第10節
あやめの部屋は、いつも整然としている。
服が少し汚れただけで、あんなに嘆くくらい、いつも全部が綺麗。
あやめが綺麗なのも、きっと、それが理由かもしれない。
そこに乱雑に置かれた、私の荷物。
リュックに無理に詰め込んだ、私が生きてきた証が、私を囲む。
その色彩が、私には、毒の花が咲いている様に感じた。
床の向こうから、あやめの声が響いてくる。
何を言っているのかは、わからない。
ただ、あやめのお父様と、言い争っている様に感じる。
私は、その旋律に、少しだけ怯えていた。
階段を登る音。
それを追う様に、もう一つ奏でられる。
「待ってよ。今、話すことじゃない。」
あやめの音色が、ドアを貫いた。
私は、思わず振り返る。
その瞬間、ドアを開けたのは、あやめのお父様だった。
「ゆりちゃん、おじさんは、詳しいことは聞いていないし、聞くつもりもない。」
私は、動くことさえできずに、その色彩を見つめる。
「あやめは、受験勉強のためだとも、言っていた。それを確認するつもりもない。」
私は、ゆっくりと頷く。
あやめが、お父様に掴みかかり、やめるように叫んでいた。
「これは、大事なことなんだ。未成年の子が、無断で他の家で暮らす。それは、おじさんたちにとっては、未成年の子を、親御さんの許可なく泊めていることになる。その意味は、わかるかな。」
私は、呆然と、その音色を眺めることしかできずにいた。
「もし、ゆりちゃんのお父さんが、誘拐で通報したら、大事件になる。もちろん、それは、おじさん達にとって、本当に困ることなんだ。そして、ゆりちゃんにとっても、今後、困ることになると思う。」
私は、ゆっくりと頷いた。
「だから、おじさんは、ゆりちゃんのお父さんに、ちゃんと話して、許可をもらわなきゃならない。」
それは、つまり、許可が得られなければ、ここに居ることはできないということ。
そして、きっと、許可は得られない。
「だからって、今すぐやらなくてもいいでしょう。お泊り会だって、何度もしてきたよ。」
あやめが、お父様の口を塞ぐ様に、叫んだ。
「あやめ、聞きなさい。ゆりちゃんも。」
その穏やかで張り詰めた旋律が、この空間を静寂に彩る。
「何も聞かなくても、ゆりちゃんを見れば、察しはつく。ただの親子喧嘩じゃないことは、わかる。大事になれば、そのたくさんの傷の意味も、調べられる。それは、本当に家族を失うことにも繋がる。」
私たちは、ただ、それを聞くしかできずにいた。
「二人とも、賢い子達だ。でも、まだ子供だ。子供は、責任を負わなくてもいい。だからこそ、責任を取れないんだよ。それは、大人の役目だから。」
あやめが、震えているのが、お父様の背後からでも伝わる。
「その結果、望まないことになったとしても、責任を負うのは大人で、責任を負えないのが、子供なんだよ。」
もういい。
あやめの口が、それを彩っている。
その音色に触れたのは、私だけかもしれない。
「もちろん、そうならない様に話すつもりだけど、そうなる事も、ちゃんと理解してほしい。」
お父様は、その旋律を奏で終えると、私たちの声も待たずに、階段を降りていった。
あやめは、その背中を、いつまでも睨み続けている。
「ごめんね…。」
私には、それを紡ぐだけで、精一杯だった。
取り残された私たち。
私は、乱雑に散らばる私の穢れを見つめている。
ぽたぽたと手の甲を伝う何かが、私の背負う荷物と気づいた。
それを包み込む様に、あやめの腕が温もりを与えてくれる。
「ごめんね。でも、大丈夫。こうなる事も、考えてた。」
あやめの声が、震えている。
「ゆり、秘密は、守れない…。本当に、ごめん。」
私を包む腕に、力が入っていくのを感じる。
「私、明日、先生に相談する。お父さんは当てにならない。」
「…。」
「私、ゆりのパパを、奪っちゃうかも…。でも、約束する。私は、絶対に、ゆりを守る。」
「…。」
「だから、何があっても、必ず待っていてね。」
「…。」
「…ゆり、………愛してるよ。」
「…私も……。」
いつの間に、降り出したのだろう。
雨音が、窓を打ちつけている。
きらきらと揺らめく蛍光灯の光に、白いリボンと黄色いリボンが静かに溶けていった。
いつ、あれの車が、ここに着くのだろう。
いつ、あれが、私を捕まえにくるのだろう。
その不安だけが、私たちに纏わりつく。
でも、この部屋の扉を開けた色彩は、あれではなく、お父様だった。
「数日だけなら、良いって言ってもらえたよ。」
その音色に、私たちは、抱き合ったまま、吐息を奏でた。
「本当に、あやめが馬鹿な子で良かったよ。それに、ゆりちゃんが賢い子で助かったよ。」
私たちは、瞳を彩らせ合いながら、首を傾げる。
「おじさんは、これから晩酌の時間だから、静かに受験勉強を頑張るんだよ。」
そう微笑みながら、お父様は階段を降りていった。
「ゆり。私、頑張るからね。私の気持ち、変わらないから。」
その言葉の本当の意味は、わからない。
でも、あやめが、私なんかのために、頑張ってくれている。
だから、私も頑張らないといけない。
何をすれば良いのかさえ、何もわからないけど。
それでも、私は…。
「頑張る…。私も…。」
俯いたままでしか、紡げなくても、その言葉を奏でた刹那に、雫が溢れ出てしまっても、私は、頑張らないといけない。
「じゃあ、頑張って、今は休んで。」
その全部を守る様に、あやめの温もりが、私を包み込んでくれた。
何日も経っていない事なのに、何年振りかのように、私は安息に微睡むことができた。
ただ、小さな物音ですら、私は跳ね起きてしまう。
真っ暗な部屋、そこに奏でられるのは、あやめの寝息だけ。
なのに、悍ましい目が、私を睨みつけている様で、見渡すことさえ、怖い。
何も、触れていないのに、体中を這う不快感に、震える。
ここは、安全なのに。
ここに在るのは、愛しい人だけなのに。
もう安心しているのに。
あの家の、あの部屋よりも、なぜだか、怖い。
溢れ出す涙に、この何日かの色彩が心に爆ぜる。
ようやく、ゆっくりと眠れるはずだった静寂の夜は、現実に纏う悪夢の中で、私を嘲笑っていた。
ただ、息を殺して奏でる嗚咽だけが、これが夢ではないことを、彩っている。
背中に触れる温もり。
それが、私を強張らせた。
「大丈夫…?」
掠れた声が、私を包む。
その愛しい音色に、私は、ようやく悪夢を手放した。
「…。」
声にならない声が、部屋に響き渡る。
あやめは、私を抱きしめ続けてくれた。
何も聞かず、何も言わず、陽光が部屋を彩る、その時まで。
私が、夢の中へと落ちていく、その刹那まで。
ただ静かに、ただ柔らかく、ただ優しく。
私が、目を覚ました頃、家には誰も居なかった。
スマホが光っている。
あやめからの通知に、私は画面を開いた。
そこに書かれた文字。
「いってきます。」
私は、震える指で、言葉を奏でる。
「いってらっしゃい。」
私は、ゆっくりと立ち上がり、この優しさに溢れた家を出た。
あの日から、ずっと休んでいるアルバイト。
あやめと一緒に始めた、初めてのアルバイト。
選んだ理由は、お店が可愛いから。
そして何より、制服が可愛いから。
だから、紅茶の種類が少なくても、コーヒーがあやめの口に合わない味でも、気にならなかった。
ただ、このお店が好き。
それだけで、ずっと続けていた。
私が休んでいる理由は、体調不良になっていた。
あやめが、みんなに言い訳してくれた。
本当は、顔を出したかったけど、今の私には、勇気が生まれない。
リュックにしまった財布には、数千円と、このお店のスタンプカードが入っている。
それは、フクロウの絵が彩られた可愛いカード。
いつも、お会計をするときに、フクロウの顔が私を見つめてくれる。
それだけで、いつもは、少し幸せになれた。
でも、今は、この子と目を合わせる勇気さえ、生まれない。
でも、カゴからリュックに詰め込みながら、私は少しだけ元気になれたことに気づけた。
初めて来る、このお店は、初めて見る食材もたくさんある。
きっと、しばらくお世話になるのだろう。
そう思えたことが、少しだけ、嬉しかった。
それは、あやめが居てくれるから。
今は隣に居なくても、待てば必ず会えるから。
リュックの重みに、少しふらつきながら、私は、あやめの家へと歩き出した。
あやめの家は、あやめらしい綺麗な佇まいを彩っている。
あやめから預かったカギで、玄関を開ける。
凛とした香りが、私を夢見心地にさせる。
ゆっくりと閉まるドア。
その音色が、静寂に響き渡る。
「お邪魔します…。」
私は、キッチンへと向かった。
夜ご飯は、お母様が考えているかもしれない。
だから、私にできるのは、お二人の晩酌の準備くらい。
今日も、それをするのかはわからない。
でも、お父様は、昨日、晩酌をすると言っていた。
私は、幾つかの小さな料理を奏で、それを仕舞っていく。
粗熱が取れた頃、それを冷蔵庫に入れ、私は、あやめの部屋へと戻ろうとした。
階段へ向かうために、玄関を横切る。
その瞬間、ドアが開いた。
私の体が跳ね上がる。
あれが、ここにはいつまで来るはずなどない。
それでも、私の体は、恐怖を奏でている。
硬直する心が、玄関を見つめている。
入ってきたのは、あやめだった。
「ただいま。」
その微笑みに、私は、ここに崩れ落ちた。
靴を脱ぎ捨て、私を包み込むあやめ。
その表情は、少し悲しそうに見えた。
「ごめんね、やっぱり、大人は当てにならないかも…。」
ゆっくりと紡ぐ、あやめ。
「先生、家庭に介入はできないって…。それで、ゆりと、ちゃんと話したいって…。」
あやめの声が、震えている。
「私、聞いたの。ゆりが話したら、助けてくれるんですかって。」
「うん…。」
「相談に乗ることはできるだって。」
「うん…。」
「通報するかどうかは、ゆりが決めることだって。」
「…。」
「それって、ゆりが救われないよね。だから、私、怒りに任せて、帰ってきちゃった…。」
「ごめんね…。」
「先生が、悪いの。」
「…私が悪いの。」
「それは、違う。それだけは、違うよ。」
「ごめんね…。」
「ゆり、私を見て。」
私は、ゆっくりと顔を上げた。
唇に触れる温もり。
私の瞳を彩るのは、あやめだけ。
「大好きだよ、ゆり。私は、何をしても、ゆりを守るからね。」
静寂が、玄関に影を彩った。
ただ、私たちは、その色彩の中で、お互いを確かめ合う様に、その温もりを感じ続けた。
玄関の窓から漏れる光。
音の無い旋律が、私たちを包み込んでいる。
その静寂の揺めきに、雨音が、聞こえた気がする。
「巻き込むの?」
私の声が、私の中に反響する。
巻き込まない。
巻き込みたくない。
私は、私へと、小さく首を振った。
二人で登る階段は、少しだけ軽く感じる。
私に話しかける私の影が、玄関に立ったまま、私を見つめている。
「ごめんね…。」
誰に届かない音色を、その影へと囁いた。
雨音は、いつの間にか止まっている。
窓を見つめ、再び瞳を彩る、静寂を紡いだ玄関。
その影は、すでに消えていた。
翌日も、あやめは、制服を着て、家を出た。
見送る私に奏でる微笑みが、少し儚く感じる。
それでも、ここに帰ってくることを、私は知っている。
だから、私は、手を振った。
その日から、あやめの帰りが遅くなった。
アルバイト先のカフェは、夕方からレストランに変わる。
それでも、私たちのシフトは、必ず10時には終わる。
私は、あやめの部屋と玄関を、何度も行き来した。
どうしても心配で、私は、お母様に縋る。
ようやく、私は、あやめの帰りが遅い理由を知った。
「お店で、大事な話をしているから、遅くなるんだって。送ってもらうから、迎えも要らないみたいよ。」
それでも、お父様は、晩酌をせずに、ソファで待ち続けていた。
その表情が、少し怖くて、私は、おやすみなさいさえも言えずに、リビングを出た。
あやめが帰ってきたのは、もうすぐ2時になる頃だった。
その顔を見た瞬間、私は、飛びつく様に、あやめを包み込んだ。
「ただいま。」
ほのかな香水の香りが、私の鼻を擽る。
「ごめんね、心配かけたかな?」
その柔らかな微笑みに、私は顔を埋めた。
「ごめんね…。少しだけ…、怖かったの…。」
「大丈夫よ。どこに居たって、私はゆりの傍に居るから。」
撫でてくれる柔らかな手に、私は小さく頷いた。




