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残響  作者: ことは
11/21

第11節

あの家に戻らなければならない。

それは、逃げられない現実。

「ゆり、忘れないで。絶対に守るから。いつも、傍に居るから。」

忌々しい家の前。

そこで私たちは、私たちを包み込み、私たちが居ることを確かめ合う。

これから待ち受けていることは、わかっている。


ずっと逃げていたかった。

それは、ただの夢だった。

どれだけ走っても、時は私たちを追い越していく。


体が震えている。

雫が溢れ出る。


指先が離れるまで、私たちは、ここに溶け合う体温を握りしめていた。

お父様の車が見えなくなるまで、私は、縋る様に、その色彩を見つめ続けた。

取り残された二つのリュックと、私。

それを引きずりながら、私はドアを開けた。


そこに立っていたのは、歪なあれ。

「おかえり、ゆり。あやめちゃんと、いっぱい勉強できた?」

微笑みの様な不協和音が、私を劈く。

私は、それを見ることなく、小さく頷いた。

「最近、ゆりの紅茶を飲んでいないな。淹れてくれないか?」

横切る私の頬を撫でる、不快音。

「はい…。」

私は、リュックを手放し、リビングへと足を引き摺った。


私を支配しているのは、あの夜の痛み。

あの日からの不快感。

そして、消えない嫌悪感。


震える手で、缶を開ける。

それは、可愛い彩りに溢れた缶。

それに惹かれて、買った紅茶。

遠い昔に買った物。

口に合わなくて、ずっと置いたままだった。

それでも、香りだけは良い。

その茶葉を秤に乗せ、ポットへと入れていく。


近寄るあれが、私の全てを凍り付かせる。

ゆっくりと挙げた、あれの腕に、私の体が跳ね上がる。

気づけば、体を丸め、私は痛みに備えていた。

それを嘲笑うかの様に、背中を這う悍ましい手。

言葉にできない不快感と嫌悪感に、私は震えた。


まるで偶然のように捲れ上がるスカートに、私は思わず距離を取る。

私の瞳には、あれの足だけが彩られている。

耳を貫く舌打ちが、私を刺したころ、弾ける様な痛みが、私の頬を熱くした。

取り上げられたスマホが、私の頭を割り、画面が砕け散る。

赤く彩られたスマホは、黒く沈み、何も彩ることは無くなった。

それを、ぼんやりと見つめる私に、あれが覆い被さる。


私の悪夢は、再び、奏でられ始めた。


泣き叫ぶ口を塞がれ、ワンピースが破れる。

布の破片となったピンクの色彩を、私は床を這いながら見つめていた。

その悍ましい手が、私を覆う。

そこに彩られたのは、不快感よりも、嫌悪感よりも、恐怖だった。

「あやめちゃん…。」

思わず漏れる吐息。

私は、瞼を強く閉じ、リビングに広がる色彩を、私の世界から消そうとした。

「ごめんなさい…、あやめちゃん…。」

声にならない詩が、空虚に舞う。

「俺だけを見ろ。」

歪な音が、響き渡る。

それは、私には届かない。

ただただ、それが気持ち悪くて、怖い。

瞼に彩る暗闇に、私は逃げ込もうと踠く。

やがて、あれから生える長い虫が、私を守る最後の色彩に触れる。

その純白が奪われる絶望が、私に声を与えた。

「嫌…、嫌。」

掠れる音色。

それが届いたのかさえ、私にはわからない。

ただ、あれの蠢く空洞から漏れ出す舌打ちが、私の頭に突き刺さる。

それをむしり取る様に、髪を掴んだあれは、私を玄関の外へと引き摺り出した。


石畳に咲いた、小さな花。

その赤い揺めきが、私から零れ落ちた色彩だと、叫んでいる。

月明かりから隠れる様に、私は息を潜めた。

両手で膝を抱えても、どれだけ体を丸めても、全身を撫でる冷たい夜風が、私の心を切り裂いていく。

それよりも、終わらない悪夢の恐怖と、崩れゆく私に、震え続けていた。


ただぼんやりと、痣に塗れた足を見つめる。

空を彩る暁が、私を焼くのを待つ様に。



もう、あれは、時間も場所も選ばなくなった。

私が逃げたことへの、罰。

全部、私が悪い。

その日々が、私から私を拒んでいく。

その色彩が、私から私を手放していく。

その旋律が、私から私を消し去っていく。

だから、私は、本当の私を、思い出した。

それは、あれのオモチャ。

もう、あれを満たすための道具ですらない。

ただ、あれに嘲笑われるためだけのオモチャとなった。


繰り返される悪夢に、いつの間にか、私は、雫を失っていた。


助手席に縛られ、街灯が浮かんでは消えていくのが、瞳に反射する。

その瞳が彩られた着せ替え人形は、後部座席に捨てられた服を待つことさえない。

ただ、伝わる振動に、身を任せている。

辿り着いたのは、コンビニ。

剥ぎ取られた純白と引き換えに、二枚の紙切れを差し出された。

腰を這う様に、残された純白へと、それが潜り込む。


「行っておいで。」

あれの音に呼応するかの様に、ドアを開いた。

着せ替え人形は、その身を守る様に、体を丸め、腕で包み込む。

ただ俯き、コンクリートだけが、その瞳に滲む。

生暖かい空気が、穢れた身に触れる頃、雑音が大きくなる。

聞こえてくるシャッター音は、着せ替え人形には響かない。

着せ替え人形は、純白に挟まれた二枚の紙切れを渡し、何かを受け取った。


ふらふらと車に戻る頃、一枚の写真が、着せ替え人形に名前を与えていた。



娼婦。

それが、私の、学校での名前となった。


それを知ったのは、あれに連れられて、あの日以来、初めて学校へ行った日。

校門に立たされ、私は、歩き方さえ分からずに、過ぎゆく影を見送っていた。

全てが、私を避ける様に消えていく。

時折、耳を撫でる音色は、いつも一つだった。

それが、私の名前と知るのは、教室にたどり着いた頃。


私に声をかけてきたのは、いつか、告白してくれた男子だった。

ただ、今は、男の人が、近づくだけで、怖い。

その僅かな動きで、体を丸めてしまう。

まるで、全身に痛みが反響する様に。

だから、突きつけられた腕に、私は思わず瞼を閉じた。

「これって、本当に、ゆりちゃん?」

彼の旋律と共に、教室が騒めく。

ゆっくりと開く瞼。

瞳に映ったのは、コンビニに立つ着せ替え人形だった。

「どう見ても、ゆりちゃんなんだけど…。」

私は、何も奏でることさえできずに、震えていた。

手を握り締め、爪が肌を抉る。

ただそれだけを、私は見つめていた。

嘲笑う旋律が、私へと突き刺さる。

私は、意識が吸われ、目の前が回り続けるのを、必死に耐えていた。

それを嘲笑うかの様に、彼が奏でる。

「あの噂、本当だったらさ、俺とも…。」

チャイムが鳴り、先生が入ってくる。

生徒たちが、自らの席へと戻っていく。


私の中で反響する、彼の最後の言葉。

私の耳へと潜り込んでくる嘲りの囁き。

私の全身へと突き刺す軽蔑の眼差し。

その全てが、私を蝕んでいく。


あやめは、まだ来ていない。

私は、縋る様に、あやめの席を探した。

そこにあるはずの色彩が、無くなっている。

まるで、初めから何もなかったかの様に。

その空白が、私に一つの答えを振り翳す。


あやめは、私から消えていった。

その現実は、蝕まれた私に残る、最後の私を踏み躙る。

それだけが、私の中を埋め尽くし、私は、意識を手放した。



その日、私は何も聞けず、何も言えず、動くことさえ出来ずにいた。

ただ、ここに至るまでの全てを、私は何も思い出せずにいる。

そして、それを思い出そうとさえ、思えずにいた。

茜色に染まる教室に、私は取り残されている。

閉め忘れられた窓から、冷たい風が入り込んでくる。

カーテンが揺れ、雨音が耳を劈いた。

その旋律に、肩が跳ね、ゆっくりと窓を見る。


そこに揺らぐのは、一つの影。

「君は、独り。」

私は、独り。

「君が、招いたことだよ。」

私が、全部、悪い。

私が告げる、私の真実。


悠久を彩る様に、それが、私の中に反響し続ける。

私は、それに流され、深く深く溺れていく。

孤独と、罪悪感。

それだけが、私を支配していた。


だから、私の目の前に立つ色彩にも、私を呼ぶ旋律にも、気づけずにいた。

肩に触れられた感覚に、私は体を跳ね、丸くなる。

「ゆりちゃん、聞いてる?朝の続きなんだけど…。」

彼らが、私に告白してくるのは、いつも、今と同じ色の教室だった。

私は、彼が何を言っているのか分からずに、ただ震えている。

彼が何であれ、何を言おうとも、何をしようとも、彼が男の人である限り、私を恐怖の底へと突き落とす。

それが、何を齎そうとも、何も齎さずとも。

それでも、私に触れたそれは、私の意識を呑み込んでいく。


雨音が、窓を打ち付ける。

夕陽に照らされた灰色の教室が、揺れている。

床に散乱した、私を守っていた物。

隠すことさえ出来ない、穢れた私。

輪郭を失ったそれらは、私の瞳に溶け落ちた。


聞こえてくるシャッター音。

それを覆う、言い訳をする様に奏でられた音色。

それらは、音のない騒音となって、私の耳に触れてきた。


何も無い此処に、影がひとつ、私を見下ろしている。

「君は、また、私に押し付けるんだね。」

その音色の意味は、わからない。

それが、意味を持つ物なのかさえ、わからない。

ただ、それが音であることだけは、わかっていた。


「ごめんなさい…。」

色彩も、旋律も、感覚も、時の流れさえも、全部が私を責めてくる。

だから、全部、私が悪い。


どうやって、ここに来たのかわからない。

灰色の世界に揺らめく色彩は、悪夢を奏でる部屋。

私は、歪つに巻きついた制服の締め付けに、吐息を塞がれる。

ただぼんやりと、今日も始まる悪夢を待つかのように。


陽光が、私を焼き尽くす。

開いた瞼に入り込む灰色。

引き摺られ、辿り着いた学校。

そこに蔓延っていたのは、噂が現実に塗り替えられた軽蔑と嘲り。

全てが、私を壊していく。

崩れ散っていく私を、私はぼんやりと眺めている。

私は、着せ替え人形。

娼婦という名前の、オモチャ。

それは、何も無い世界に落とされた、唯一の真実。


いつの間に、ここに来たのだろうか。

いつの間に、ここに座っていたのだろうか。

今、どれくらいの時が流れたのだろうか。

騒音の消えた教室で、小さな揺めきに溺れていた。

そこには、何も無い。

ただただ、ぼんやりと、虚無の淵に触れていた。

「聞きたいことと、話したいことがあるから、生徒指導室に来なさい。」

私は、担任の先生の声に、意識を取り戻す。

その声に促され、私は、ふらふらと後をついて行った。


小さな部屋。

そこには、先生と、私だけ。

目の前で、先生が何かを言っている。

それが、何かはわからない。

だけど、私を突き放していることだけは、伝わっている。

そして、私を軽蔑していることも、その奥に孕む音色も、伝わっていた。

それは、私が、勝手に思っていること。

そう信じたい。

だけど、私の耳を貫く旋律も、私の瞳に刻まれる色彩も、それを許してはくれなかった。


俯き、テーブルを見つめる私。

突きつけられる、スマホの画面。

目の前に響く、椅子が動く音。

私の制服に触れる、悍ましい感覚。


消えた、灯火。


空が黒色に触れる頃、私は、生徒指導室を後にした。

あの空間で、私が何を言われ、何をされたのか、もう覚えていない。

ただ、一つだけ、この中に残っているものがある。

それは、私が触れている、最後の祈り。


心が無ければ、どれだけ幸せだっただろう。


真っ暗な静寂の空間で、それだけが、こだましている。



私は、この日、学校を辞めた。

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