第15回 顧雍、丞相として孫権の皇帝即位を見届ける
顧雍は丞相となったが、決して驕ることはなかった。
むしろ、その謙虚さが増したといっていいくらいであろう。
人事に関しては、自分の好悪、派閥に偏ることなく、能力主義の適材適所を徹底した。
丞相となり、気楽に一人で出歩ける立場ではなくなったが、民の生の声を聞きたいと考え、常に自分の配下を巡察に出し、その声を参考に政における立案や、不正を働く役人の取り締まりなどにも活かした。
そして、「来るべき日」、つまり孫権が皇帝に即位する時に向けて、国家制度の策定や整備にも日々、尽力し、敵国とはいえ先んじて国を造った曹魏の制度なども熱心に学んだ。
孫呉の国力は、顧雍が丞相になり励めば励むほど、充実したものとなってきた。
その国力の充実ぶりに自信をもった孫権は、魏の大将軍の「曹休」に対して、偽降の計を仕掛けた。
孫呉の鄱陽太守である「周魴」が、曹休に対して、曹休が来てくれるのなら内応をする、と言う内容の書状を送ったのである。
この様な書状を周魴は実に七通も送り付け、曹休も周魴の内応を完全に信じ、出陣するに至ったのである。
曹休は総勢一五万の大軍を編成し、石亭に攻め込んだ。
偽降の計にかかった曹休軍は大都督「陸遜」の率いる呉軍に散々に討ち破られ、この敗戦が原因で曹休は失意のうちに亡くなってしまう。
呉の圧倒的な大勝利となり、これがきっかけで西暦二二九年、孫権はとうとう皇帝の座に就いたのである。




