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残響  作者: ことは
10/22

第10節

あやめの部屋は、いつも整然としている。

服が少し汚れただけで、あんなに嘆くくらい、いつも全部が綺麗。

あやめが綺麗なのも、きっと、それが理由かもしれない。


そこに乱雑に置かれた、私の荷物。

リュックに無理に詰め込んだ、私が生きてきた証が、私を囲む。

その色彩が、私には、毒の花が咲いている様に感じた。


床の向こうから、あやめの声が響いてくる。

何を言っているのかは、わからない。

ただ、あやめのお父様と、言い争っている様に感じる。

私は、その旋律に、少しだけ怯えていた。


階段を登る音。

それを追う様に、もう一つ奏でられる。

「待ってよ。今、話すことじゃない。」

あやめの音色が、ドアを貫いた。

私は、思わず振り返る。

その瞬間、ドアを開けたのは、あやめのお父様だった。

「ゆりちゃん、おじさんは、詳しいことは聞いていないし、聞くつもりもない。」

私は、動くことさえできずに、その色彩を見つめる。

「あやめは、受験勉強のためだとも、言っていた。それを確認するつもりもない。」

私は、ゆっくりと頷く。

あやめが、お父様に掴みかかり、やめるように叫んでいた。

「これは、大事なことなんだ。未成年の子が、無断で他の家で暮らす。それは、おじさんたちにとっては、未成年の子を、親御さんの許可なく泊めていることになる。その意味は、わかるかな。」

私は、呆然と、その音色を眺めることしかできずにいた。

「もし、ゆりちゃんのお父さんが、誘拐で通報したら、大事件になる。もちろん、それは、おじさん達にとって、本当に困ることなんだ。そして、ゆりちゃんにとっても、今後、困ることになると思う。」

私は、ゆっくりと頷いた。

「だから、おじさんは、ゆりちゃんのお父さんに、ちゃんと話して、許可をもらわなきゃならない。」

それは、つまり、許可が得られなければ、ここに居ることはできないということ。

そして、きっと、許可は得られない。

「だからって、今すぐやらなくてもいいでしょう。お泊り会だって、何度もしてきたよ。」

あやめが、お父様の口を塞ぐ様に、叫んだ。

「あやめ、聞きなさい。ゆりちゃんも。」

その穏やかで張り詰めた旋律が、この空間を静寂に彩る。

「何も聞かなくても、ゆりちゃんを見れば、察しはつく。ただの親子喧嘩じゃないことは、わかる。大事になれば、そのたくさんの傷の意味も、調べられる。それは、本当に家族を失うことにも繋がる。」

私たちは、ただ、それを聞くしかできずにいた。

「二人とも、賢い子達だ。でも、まだ子供だ。子供は、責任を負わなくてもいい。だからこそ、責任を取れないんだよ。それは、大人の役目だから。」

あやめが、震えているのが、お父様の背後からでも伝わる。

「その結果、望まないことになったとしても、責任を負うのは大人で、責任を負えないのが、子供なんだよ。」

もういい。

あやめの口が、それを彩っている。

その音色に触れたのは、私だけかもしれない。

「もちろん、そうならない様に話すつもりだけど、そうなる事も、ちゃんと理解してほしい。」

お父様は、その旋律を奏で終えると、私たちの声も待たずに、階段を降りていった。

あやめは、その背中を、いつまでも睨み続けている。

「ごめんね…。」

私には、それを紡ぐだけで、精一杯だった。



取り残された私たち。

私は、乱雑に散らばる私の穢れを見つめている。

ぽたぽたと手の甲を伝う何かが、私の背負う荷物と気づいた。

それを包み込む様に、あやめの腕が温もりを与えてくれる。

「ごめんね。でも、大丈夫。こうなる事も、考えてた。」

あやめの声が、震えている。

「ゆり、秘密は、守れない…。本当に、ごめん。」

私を包む腕に、力が入っていくのを感じる。

「私、明日、先生に相談する。お父さんは当てにならない。」

「…。」

「私、ゆりのパパを、奪っちゃうかも…。でも、約束する。私は、絶対に、ゆりを守る。」

「…。」

「だから、何があっても、必ず待っていてね。」

「…。」

「…ゆり、………愛してるよ。」

「…私も……。」


いつの間に、降り出したのだろう。

雨音が、窓を打ちつけている。

きらきらと揺らめく蛍光灯の光に、白いリボンと黄色いリボンが静かに溶けていった。



いつ、あれの車が、ここに着くのだろう。

いつ、あれが、私を捕まえにくるのだろう。

その不安だけが、私たちに纏わりつく。

でも、この部屋の扉を開けた色彩は、あれではなく、お父様だった。

「数日だけなら、良いって言ってもらえたよ。」

その音色に、私たちは、抱き合ったまま、吐息を奏でた。

「本当に、あやめが馬鹿な子で良かったよ。それに、ゆりちゃんが賢い子で助かったよ。」

私たちは、瞳を彩らせ合いながら、首を傾げる。

「おじさんは、これから晩酌の時間だから、静かに受験勉強を頑張るんだよ。」

そう微笑みながら、お父様は階段を降りていった。


「ゆり。私、頑張るからね。私の気持ち、変わらないから。」

その言葉の本当の意味は、わからない。

でも、あやめが、私なんかのために、頑張ってくれている。

だから、私も頑張らないといけない。

何をすれば良いのかさえ、何もわからないけど。

それでも、私は…。

「頑張る…。私も…。」

俯いたままでしか、紡げなくても、その言葉を奏でた刹那に、雫が溢れ出てしまっても、私は、頑張らないといけない。

「じゃあ、頑張って、今は休んで。」

その全部を守る様に、あやめの温もりが、私を包み込んでくれた。



何日も経っていない事なのに、何年振りかのように、私は安息に微睡むことができた。


ただ、小さな物音ですら、私は跳ね起きてしまう。

真っ暗な部屋、そこに奏でられるのは、あやめの寝息だけ。

なのに、悍ましい目が、私を睨みつけている様で、見渡すことさえ、怖い。

何も、触れていないのに、体中を這う不快感に、震える。

ここは、安全なのに。

ここに在るのは、愛しい人だけなのに。

もう安心しているのに。

あの家の、あの部屋よりも、なぜだか、怖い。

溢れ出す涙に、この何日かの色彩が心に爆ぜる。


ようやく、ゆっくりと眠れるはずだった静寂の夜は、現実に纏う悪夢の中で、私を嘲笑っていた。

ただ、息を殺して奏でる嗚咽だけが、これが夢ではないことを、彩っている。


背中に触れる温もり。

それが、私を強張らせた。

「大丈夫…?」

掠れた声が、私を包む。

その愛しい音色に、私は、ようやく悪夢を手放した。

「…。」

声にならない声が、部屋に響き渡る。

あやめは、私を抱きしめ続けてくれた。

何も聞かず、何も言わず、陽光が部屋を彩る、その時まで。

私が、夢の中へと落ちていく、その刹那まで。

ただ静かに、ただ柔らかく、ただ優しく。



私が、目を覚ました頃、家には誰も居なかった。

スマホが光っている。

あやめからの通知に、私は画面を開いた。

そこに書かれた文字。

「いってきます。」

私は、震える指で、言葉を奏でる。

「いってらっしゃい。」

私は、ゆっくりと立ち上がり、この優しさに溢れた家を出た。



あの日から、ずっと休んでいるアルバイト。

あやめと一緒に始めた、初めてのアルバイト。

選んだ理由は、お店が可愛いから。

そして何より、制服が可愛いから。

だから、紅茶の種類が少なくても、コーヒーがあやめの口に合わない味でも、気にならなかった。

ただ、このお店が好き。

それだけで、ずっと続けていた。

私が休んでいる理由は、体調不良になっていた。

あやめが、みんなに言い訳してくれた。


本当は、顔を出したかったけど、今の私には、勇気が生まれない。

リュックにしまった財布には、数千円と、このお店のスタンプカードが入っている。

それは、フクロウの絵が彩られた可愛いカード。

いつも、お会計をするときに、フクロウの顔が私を見つめてくれる。

それだけで、いつもは、少し幸せになれた。

でも、今は、この子と目を合わせる勇気さえ、生まれない。

でも、カゴからリュックに詰め込みながら、私は少しだけ元気になれたことに気づけた。


初めて来る、このお店は、初めて見る食材もたくさんある。

きっと、しばらくお世話になるのだろう。

そう思えたことが、少しだけ、嬉しかった。


それは、あやめが居てくれるから。

今は隣に居なくても、待てば必ず会えるから。

リュックの重みに、少しふらつきながら、私は、あやめの家へと歩き出した。



あやめの家は、あやめらしい綺麗な佇まいを彩っている。

あやめから預かったカギで、玄関を開ける。

凛とした香りが、私を夢見心地にさせる。

ゆっくりと閉まるドア。

その音色が、静寂に響き渡る。

「お邪魔します…。」

私は、キッチンへと向かった。


夜ご飯は、お母様が考えているかもしれない。

だから、私にできるのは、お二人の晩酌の準備くらい。

今日も、それをするのかはわからない。

でも、お父様は、昨日、晩酌をすると言っていた。

私は、幾つかの小さな料理を奏で、それを仕舞っていく。

粗熱が取れた頃、それを冷蔵庫に入れ、私は、あやめの部屋へと戻ろうとした。

階段へ向かうために、玄関を横切る。

その瞬間、ドアが開いた。

私の体が跳ね上がる。

あれが、ここにはいつまで来るはずなどない。

それでも、私の体は、恐怖を奏でている。

硬直する心が、玄関を見つめている。


入ってきたのは、あやめだった。

「ただいま。」

その微笑みに、私は、ここに崩れ落ちた。


靴を脱ぎ捨て、私を包み込むあやめ。

その表情は、少し悲しそうに見えた。

「ごめんね、やっぱり、大人は当てにならないかも…。」

ゆっくりと紡ぐ、あやめ。

「先生、家庭に介入はできないって…。それで、ゆりと、ちゃんと話したいって…。」

あやめの声が、震えている。

「私、聞いたの。ゆりが話したら、助けてくれるんですかって。」

「うん…。」

「相談に乗ることはできるだって。」

「うん…。」

「通報するかどうかは、ゆりが決めることだって。」

「…。」

「それって、ゆりが救われないよね。だから、私、怒りに任せて、帰ってきちゃった…。」

「ごめんね…。」

「先生が、悪いの。」

「…私が悪いの。」

「それは、違う。それだけは、違うよ。」

「ごめんね…。」

「ゆり、私を見て。」

私は、ゆっくりと顔を上げた。

唇に触れる温もり。

私の瞳を彩るのは、あやめだけ。

「大好きだよ、ゆり。私は、何をしても、ゆりを守るからね。」

静寂が、玄関に影を彩った。

ただ、私たちは、その色彩の中で、お互いを確かめ合う様に、その温もりを感じ続けた。


玄関の窓から漏れる光。

音の無い旋律が、私たちを包み込んでいる。

その静寂の揺めきに、雨音が、聞こえた気がする。


「巻き込むの?」

私の声が、私の中に反響する。

巻き込まない。

巻き込みたくない。

私は、私へと、小さく首を振った。



二人で登る階段は、少しだけ軽く感じる。

私に話しかける私の影が、玄関に立ったまま、私を見つめている。

「ごめんね…。」

誰に届かない音色を、その影へと囁いた。

雨音は、いつの間にか止まっている。

窓を見つめ、再び瞳を彩る、静寂を紡いだ玄関。

その影は、すでに消えていた。



翌日も、あやめは、制服を着て、家を出た。

見送る私に奏でる微笑みが、少し儚く感じる。

それでも、ここに帰ってくることを、私は知っている。

だから、私は、手を振った。


その日から、あやめの帰りが遅くなった。

アルバイト先のカフェは、夕方からレストランに変わる。

それでも、私たちのシフトは、必ず10時には終わる。

私は、あやめの部屋と玄関を、何度も行き来した。

どうしても心配で、私は、お母様に縋る。

ようやく、私は、あやめの帰りが遅い理由を知った。

「お店で、大事な話をしているから、遅くなるんだって。送ってもらうから、迎えも要らないみたいよ。」

それでも、お父様は、晩酌をせずに、ソファで待ち続けていた。

その表情が、少し怖くて、私は、おやすみなさいさえも言えずに、リビングを出た。


あやめが帰ってきたのは、もうすぐ2時になる頃だった。

その顔を見た瞬間、私は、飛びつく様に、あやめを包み込んだ。

「ただいま。」

ほのかな香水の香りが、私の鼻を擽る。

「ごめんね、心配かけたかな?」

その柔らかな微笑みに、私は顔を埋めた。

「ごめんね…。少しだけ…、怖かったの…。」

「大丈夫よ。どこに居たって、私はゆりの傍に居るから。」

撫でてくれる柔らかな手に、私は小さく頷いた。

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