第13節
私は、蜜の味を知らない。
でも、私が売っているのは、蜜。
ただ、私は今も男の人が、怖い。
そばに居るだけで、震えてしまう。
横に座るだけで、雫が溢れそうになる。
その苦しみは、お酒に頼れば消えていく。
そう教えてもらったけど、私は、お酒が飲めなかった。
たった一口で、吐きそうになる。
借りたドレスから見える肌が、私を心細くさせる。
一緒に座ってくれる女の子たちの笑顔に埋もれ、私はただ、お酒を作り続ける。
時折、ここに彩られる知らない顔たちに、微笑みを奏でながら。
それが、私を、この世界の私へと変えていった。
あやめが、私から消えてしまって以来、私は、ほとんど話さなくなった。
それは、ここでも変わらない。
その事が、私が話す事という価値を生んだ。
望まずしてできあがった、私という商品が、売り上げという装飾を紡いでいく。
あの部屋で、私に話しかけていた彼が、オーナーだと知る頃。
その時には、私は、この店の歯車として、生きてもいいと教えてくれていた。
だからこそ、あの悍ましい家へと帰ることが、私の心を擦り潰していく。
送迎は、私の家までは送ってはくれない。
それは、私が望んだこと。
あれに、私が仕事をしていることを、知られたくなかった。
それは、一つの秘密を守るため。
お金を稼ぐ。
それを奏でることで、ようやく掴んだ希望だった。
「あの家から、逃げたいんです。」
私は、ママさんにだけ、私のこれまでの欠片を打ち明けていた。
彼女は、ただ静かに、私の話を聞いてくれた。
それは、静かなティールーム。
いつも、お酒以外は飲み物じゃないなんて笑っていた。
そんな彼女が、私の選んだ紅茶を手に、何時間も聞いてくれた。
私の嗚咽に呼応するかの様に、彼女の頬に雫が伝うのを見た時、私は誰かを信じたいと思えた。
だから、この仕事で貯めたお金を、何に使いたいのか、話すことができた。
そして、私が何をされてきたのか、全てを話すことができた。
私より10個も違わない、お姉さん。
それは、ママさんではなくて、私にとってのママだった。
「あの日ね、心配だったのよ。」
私を優しく抱きしめながら、ママは囁いてくれた。
「あやめは、ここで働くだろうなとは思ってた。でもね、そんな事、どうでも良かったのよ。」
ママの微笑みが、頬を伝う。
「ママをやってるけど、私も蝶だしね。」
「ママは、虫じゃないです…。」
「もう、本当に可愛い子ね、あやめは。蝶って、夜をやってる人って事なのよ。」
ママの優しい手が、私の頭を撫でた。
「スマホ、貸したでしょう。お店のやつ。」
「はい…。今も借りてます…。」
「あれね、本当、凄く怒られたのよ。」
「ごめんなさい…。」
「いや、私が貸したのよ。あやめが謝るところじゃないでしょう。」
ママが、煌めく様に笑う。
「どうして、貸したと思う?」
ママの音色が、私に問いかける。
「わからないです…。」
「一つは、信用。もう一つは、私が、繋ぎ止めていたかったからよ。」
「どうして…。」
「可愛い妹を、放っておく姉って、どうなのよって話よ。」
「お姉ちゃん…なの?」
「…血は繋がってないわよ。わかってると思うけど、あやめだから、一応…。」
「びっくりしました…。」
「多分、今、一番びっくりしたのは、私よ…。」
「あの…、お姉ちゃんって、呼びたいです…。」
「本当、可愛いわね、あやめは…。」
ティールームを出る頃には、空に月が彩られていた。
ぽつりぽつりと、雨が降り出す。
お姉ちゃんが買った、コンビニの傘。
それに弾む雨音。
それが、何だか心地よくて、私は、お姉ちゃんの肩に身を委ねた。
「雨って嫌いなのよ…。」
お姉ちゃんが、ため息に紡ぐ。
「私も、苦手でした…。」
「今は、好きってこと?」
「はい…。今は…。」
「え、何で?気になる。」
「あの…、えっと…。」
「言いにくいこと?」
「……恥ずかしいことです…。」
「私にくっつけるからとか?」
お姉ちゃんが、弾む様に笑う。
「…。」
「もしかして、当たってるの?」
「…はい。…誰かにくっつけるの、ずっとできなかったので…。」
私は、俯きながら、微笑んだ。
「それが、お姉ちゃんだから、嬉しいです…。」
雨音が、ぽつぽつと、傘を奏でている。
「私は、もう、用済み?」
背中を撫でる声。
それは、私の声。
思わず振り返った先には、人の行き交う色彩が溢れている。
そこに紛れ込んだ影が、私を見つめていた。
お店に着くと、幾つもの声が飛び交った。
「ママとあやめが、同伴してきた。」
その笑い声は、嘲りではない。
そう思えるほどに、私の心は、私を取り戻していた。
それを与えてくれるのは、この店の子たち。
私は、彼女たちより、売り上げを持ってしまった。
その事が、とても怖かった。
私は、夜に向いていない。
そんな事は、私が誰よりも知っている。
なのに、そんな私が、売り上げを持ってしまっている。
それが、彼女たちに、どんな不快感を与えるのか。
それだけが、とても不安だった。
「そりゃ、向いてなさそうな子が相手してくれる方が、何か萌えるでしょう。」
売り上げの話になると、必ず紡がれる音色。
「でも、忘れないでね。煌びやかな私たちが居るから、あやめは輝いてるのよ。」
それにカノンするように、次々と紡がれる。
「そうよ。感謝してよね。私たちも、お溢れもらってるけど。」
この言葉遣いに、最初は、怯えていた。
私は邪魔な存在だと、突きつけられている様で、とても怖かった。
だけど、その言葉遣いが、誰にでも向けられていることを知っていき、私は、少し、安心した。
だから、彼女たちの口癖が、私から、少しずつ恐怖を消していってくれた。
私は、私の力で立っているわけではないことを知っている。
私は、私を立たせることなんて、できるはずもない。
誰かが、そこに居てくれるから、ようやく、私は立っていられる。
この店で、彼女たちに囲まれて、私は立っていられる。
ずっと怖かったここは、いつのまにか、私の拠り所となっていた。
帰り道。
次々と降りていく女の子たちを見送りながら、私を乗せた車は、あの忌々しい家へと向かっていた。
駅前に停められた車を降りる。
それは、いつもの場所。
「いつも、ありがとうございます…。」
私は、運転席の彼の背中へと微笑み、暗い道を歩み始めた。
あの家に続く、最後の踏切。
遮断機が降りて、赤い点滅が瞳に彩られる。
それは、これから始まる悪夢への警報音の様に、鳴り響いていた。
あれが、今日も私を待っている。
帰りが遅くなった私への制裁と、あれの悦びのための旋律。
一歩ずつ近づく色彩に、私の顔から表情が消えていく。
あの家にたどり着く頃、私は着せ替え人形へと戻っていた。




