第12節
私にとって、学校は、聖域だった。
紡ぎ合う言葉、彩り合う微笑み、奏で合う思い出。
たくさんの温もりに囲まれ、たくさんの幸せを描いてきた。
もう、誰にも触れない。
もう、誰とも話さない。
もう、誰も頼らない。
もう、誰も信じない。
そんなこと、何一つ考えることはできない。
何も、考えることなんて、できない。
文字が、頭の中に芽生え、空虚に沈んでいく。
それでも、私が踏みしめた足跡が、その全てを叫んでいる。
電車に揺られ、いつかあやめと来た繁華街をふらふらと歩く。
ここを選んだのは、私を知る目が無いから。
ここを選んだのは、行き交う人々に、私を隠せるから。
ここを選んだのは、いつか見た景色に、彼らが空虚を抱いていると感じたから。
薄汚れた川。
煌々と光る看板。
どこまでも続く商店街。
飛び交う笑い声。
何も、私に入ってこない。
私は、橋の隅で座っていた。
空が青くなる頃から、人々が疎らになった、その後まで。
ただただ、あの悍ましい家に、居たくなかったから。
それでも、私は、あそこに帰らなくてはいけない。
それが何故なのか、私にも分からない。
あの家へと続く道。
遮断機が赤く点滅している。
耳を切り裂く様な機械音。
それが、警報音の様に、私を蝕む。
過ぎ去っていく騒音を、私は見つめていた。
それが、私を遠くへ運んでくれそうで、ゆっくりと手を伸ばす。
何も触れることのない手のひらに、夜風が纏わり付いた。
気づけば、また、あの悪夢が繰り返されている。
ぼんやりと見つめる天井が、私を嘲笑っていた。
あの日から、どれくらい経ったのだろう。
私は、橋の隅で、今日も息を潜めている。
何も映らず、何も聞こえない。
だから、誰も私に触れない。
それだけが、私の救いだった。
だけど、それは、容易く崩れ落ちる。
触れられた感覚に、私は体を跳ねた。
ゆっくりと上げる瞳に映ったのは、知らない人。
彼が、何かを言っている。
私には、それがわからない。
手を引かれ、引き摺られる様に、椅子に座らされた。
その柔らかな感覚が、私を包み込む。
目の前に出されたのは、紅茶。
それを私は、見つめている。
何故、こうなっているのか、私にはわからない。
私を撫でる声が、すり抜けていく。
何度も、何度も。
「蝶にならない?」
繰り返されるそれが、私に感覚を貼り付けていく。
折り重なるそのメッキが、一つの音色に私を掴ませた。
「私は…、虫ですか…?」
知らない人にまで、私は人として扱ってもらえない。
思わず溢れた音色に、私は、それに気づいてしまった。
「違う、違う。君が可愛いから、蝶の様に、お客さんをもてなしてほしいってこと。」
取り繕う様に紡がれる音色。
それが、私を撫でる。
次々と流れてくる音色が、私を包み込む。
久しぶりに聞いた、私を嘲らない言葉。
久しぶりに見た、私を軽蔑しない視線。
久しぶりに感じた、小さな温もり。
それが、全部、偽りだとしても、私は、それに手を伸ばしていた。
気づかないうちに、私は、それに縋っていた。
「体入だけでもいいからさ、試してみない?」
「…たいにゅう?」
「今日だけ、働いてみるってこと。」
それは、お酒を入れて、お話をする仕事。
居酒屋の延長だと、彼は言っている。
カフェで貯めていたお金は、あやめと一緒に暮らすための大切なものだった。
でも、今は、それが底をつきかけている。
ここに来るだけで、毎日、貯金が減っていく。
すり減っていく全てに、私は、ぼんやりとした焦燥感を抱いていた。
それでも、私は、ずっと抜け出せずにいた。
カフェも、あの日から行けていない。
スマホを壊されてから、連絡さえもしていない。
私は、私の大好きな場所にさえ、迷惑をかけている。
私は、悪い子。
そんな私が、この一歩を踏み出していいわけがない。
それに、私は、まだ…。
「17歳なんです…。」
「大丈夫、年齢誤魔化してる子も、いっぱい居るからさ。」
怖い。
変わるのが、怖い。
変えるのが、怖い。
もう、傷つきたくない…。
「でも…、私なんかが…。」
それでも、この人は、私を人として見てくれている。
「君だからだよ。君は、絶対に誰よりも輝けるから。」
私はオモチャじゃないって、言ってくれてる気がする。
だから、何かを変えてくれるかもしれない。
「わかりました…。」
私は、一筋の光を握りしめる様に、彼の後をついていった。
小さなビルが並ぶ道。
路地裏の様に感じる少し暗い道は、幾つもの光る看板に照らされている。
その道を挟む様に、たくさんの人があちこちに立っている。
その全てが、こちらをちらちらと見ている様で、私は俯きながら震えた。
足がもつれそうになるのを感じ、私は、すでに後悔していることを知る。
だけど、断る勇気なんて、出ない。
そこに辿り着くまでに、たくさんのことを話しかけられたけど、私は、何一つ聞き取れずにいた。
ようやく辿り着いた場所は、他より少し大きなビル。
狭いエレベーターに入った瞬間、目の前にいる人が男の人だと思い知らされた。
鼓動が、全身を貫く。
雫が溢れてくる。
嗚咽を必死に呑み込み、声を消す。
その背中が、私を嘲笑っている様で、ずっと床ばかりを見つめていた。
ほんの数十秒のことなのに、それが永遠に感じる。
ようやく開いたドアの先には、おしゃれな装飾が彩られていた。
それは、重い扉。
ゆっくりと開かれ、中へと促される。
たくさんの女の子が、ソファに座り、何かを話している。
中には、寝転がっている子もいる。
みんな、綺麗な人ばかりだった。
でも、何故だか、そこにたくさんの煌めく色彩が、どこか苦しそうに感じる。
それでも、彼女たちは、楽しそうで、弾む音色に溢れていて、私は、直ぐに目を逸らした。
彼女たちから見たら、私は、穢れた虫。
蝶にしてあげるという言葉が、今になって反響してくる。
その音色に触れた時、私の足は、動かなくなった。
だから、私を呼び止める声に、私は救われた。
手を引かれ、ドアの先へと入る。
中には、二人の大人が座っていた。
一人は、穏やかな表情の中に、冷たい熱を帯びた男の人。
もう一人は、怖そうな佇まいに、柔らかな瞳を奏でる女の人。
私を連れてきた彼が、その二人に耳打ちを奏でる。
何を話しているのかは、わからない。
ただ、言葉の欠片だけが、私の耳を撫でる。
みつけた、いいたま、かお、うれる、みせいねん、いえで、おせる、ちょう、うりあげ、たいにゅう、たてん、いろこい、まくら、ともえい、おとせる、あわ、かてる。
そして、ゆり。
全てが、私の耳に触れ、刻まれていく。
その音色に紛れた、一つの名前。
確か、私の名前も、ゆりだった気がする。
何かに触れた様に、私は瞳に彩る色彩が、淡く混ざっていくのを感じた。
「君は…、えっと、名前は?」
「……名前…。」
「本名じゃなくていいよ。というより、本名じゃない方がいいね。色々とやりにくくなるから。」
女性が、微笑みながら、掠れた声を奏でる。
「えっと…、偽名ですか…?」
「そうね、どっちかというと、芸名かな?もう決めてるの?」
私の名前、私という存在。
「わかりません…。」
「そんなに難しく考えねくていいわよ。でも、慎重に決めなよ。君の価値に繋がるものだから。でも、好きな芸能人とかは、やめといた方がいいね。」
彼女は、笑いながら私を見つめる。
きっと、これは、面白いお話なのだろう。
私も、その色彩を真似た。
「好きな人の名前は、だめですか…?」
「なになに、好きな人居るの?名前、聞かせてよ。」
「えっと…、あやめちゃんです…。」
伏せる瞳に彩られる、大切な日々。
もう触れることのできない、大切な宝物。
失ってしまった、私の全て。
「あやめね、可愛い名前だね。それにしなよ。」
これは、今日一日だけだと、彼は言っていた。
だから、私は、小さく頷いた。
「それで、身分証とかはある?」
彼女の隣に座る彼が、ようやく私へと奏でた言葉。
「持ってないです…。」
「何でもええんやけど。」
「えっと…。」
「大丈夫。でも、体入とはいっても、仕事やからな、身分証は確認しておきたいんよ。」
柔らかな音色が、私に安心を奏でようと紡いでくる。
私は、ポッケに入ったクマのポーチを取り出した。
それは、私の持つ、私の全て。
中に入っているのは、フクロウのスタンプカードと、二千円と、数十円。
そして、頭痛薬と、あやめと撮った一枚のプリクラ。
後は、その奥に紛れた保険証。
「保険証なら…。」
「ええやん。それでええよ。ちょっと貸してな。」
私から保険証を受け取り、彼は隣の部屋へと消えていった。
それを見送った彼女が、私に話しかけてきた。
「私は、ここでママを任されているのよ。よろしくね。」
差出された手、私は、それに触れることを許してもらえるのだろうか。
「もしかして、緊張してる?ただの握手よ。」
私は、ゆっくりと頷き、その手にそっと触れた。
その温もりが、私は私でいていいと言ってくれている様で、いつまでも、離せずにいた。
「もう、緊張しすぎ。それとも、私に惚れちゃった?そんな可愛いあやめに聞きたいんだけど、趣味とかある?好きなこととか。」
私は、何も思いつかなかった。
だから、ゆっくりと首を振ることしかできない。
「何でもいいのよ。お客さんと話すネタにもなるし。昔、好きだったこととかでも。」
「えっと…、絵本作家になりたかったです…。もう諦めました…。」
「そうなんだ。でも、ちょっと弱いかな。他には何かないの?」
「…、えっと、少しだけ…バイオリンを習ってました…。でも、好きなことかは、わからないです…。」
それは、幼少期の色彩。
ママと一緒に通っていた教室。
何年も触れていない旋律。
「それ、面白いね。バイオリンを弾くキャバ嬢とか。」
彼女の笑い声が、部屋に反響する。
「ねえ、あんた、楽器屋まで走ってきてよ。」
その音色と共に、彼女が数枚のお札を取り出した。
「良いですけど、多分、開いてませんよ。」
「何よそれ、役立たずのボーイね…。それは、あんたの予想でしょう。とりあえず、走ってきてよ。」
彼女に手渡されたお札を手に、私をここまで連れてきた彼が、部屋を出て行った。
その色彩が、とても怖くて、私は俯いて震えることしかできずにいた。
「ごめんね、彼とは友達なのよ。昔から、あんな感じだから、気にしないで。」
さっきまでの色彩が嘘の様に、彼女は柔らかく微笑む。
私は、その表情に少し安心して、顔を上げた。
「そういえば、17なんだってね。」
「はい…。」
「じゃあ、今日からあやめは、20歳ね。」
「え…。」
「ここでは、ということよ。」
彼女が立ち上がり、私の手を取る。
「誕生日、おめでとう。あやめ。あいつが買えるかわからないけど、バイオリンは、誕生日プレゼントだと思ってよ。」
「そんな…、頂けません。」
「まあ、普通に驚くわよね。でも、それだけ、あやめが好きってことよ。持って帰らなくても良いから、いつでも、弾いてみてよ。毎日でも良いわよ。」
私は、次々と紡ぎ出される旋律に圧倒され、ただ頷くことしかできずにいた。
「あやめ、連絡先交換しておこうか。」
頷く私を見て微笑みながら、彼女は、スマホを取り出した。
「あの…、私…、スマホ持っていないんです…。」
「何それ…、どうやって生きてるの…?」
「えっと…、毎日、あの橋で座って生きてます…。」
「そうじゃなくて…、困ったわね。」
その音色と共に、彼女は、机に置かれたスマホを手に取った。
「これ、ボーイ用のだけど、貸してあげる。ここの子と、お客さんと連絡を取るのに使ってね。変なことに使っちゃだめよ。」
手に握らされたスマホ。
あの日以来、初めて手にした、誰かと繋がるための道具。
私は、ぼんやりとそれを見つめる。
それは、私が、この世界へと沈んでいくことを、意味していた。
そして、それは、私にとって、生きる道だということも、教えてくれた。




