9.二人きりですることといえば
オーウェンの家族が住むハーヴェスト領の邸宅は、馬車だと半日で着く距離だ。
だけど、移動時間を無駄にするわけにはいかない。
二人きりしかいない密室ですることといえば、決まっている。
――昨日の練習の続きだ。
「うーん、やっぱりお尻は固いですし、座り心地も椅子に比べればよくはないですね。ただ、ほんのりと温かいのは、冬ならいいかもしれません。意外と安定感もありますね」
さすがはオーウェンが用意してくれたハーヴェスト家の馬車だ。
我が家の馬車にも劣らない立派なもので、車輪がうっかり石を踏んでも大きく揺れることはない。
快適である。
ただ、今私が座っているものは、その快適さをわずかに損なう。
すると椅子役を担っているオーウェンが、おずおずと口を開く。
「ブレア、ところでなぜ君は俺の足の上に乗っているんだ……?」
おかしなことを聞く。
私はオーウェンの膝の上に横向きに腰を下ろした状態で、当然のように彼の肩へ軽く体重を預けながら答える。
「なぜって、アルマイド伯爵夫婦を真似ているからですよ。休日の彼らを実践すべく、試しにあなたの太ももの上に腰を下ろしているんじゃないですか」
「そうか……」
納得したのかしてないのか分からないけど、一応理解はできたように声で返事をするオーウェン。
以前伯爵夫人から聞いた話によると、こうして密着していることで互いの愛情を再確認し、ついでに愛しい気持ちが上昇し、二人の愛もさらに燃え上がるとのことだった。
が。
「今のところ、何か燃え上がるような気持ちは沸いてきませんね。オーウェンの方はどうですか?」
オーウェンは顎に手を当て、真面目な面持ちで答える。
「俺も君と似たような感想だ。椅子役を担ってみて分かったことと言えば、君の体温は俺よりもかなり高いことと、見た目よりも体重があるということか」
……大事なことなので二度言う。
オーウェンの顔は、極めて大真面目である。
つまり、彼のこの発言には、私を揶揄する意思は一切ないということだ。
とはいえ、この言葉はあまりいただけない。
「オーウェン、もしかして私に喧嘩売ってます? 今ので私のおなかの奥からメラメラと熱い感情が沸き上がってきたんですけど」
「? 一体どんな感情が……」
「怒りです」
そう言うと同時に、私はえいっと強めにオーウェンのお腹にパンチを喰らわせる。
鎧並みに鍛え上げられた固い腹筋のおかげか、彼の体はびくともせず、オーウェンが痛みを感じたようにも見えない。
むしろ殴られたというのに、彼はなぜか嬉しそうに、少しだけ微笑んだ。
「いいパンチだな。さすがは鍛えているだけのことはある」
「それはどうも。……というか、私が鍛えているってどうして分かるんですか? そんな話を私はオーウェンにしたことはないと思うんですけど」
「服の上からでも、君の体にはそれなりに筋肉がついているのは分かる」
オーウェンは私の首から下を、色気のまるでない目でじっと見つめる。
「まずは腕だ。手首が締まっているし、動きに無駄な揺れがない。それに体幹。座った時に重心がほとんどぶれない。腹部と背中が鍛えられている証拠だ」
「はあ」
「それから太腿の外側だ。君を上に乗せて分かったが、余計な柔らかさがない。後は、常に姿勢が崩れないのは、僧帽筋と広背筋がある程度しっかりしているからだろう。だから君は見た目よりも重いんだ。脂肪よりも筋肉の方が重いからな」
どうだ? と言わんばかりの顔のオーウェンに、私は苦笑を返すしかなかった。
「細かい筋肉の名前までは把握していませんけど、当たりです」
「商家の娘にしては、かなりしっかりと鍛えている。騎士団の入団面接でも受かるかもしれないな」
「自分の身は自分で守れるように、というのがうちの家訓ですから」
もしくはお母様みたいにムキムキの護衛を数人常に周りに置くってのも手だけど……。
できるだけ身軽に動き回りたい私やお兄様は、素手でもある程度は戦えるし剣も扱えるように訓練している。
なので、護衛もついてはいるけど最低限の数だし、必要な時以外は前に出てこない。
ちなみにお母様だって、私たちには及ばないけどそれなりには強い。
「だけど、レディに対して重いって言うのはどうかと思いますよ。それがたとえ事実だろうと」
「そうなのか? 俺は褒めたつもりだったんだが」
きょとん顔のオーウェンに嘘はないように見える。
まさかあれが彼なりの讃辞だったとは。
「えーとですね、あなたたち騎士は喜ぶんでしょうけど、私は……いえ、普通の女性はそんなこと言われても嬉しくありません」
「君も案外そういうことを気にするんだな」
「当たり前じゃないですか」
「分かった、覚えておこう」
「素直でよろしい」
にしても、こうして彼の上に乗って会話を交わすも、やっぱり甘い空気になる気配がない。
一体何が足りないというのか……。
ここで私は夫人の言葉を思い出す。
「あ、そうだ。アルマイド夫人が言うには、ここで伯爵は心臓を高鳴らせるほどの甘い言葉を夫人に囁くそうです。なのであなたも彼に倣って何か言ってください」
そうすればあの二人の持つ空気感にもっと近づけるに違いない。
「ほら、早く言ってください」
「……甘い言葉というのは、どういうものなんだ?」
試しに伯爵夫婦の会話を思い出そうとしたけど、無理だった。
「分かりません。月並みな言葉なら、好きだ、とか、愛している、でしょうけど。あとは、一般的には君なしじゃ生きていけないとか?」
「なるほど」
ここでオーウェンはごほんと一つ咳払いをして、私の瞳をじっと覗き込んだかと思うと、
「好きだブレア。俺は君を愛している」
普段と変わらない、抑揚のない低い声で、愛の言葉を告げた。
しかし私の心は風一つない湖面のように凪いだままだし、オーウェンの言葉はあまりにも真実味がないと、見ている人たちにもこれが芝居だと勘づかれてしまう。
「すみませんオーウェン。私の心はちっとも動かないんですが。これじゃあ伯爵夫婦には程遠いですし、すぐに嘘だとばれます」
「だろうな。君の顔を見れば分かる」
「昨日みたいに蕩ける笑みを浮かべて言ってみたら少しは変わるかもしれません。あとは、声が普段と同じすぎます。もっとこう、感情を込めてください」
彼がそういう意味で私のことを愛していないのは知っているけど、にしたってあまりにも声が単調すぎる。
「いいですか、表情や声というのは、相手の心に入り込むのに重要な要素の一つなんです。恋愛の相手だけでなく、例えば商談や社交の場においても」
まったく同じ内容を伝えるにしても、親しみやすい笑顔と柔らかい声のトーンの商人と、強面でドスの効いた低い声の商人がいれば、前者に軍配が上がるものだ。
それを踏まえてもう一度、同じ言葉をオーウェンに言ってもらう。
彼は昨日の練習を思い出したかのように、途端に柔らかな視線と笑顔を作ると私に向け、吐息交じりにゆっくりと愛の言葉を吐き出した。
「ブレア、俺は君を、心の底から愛している」
さっきとは打って変わり、上ずる声はどこか艶めいている。
声の感じは、おそらく夫人の前のアルマイド伯爵を参考にしたと思われる。
表情も昨日以上に熱がこもっていて、目の前の彼がまるで知らない人のように思えるほどだ。
これが演技だと分かっていても、私の心臓はドクリと、確かに一度大きく鳴った。
この私を狼狽えさせるとは、なかなかやる男だ。
だから私も彼に応えるように、愛おしい『物』が目の前にあるように目を細め、昨日リーリアがオーウェンの名前を呼んでいた時のような蜜のような甘さを含んだ高めの声を出す。
「はい、私もあなたを愛しています」
瞬間、ピクリとオーウェンの体が跳ね、わずかに彼の頬が赤らむ。
どうも効果的だったようだ。
気を良くした私は、ダメ押しとばかりに甘い言葉的なものを追加してみるものの……。
「オーウェン、あなたは私の人生の全てです……すみません、全てではないです。では、あなたと出会うために私は生まれてきて……いえ、私はバリバリ仕事をするために生を受けたのでこれも違いますね。となると、十本の指に入るほどにはオーウェンは大切な存在です、というのが最も適しているでしょうか」
どうせ嘘なのだから、オーウェンなしでは生きていけない、くらい言うべきなんだろうけど、私の生き方を曲げるような言葉は使いたくない。
結果的に微糖くらいの甘さにはなっただろうか。
オーウェンに尋ねると、彼はなんとも言えない顔で唇を歪める。
「微妙なところだな。せめて片手分には入れてはもらえないか?」
「では五本の指に入るほどには大切だ、と言えばその微妙さは改善されますか?」
「ブレアはどう思う」
「……あまり変わりはありませんね」
結局、甘い言葉を囁く場面では『好きだ』と『愛している』を多用するという非常に大雑把な結論に落ち着いたところで、私はようやくオーウェンの膝の上から腰を浮かせた。
さすがに同じ姿勢を続けていたせいか、じわりとお尻が痛い。
そして何より、これ以上座り続けていたら、私ではなくオーウェンの足が限界を迎えるだろう。
なにせ私は見た目より重いらしいので。
「……ふう」
小さく息を吐き、彼の隣の席へと移動する。
柔らかな座面に腰を下ろした瞬間、思わずほっと肩の力が抜けた。
やっぱり座るなら、人間の上より椅子がいい。
オーウェンのカチコチの太腿とは比較にならない快適さだ。
控えめに言って、最高だ。
ふふふと笑っていたら、オーウェンが怪訝な表情で私を見つめる。
「今、笑うところがあったか?」
「座るなら椅子がいいと思っただけです」
「……勝手に座っておいて、酷い言い草だな。君にとって俺は椅子未満だと、そう言いたいのか?」
うっかり本心を述べたら、オーウェンが悲しそうに眉を下げる。
しまった、未来の旦那様を傷つけてしまった。
私は慌てて謝罪する。
「ああ、すみませんオーウェン! 別にあなたを貶す意味はなかったんです。むしろオーウェンがそれだけしっかり鍛えているということなので、ええと、その、ほらあれです! ……誉め言葉、的な?」
そう言ったら、オーウェンの顔には打って変わって笑みが零れる。
「冗談だ」
なんと、まさかのジョークだったとは。
あまりの衝撃に、拍子抜けした私は、ぽかんと口を開けてしまう。
「……あなたも、冗談なんて言うんですね。てっきりとてもお硬い人だとばかり」
「君は俺をそんな風に見ていたのか。俺だって冗談の一つや二つ言う。今の評価はいささか傷つくんだが」
「っ、すみません。口が勝手に」
どうしよう、本格的にオーウェンは拗ねてしまった。
うちの姪っ子のモナだったら甘いお菓子で機嫌は取れるんだけど、相手は成人済みの男性だ。
そこでふと、先ほどまでのやり取りを思い返す。
しばし沈黙が落ちた後、私は何とはなしに口を開いた。
「ああ、でも」
隣に座るオーウェンが、わずかにこちらを見る気配がする。
「もう一つ本音を言うのなら、あなたほど安心して背中を任せられる相手はいません、というのはありますね。私の人生を預けるほどには、信頼していますよ」
その瞬間、隣で小さく息を呑む気配があった。
ちらりと視線を向けたら、オーウェンがほんのわずかに目を見開いている。
そしてすぐにどこか照れたように口元を緩めた。
「……それは、かなり嬉しいな。好きだとか愛しているとか、そんな単語を告げられるよりも、今の俺には君のその台詞の方が効く」
低く落ち着いた声でそう言われ、私は軽く首を傾げる。
「そうですか? 私としては、事実を述べただけですが」
「それでも、だ」
そう言って、彼は目元を和らげた。
「仕方ない。その台詞に免じて、先のブレアの俺への評価は聞かなかったことにしよう」
「では今後も私が失言した場合は、耳を塞いでくれると助かります」
「しない、という選択肢はないのか」
オーウェンは呆れたように息を吐き、けれど小さく笑った。
彼の横顔を見ながら、私は密かに思う。
この契約結婚、思っていたよりずっと悪くなさそうだと。




