンを抱いていた。
窓の外に奏でられ始めた雨音。
「もう、全部、私にちょうだい。」
私を見下ろす影が、私の声を紡ぐ。
それは、私から白いリボンを奪いそうで、怖かった。
だから、私は、雫に溺れながら、必死に首を振った。
遠くで、雷が鳴っている。
その旋律と色彩に、私の体が跳ね上がる。
ただ、白いリボンだけが、私の手の中で、温もりを描いていた。
その日から、私は、白いリボンをつける様になった。
一日も、欠かすことなく、縋るように。
それを、何よりのお守りと、祈るように。
私には、白いリボンがついている。
その色彩に、少しだけ救われる気がしていた。
それが、意味を持たないものだとしても、私にとっては、何よりの支えだった。
ママが贈ってくれた、最後のプレゼント。
あやめとお揃いになった、大切な宝物。
理由は、それだけで充分だった。
それでも、振り翳された一枚の写真が、私を踏み躙る。
それは、高校で撮られた、あの日の写真。
それを撮ったのは、私に告白してくれた、あの男の子。
私の噂を信じて、真実に変えた彼の痕跡。
そして、そこに堕ちていった私の傷跡。
ドレスの隙間から覗く、胸のホクロ。
何も纏わぬ被写体は、私によく似た顔だった。
そして、何より、そのホクロが、私であると突き付ける。
その写真を見つけたのは、お客様だった。
「ねえ、これって、あやめちゃん?」
突き付けられた写真に、私は固まる。
脈動が、私の体を切り裂いていく。
荒れ狂う呼吸が、空気を拒む。
止まらない雫が、ドレスを濡らしていく。
私は、ただ俯き、全てを見ないように、全てを聞かないように、体を丸めた。
「ちょっと、お客さん、セクハラはやめてください。」
私の背中を撫でたのは、ボーイさんではなく、お姉ちゃんだった。
「この子はね、一番、人気がある子なのよ。わかる?変なお客さんに付き纏われることも日常茶飯事なのよ。」
お姉ちゃんが、私の隣で、そのお客さんに詰め寄っている。
「こんな合成写真、あのお客さんなら、簡単に作れるわ。私がブレイクダンスを乱舞してる動画とかも作ってたくらいなんだから。」
そんなお客様は、知らない。
私の知る限り、お姉ちゃんにも、そんなお客様がついた事はない。
「捏造に踊らされて、うちの大切な子を傷つけるなら、貴方をこの店からブレイクするわよ。」
お姉ちゃんが、私とお客様の間に座り込む。
「嫌なら、そんなものさっさと消して、私の酒を飲みなさい。」
お客様の肩へと手を回し、彼の口へと大きなグラスを近づける。
中に入っているのは、テキーラ。
瞬く間に酔い潰れたお客様からスマホを取り上げ、お姉ちゃんは、画像を消した。
「あやめ、気をつけるのよ。こういう事って、よくあるから。」
お姉ちゃんが、私に微笑みかける。
私は、必死に、笑顔を返した。
だけど、あの写真は、捏造なんかじゃない。
今もどこかで流れ続ける、私というオモチャの証。
あれは、私の真実。
あれは、私の消せない過去。
その旋律が私に追いつき、そして、私に触れた。
スマホの通知音。
それは、酔い潰れて帰った、あのお客様からのメッセージ。
「あの写真、秘密にしてほしいよね?」
その何行にも紡がれた文字の塊を見つめ、私は床に座り込んでいた。
この日、私が何をしていたのか、私にはわからない。
気づけば、家の手前の遮断機を見つめていた。
点滅する赤い光。
その色彩は、今日も、警報音のように耳を劈く。
ふと見上げた先には、幸せそうな恋人たちが、微笑み合っている。
こんな小さな隔たりで、私は穢れを紡いでいる。
想考が、止まる。
過ぎゆく騒音が、私という存在を掻き乱していく。
やがて訪れた静寂が、世界に私だけを置いていく。
私の横を通り過ぎていく二つの足跡が、雫に歪む。
再び、警報音が、私の耳を劈く。
「はやく、いきなよ。」
影が囁く、私の声。
それは、私の背中を優しく押してくれる。
「もう充分、頑張ったよね…。」
私は、遮断機へと手を伸ばした。
ゆっくりと進む足。
何を考えているのか、わからない。
何を求めているのか、わからない。
この先に、何があるのか、わからない。
ただ朧げに、それだけを奏でている。
身を屈め、遮断機を潜る。
遠くの方から、騒音が近づいてくる。
私は、静かに瞼を下ろした。
強く引っ張られる腕。
鳴り響く警笛。
倒れ込む体。
開く瞼。
遠ざかる遮断機。
聞こえてくる音色。
彩られる二つの顔。
騒音を遮る大きな色彩。
抱きしめる柔らかな温もり。
ただ、それを見つめる、私。
私に、たくさんの音色を奏でてくれる、さっきの恋人たち。
その音色の意味を考えるほどの力は、残されていない。
それでも、その優しい旋律に、嗚咽が空へと響き渡る。
私は、まだ知らなかった。
この瞬間、この世界に、音が戻ってきた事を、色が戻ってきた事を、光が戻ってきた事を。
私は、まだ、気づけずにいた。
ただ、気づけずにいただけ。




