23.マドラン伯爵ガーネット
マルリック滞在三日目の朝。
相変わらず早起きのオーウェンは、私が起床した時には既にベッドにいなかった。
だけど鍛錬中の彼を確認しに行くと、しっかりと眠れたらしいことが分かった。
だって彼の目の下には、ここ数日うっすらとあったクマがなくなっていたから。
理由を聞いたら、微妙に言い淀みながらも、
「……おそらく、枕がよかったんだと思う」
と教えてくれた。
それならと、私はすぐに宿の主人に枕の入手先を聞いた。
するとマルリックでも名のある職人に特注した最高級品だという。
オーウェンの旅の安眠のために一つ購入したいし、ついでにバリエスの宿にも導入したいと交渉したら、職人の工房が温泉街の端にあると教えてもらえた。
工房を訪ねる約束は、滞在最終日の午前に取りつけることができた。
すぐにでも行きたかったけれど、今日は先約がある。
この地を治める領主、マドラン伯爵の邸宅への訪問だ。
午前中の内に残り三つの貸切温泉も存分に堪能し、着替えて準備を整える。
貴族の邸宅へ招かれるとなると、本来ならそれなりの正装が求められる。
だけど昨日のうちに遣いとしてやってきた伯爵家の家令から、
「当主の希望ですので、どうか堅苦しく考えず、いつもの装いでお越しください」
と、かなり強く念押しされていた。
そのため、私は過度な装飾品は控えて、失礼にあたらない程度の上質で動きやすい服を選んだ。
オーウェンも似たようなものだ。
そして宿の前で馬車の到着を待ちがてら、私はオーウェンに尋ねてみる。
「オーウェンは、マドラン伯爵についてどのくらいご存じですか?」
彼はむぅと小さく唸ると、首を横に振る。
「俺も会ったことがないんだが……正直なところ、あまり詳しくは知らない。モーリス公爵の娘だということと、若くして伯爵位を継いだということくらいだ」
オーウェンは少し申し訳なさそうに答えた。
「右に同じです。が、一応調べてきたことはあります」
私は記憶を辿りながら話し始めた。
「ガーネット・マドラン伯爵は現在二十三歳。モーリス公爵の実の娘で、数年前にマルリックに嫁がれたそうです。ただ、昨年ご主人が病で急逝して……」
「確か流行病だったか」
「はい。子供はおらず、未亡人のまま当主になったと。統治歴はまだ一年ほどだそうです」
オーウェンはしばらく考え込むような表情をしてから言った。
「……若くして夫を亡くし、領地を任されることになった。それは、相当な重圧だっただろうな」
「そうですね」
私も彼に同意するように頷いた。
「だからこそ、どんな方なのか少し気になります。モーリス公爵のお嬢様ですし」
「父上は確かに厳しい方だ。だがあの方が娘として育てたのなら、少なくとも統治者として足る教育は受けているはずだ」
「ですね」
昨日のトールたちとの話からも、彼女はずいぶんと慕われているようだったし。
そんな彼女がこちらに興味を持ってもらっているのは、私とオーウェンにとっても願ってもないことだ。
オーウェンは、未来の地固めのため。
私は、バリエス開発のため。
たとえ女版モーリス公爵のような方だったとしても、必ず気に入られてみせる。
そう思って、手土産もしっかり用意している。
ローリーのお店で購入した日持ちのするクッキーと、珍しい茶葉の詰め合わせだ。
マドラン伯爵が紅茶好きなことと、ローリーのお店のファンだという話は、オーウェンがモーリス公爵から事前に仕入れていたのだ。
贈り物の入った鞄を抱えながら内心で満足していると、中身を知っているオーウェンが静かに言った。
「君は本当に抜かりがないな」
「当然です。相手の好みのものを持参するのは、商談を成功させるうえでも大事なことですから。それに、私が聞く前からマドラン伯爵の好みを聞いていたあなたも、なかなかだと思いますけど」
「情報収集は、全てにおいて基本だからな」
そんな会話をしていると、程なくして、伯爵邸からの迎えの馬車が到着した。
それに乗り込み、町を抜けて緩やかな坂道を登っていく。
マドラン伯爵の邸宅は、マルリックの活気ある温泉街を一望できる、小高い丘の上に建っていた。
窓から見下ろす町並みのあちこちから白い湯気が立ち上っているのを眺めているうちに、馬車は広々とした車寄せで静かに停車する。
オーウェンに手を引かれて馬車を降りた私は、出迎えの顔ぶれを見て少しだけ目を丸くした。
「ようこそお越しくださいました。長旅でお疲れではありませんでしたか?」
まさか本人が入口まで出迎えに来てくれるとは思ってもみなかった。
使用人たちを一歩下がらせ、自ら進み出てふわりと微笑んだ女性――彼女こそが、この地を治める領主、ガーネット・マドラン伯爵その人らしい。
でも……私の目の前に立つ彼女からは、公爵家の令嬢にありがちな妙な気位の高さも、権力を振りかざす領主のような威圧感も、微塵も感じられなかった。
光を透かすような淡い蜂蜜色の髪を上品にまとめ、少し垂れ気味の目元が、彼女の顔立ちにどこまでも優しい印象を与えている。
華美な宝石や豪華なドレスで着飾ることはせず、控えめで清楚な衣服を身にまとっていた。
声は小さいけど穏やかで、出迎える所作の一つ一つがとても丁寧だ。
あのモーリス公爵の娘とは思えないほど、彼女は似ても似つかない雰囲気の女性だった。
だけどその瞳の奥には、確かな芯の強さを感じた。
「お招きいただき感謝いたします、マドラン伯爵」
オーウェンが淀みない動作で礼を執り、私もそれに合わせて深く頭を下げる。
「お会いできて光栄です、マドラン伯爵」
「頭を上げてください。そして、私のことはガーネットと。どうか硬い肩書きは抜きにして、気楽にお話ししていただきたいのです」
ガーネット様は困ったように眉を下げて微笑むと、オーウェンの顔をじっと見つめた。
「あの父が珍しく近衛兵ではない方を褒めていたものですから。 オーウェン様がどのような方なのか、ずっと気になっていたんです」
「モーリス公爵閣下にそう言っていただけているとは、身に余る光栄です」
「でも実際にこうしてお顔を拝見したばかりですが、父が褒めていた理由が少し分かった気がします。 とても誠実で、まっすぐな方だと言っていましたから」
だけどガーネット様はそこで言葉を切ると、今度は私の方へと向き直った。
その優しい瞳が、興味津々といった様子で少しだけ大きく見開かれる。
「それに……実は私、オーウェン様と同じく、ブレア様とお近づきになりたいとずっと願っていたんです」
ガーネット様は私の手をそっと、けれど確かな熱を込めて両手で包み込んだ。
その手の力は、吹けば飛びそうな体躯をしている彼女のものとは思えないほど力強かった。
「手紙にもありましたね。私に何か話したいことがあると」
「ええ。ですが、それについてはまた後ほどご相談させていただければと」
そう言ってガーネット様は、ゆっくりと手を離す。
そしてガーネット様に案内されて廊下を歩く間、オーウェンが自然に私の腰に手を添える。
彼のこういう仕草は、もう慣れたものだ。
私も自然と彼の方へ体を寄せる。
しばらく歩いたところで応接室へ通されると、こちらの窓からもマルリックの温泉街が一望できた。
あちこちから立ち上る白い湯気が、太陽の光に照らされて柔らかく輝いている。
ガーネット様は私の正面に座り、柔らかな笑みを浮かべる。
私はこのタイミングにと、持参した手土産の箱をガーネット様へ差し出す。
「もしよかったら、こちらを受け取ってください。ローリーパティスリーの焼き菓子と、うちの商会で扱っている珍しい茶葉を少しばかり。お口に合えば嬉しいです」
「まあ、あのパティスリーの!」
ガーネット様は目を輝かせて箱を受け取り、包装紙に押された金色のロゴをそっとなぞった。
「私、あのお店のお菓子が大好きで……こんなに素敵なものをありがとうございます!」
その反応の純粋さに、私は少しほっとした。
リーリア王女やアインをはじめ、ローリーのファンは本当に多い。
彼の名前は、今や王都だけじゃなくて地方にも広がっている。
そういえば、ローリーが来年あたりに地方で、日持ちのするお菓子を中心に置くお店を新しくオープンしたいって言ってたっけ。
観光地でもあるマルリックのような温泉街なら、相性が良いかもしれない。
ガーネット様は焼き菓子の箱を大切そうに傍らに置くと、もう一つの紅茶の茶葉の入った入れ物を開けて、その香りを嗅いでほうっと息を漏らす。
「オレンジの香りがしますね、とても美味しそうです」
「海外の輸入品ですが、品質も味も保証します」
「まあ! こんなにいい物をありがとうございます」
そしてガーネット様は、淹れたばかりのお茶を私たちに勧めてくれる。
オーウェンと私は目線を合わせた後、カップを持ち上げてひと口含む。
「……美味しいですね」
オーウェンがそう言うと、ガーネット様は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。このお茶は、マルリックの特産品なんですよ。温泉街の周辺に自生する薬草を使っていて、湯治の効果を高めると言われているんです。少し甘い香りがするでしょう?」
そう言いながら、ガーネット様はカップをゆっくりと傾ける。
だけど、その表情がほんの少しだけ翳ったように見えた。
私は何か言おうとしたけど、ガーネット様がその前に顔を上げた。
「あの、ブレア様、オーウェン様。せっかくマルリックに来ていただいたのですから、私が街を案内させていただいてもよろしいでしょうか?」
確かにオーウェン宛に届いた手紙には、ガーネット様自ら案内したいと書かれてあったけど……。
「本当にいいんですか? ガーネット様もお忙しいのでは……」
「いえいえ、私こそ、お二人と一緒に街を歩きたいんです。マルリックの良いところを、ぜひ知っていただきたくて」
ガーネット様はそう言って、少し照れくさそうに笑った。
「それに、街の人たちにもお二人を紹介したいですし」
それならと、私たちは三人で温泉街へ向かうことが決まった。




