18.黒い鴉の帰る場所(アイン視点)
王都中心部に位置する、騎士団本部の廊下。
昼間の光が窓から差し込む通路で、中央騎士団の第二小隊に所属する二人の騎士が、すれ違いざまに一人の男に声をかけた。
「ようベイク! 副隊長がいないからってさぼんなよ」
その言葉に、同じ小隊のベイク・ジルベイルは、慌てたように返す。
「分かってますってマシュー先輩! ちゃんと仕事はしてるっすよ」
だが、その返答を聞いていた別の隊員が、にやりと笑った。
「でもお前、昨日書庫で探し物するって言ってさぼってただろ」
その途端、ベイクの顔色が分かりやすく変わる。
「な、なな、何でハリス先輩が知ってるんすか!?」
「適当に言ったのに図星かよ」
けらけら笑う先輩二人に対し、ベイクは周囲を見回し、必死の形相で訴えた。
「お願いっす、後生なんで副隊長には内緒にしてください!」
「どうしようかなー」
「お前がさぼらないようにしっかり見とけって、副隊長に言われてるんだけど」
「ほんと、マジでお願いします! 先輩の言うことなんでも一つ聞くんで!」
ベイクが頭を下げてなおも食い下がっていたら、彼らは笑いながら条件を出す。
「分かった。なら次の夕食奢れよ」
「肉だからな、肉」
「高級なやつだぞ」
「了解っす! ありがとうございます!」
と、ここでマシューが思い出したように手をポンと叩く。
「そうだ、ガルフ隊長がお前のこと探してたぞ」
続けてハリスが、からかうような声音で言った。
「昨日のさぼりがばれたんじゃないか?」
「げ」
ベイクはまずいと言わんばかりに青ざめると、きょろきょろとあたりを見渡し、いきなりわざとらしくお腹を押さえて小さな悲鳴を上げる。
「あ、ああっ、ヤバいっす、俺、昼飯食べ過ぎて腹が、腹が……! ちょっとトイレ行ってくるんでしばらく俺は隊長のとこに顔出せないっす!」
そしてお腹を押さえたまま、ベイクは足早に廊下を去ってトイレへと駆け込む。
だが彼は個室には入らず、手洗い場の前に向かう。
そして鏡に映る自分の姿を見つめながらベイクは――いや、ベイクに扮したアインは、小さく息を吐いて呟く。
「やっぱ騎士団の潜入ってのは、緊張するよなぁ」
そう言いつつも、彼の声には緊張の欠片もなかった。
――ブレアとオーウェンがマルリックに向かってから、三日目。
アインはブレアから与えられた一つ目の任務を遂行すべく、さっそく騎士団内部への潜入を決行していた。
前回も、ギルバートの弱みを握るためにアインは騎士団に潜入していた。
そしてその時も今回も、変装の対象は同じ人物だった。
この、ベイク・ジルベイルである。
体格が似ているというのもあるが、最大の理由はベイクのキャラにあった。
彼はさぼりの常習犯で、頻繁に姿を消す。
その癖のおかげで、アインがベイクに化けても、その間の行動が曖昧になるのだ。
しかも適当な性格だからなのか記憶も曖昧で、自分が何を言ったのか覚えていないことも多い。
今回マシューたちにした肉を奢る約束も、ベイクが覚えていなくても誰も気にしないし、本人すら気にしないはずだ。
そんな本物のベイクは現在、書庫で昼寝をしていた。寝顔もしっかり確認済みだ。
本来なら優秀なはずなのに、そうした怠慢で帳消しになり、常に報告書の対象になっている、いわば惜しい人材だ。
その恩恵を最大限に活かして、アインは今、中央騎士団内を自由に動き回っていた。
アインの変装は完璧だった。
現に同じ小隊の人間ですら、正体に気づく者はいない。
今回の調査目標は二つ。
一つ目は、オーウェンの敵と目されるピーター・ライレイ騎士団長の動向追跡。
二つ目は、オーウェンの昇進に対して、妬みや反発を抱いている人物の特定である。
まず中央騎士団第二小隊に限れば、オーウェンを悪く言う人間は誰もいなかった。
他の中央の小隊員の大多数も同様だ。
生まれも育ちも、今の生活も何もかも恵まれているのに、性格は勤勉で真面目で、人望まである。
純粋に慕う者もいれば、あまりに非の打ちどころがなくて、妬むより先に負けを認めるしかない者も多かった。
だが、若くして昇進が決まっているオーウェンへの妬みのような感情は、確実に存在していた。
『あいつばっかりずるいよな』
『奥さんが誘拐されてむしろラッキーだったんじゃないか?』
『あれで一段と名前あげたもんな』
そうした声は小さいが、確実に聞こえてくる。
近衛騎士団に至っては、その反発はさらに大きかった。
高位貴族の子弟が中心の近衛と、中央という序列の中で、オーウェンの昇進は多くの者にとって面白くない事象なのだろう。
そしてピーター・ライレイについては、まだ調査の途中だった。
今のところ、目立った動きは見られていないが……。
アインは確信していた。
ピーターは必ず何かしら仕掛けてくる。
直接本人が動くのか。
それとも前回のようにオーウェンを妬む人間を駒として使うのか。
――だが、今はそれよりもガルフのことだ。
アインは鏡の前で髪を整えながら、心の中でそう呟いた。
トイレに駆け込んだのは、本当の意味でガルフから逃げるためだ。
変装は完璧で、普通なら見破られるはずがない。
だが、ガルフだけは話が別だった。
以前、ブレアの誘拐事件の際、アインはガルフと戦った。
その時に感じた彼の勘の鋭さは、異常なほどだった。
万が一潜り込んでいることが悟られると、少々面倒なことになる。
騎士団の内部を探っていると取られでもしたら、ブレアに妙な疑いの目が行きかねない。
そうして今回の作戦が失敗になれば、ブレアに余計な疑いを向けるだけでなく、マルリックの土産まで遠のきかねない。
もし鉢合わせでもしたら厄介だ。
あまりにも潜入時間が短すぎて大した情報を得られていないが、今日はここまでにして引き上げるか。
そう思った、その時だった。
トイレのドアが開く音がした。
反射的に振り向くと、そこにいたのは……よりにもよってそのガルフだった。
アインの警戒が一気に跳ね上がる。
逃げるだけなら造作もないが、正面から相対するとなるとアインに分が悪い。
逃げ出すことは諦め、アインはこの場をうまく切り抜けるべく、腹を括ってベイクを演じる。
「ガルフ隊長!」
ガルフはベイクの姿を見ると、少し呆れたような表情を浮かべた。
「マシューたちから聞いた。お前が逃げないよう、わざわざ迎えに来てやったぞ」
「い、いやぁ、逃げるなんてそんな。ちょっと昼飯食べ過ぎたせいっすかね。腹が痛くて痛くて……」
「だがその顔を見るに、もう大丈夫そうだな」
ガルフの視線が一瞬だけ鋭く細められたのを見て、アインは内心で舌打ちする。
腹痛が嘘だとわかっているのか、それともこっちの正体を怪しんでいるのか。
今のところ判断がつかない。
ベイクは、あはははと乾いた笑いを上げながら、一刻も早くこの場を脱する方法を考える。
だが、もはや逃げることは叶わず、そのままガルフにどこかへと連行される。
「あのぉ、隊長、用件は何すか?」
ベイクがおそるおそる尋ねると、ガルフは意味深な笑みを浮かべた。
「思い当たる節はないか」
ベイクは逡巡した表情を浮かべた後、言いにくそうに口をもごもごさせながら答えた。
「昨日のさぼりのこと……っすかね?」
ガルフが当たりと言わんばかりにニヤッと笑う。
百戦錬磨のガルフがこういう時に見せる笑顔は、かなりの迫力がある。
これまでベイクがさぼった際に命じられてきた数々の罰から察するに、報告書の作成あたりか。
だが、予想に反して連れてこられたのは、騎士団の訓練所だった。
ここでもう一つの可能性に行き当たる。
もしかして、さぼっている暇があるならガルフ直々に鍛錬をみっちりつけてやるということかと。
正直それは勘弁してほしい。
そう思った矢先だった。
ガルフが何の予備動作もなく、いきなり拳を振るってきた。
前回の戦いで大剣で襲い掛かってきたときと同じだ。
むしろ前回よりも速いその一撃に、さすがのアインも本能で反応してしまう。
だが、ベイクの表情と態度は何とか崩さずに維持する。
「い、いきなり何するんっすか!?」
ベイクが金切り声で叫ぶと、次の攻撃を加えることはなく、ガルフは獲物を見定めるような瞳でじっとベイクを見る。
ガルフは警戒心を解かないまま、低い声で言った。
「さっきトイレで顔を見た時からな、理由は分からないが少しおかしいと思ってたんだ。だから、攻撃すればわかるだろうって試してみた」
そして、ガルフはニヤリと笑う。
「もし本物のベイクなら、避けきれなかったはずだ。それに今の身のこなし――お前、アインだな」
「…………」
今のわずかな時間だけで正体を言い当てられるなんて、本来ならあり得ない。
さすがのアインも、予想外だった。
恐るべき野生の勘と言うべきか。
アインは誤魔化そうと考えたが、すぐに無理だと悟る。
そして普段の口調に戻ると、力なく笑った。
「……とんでもねえな、あんた。っていうかあんな攻撃、本物のベイクだったら気絶じゃすまなかったんじゃねぇか?」
「一応寸止めにはするつもりだったぞ。それにあんなのは本気でも何でもない。ただの準備運動だ」
ガルフの言葉は、冗談ではなく事実のように聞こえた。
アインは背中に冷や汗が垂れる。
ガルフはアインをじっと見つめたままだった。
普通に考えれば、ここへの潜入がばれた時点で重罪だ。
だが、ガルフは、初めから怪しいと思っていたにもかかわらず、アインを拘束するような動きは取らなかった。
「で、こんなところまで何をしに来た」
アインは一瞬の沈黙を置く。
ガルフの勘の鋭さから逃れることは無意味だ。
それなら、最初から隠さない方がいい。
「雇い主の指示だよ。誰のことかは察しがついてるだろ」
ガルフの目がわずかに動いた。
「……ブレア嬢か」
「そういうこと」
ガルフの表情を見るに、みなまで言わずとも、この答えだけで大まかな状況を理解したらしい。
ガルフは少し考えるように目を細めた。
「つまりブレア嬢はオーウェンを守るため、騎士団内部でオーウェンの敵になりうる人物を探っている。そういう認識でいいんだな」
「うちのご主人様が言うには、自衛のためだとよ。そのためにも敵を知っておくにこしたことはねぇってな」
表向きにはそうだろうが、おそらくそれだけではない。
だが、ブレアに聞いたところで本人が認めることはないだろう。
ただ、分かっていることは一つ。
「……向いてる方向は同じというわけか」
ガルフの言葉に、アインも理解する。
「なるほどなぁ。つまりそっちもオーウェンのために動いていると。オーウェンはあんたをよっぽど信用してるらしい」
この男がいるからこそ、ブレアと同じく仕事漬けで有名なオーウェンが、大事なこの時期にあっさり王都を離れられたのだと分かった。
オーウェンを守ろうとするガルフと、ブレアを守護するアイン。
――騎士団を探っている理由は同じだ。
「若造。どうせだったらこちらと手を組まないか」
だから、ガルフがこの提案をしてきたことにも、アインは驚かなかった。
確かに、目的が同じなら手を組んだ方が効率がいい。
アインは目を細める。
「ま、悪くねぇ提案だよな」
しかし、今回動いているのはあくまでもブレアの命があったからだ。
「ただし俺は雇われの身だ。ブレアの承認なしで勝手には決められねぇ」
そう言うと、ガルフが驚いたように、わずかに目を見開く。
が、すぐに納得したように頷いた。
「ふむ、それもそうだな。ならばブレア嬢が戻り次第、俺の方からも正式に話を通しておこう」
「ああ、そうしてくれ」
それで、この話はひとまずそこで区切りがついた。
「ところで、お前に聞いておきたいんだが。……昨日ベイクがさぼっていたのは本当か。それとも、お前の変装を維持するための工作か」
「昨日のは知らねぇな。マシューたちには適当に言っただけだ」
「で、今はどこにいる」
「書庫の奥の、人目につきにくい場所だな。まだ寝てんじゃねぇの?」
「ほう。あいつめ、この間散々オーウェンに絞られていたのにまだ懲りていないのか。……これは本格的に性根を入れなおした方がよさそうだ。この俺が直々にな」
ガルフは、まるで王都を守る騎士とは思えないほど、少々悪い顔でニヤリと笑う。
「あいつも災難だな。ま、自業自得だけど」
ふっと笑ったアインだったが、いつの間にかガルフがアインの方をじっと見ていることに気づく。
しかもその視線には、妙な含みがあった。
戦闘した時とは別の意味で寒気がしたアインは、顔を思いっきりしかめると、一歩後ろに下がりながら尋ねる。
「なんだよ」
するとガルフは、くつくつと笑いながら言った。
「いやなに、あのアインともあろう男が、随分と飼い慣らされているじゃあないかと思ってな」
「飼い慣らされてる、ねぇ」
確かにガルフの言う通り、これまで宵鴉以外にもいくつかの組織を渡り歩いてきたアインだが、そこに迎合することは一切なかった。
常に自由で、一番で、そして――退屈な日々。
「けど、俺にとっては案外悪くない気分なんだよな」
アインは彼女に使われることを選んだ。
自ら自由の一部を手放し、誰かの命令に従い、それなのに、今がもっとも充実している。
そう言って浮かべたその笑みは、これまでの彼が一度も見せたことのない、純粋なものだった。




