15.視察と休暇の午後
エルマーはものすごく名残惜しそうにしていたものの、彼らには仕事がある。
憧れの人に会えたのにもう離れないといけないのかと半泣きのエルマーと、そんな彼を半ば引きずりつつ詰め所へと戻るトールの二人を見送って、私たちはそのまま今夜の宿へと向かう。
初日に泊まるのは、レイバン商会が管轄している宿だ。
価格は中程度で、客層は恋人や夫婦、家族連れなど幅広いのが売りだ。
部屋は当然のように一つだったけど、それについてはもう特に何も言わない。
オーウェンだけは微妙に言いたげだったけど……。
「ブレアお嬢様とオーウェン様の仲睦まじいご様子は、この町にも届いておりますので。ええ、もちろんお部屋を分けるなんて無粋な真似は致しません!」
と支配人に言われてしまえば、断ることもできない。
そして部屋に荷物を置いたら、私はすぐに支配人との打ち合わせに入る。
さすがに帳簿が並ぶ部屋にオーウェンを入れることはできないので、彼には廊下で待機してもらう。
私は支配人から手渡されたノートをざっと確認する。
今の時期は繁忙期を外れているので、満室ではなかったけど、それでも稼働は八割ほどある。
帳簿上も大きな問題は見当たらない。
ただ、昨年より全体の稼働率がわずかに落ちているのは気になった。
「今年の初めに、新しい宿がオープンしたんですよ。その影響かと」
「もしかして、恋人や夫婦限定の貸し切り風呂のある宿ですか?」
「はい。うちのお客様もそちらへ流出しているようでして」
「なら少し対策を考えた方がいいかもしれませんね」
うちの宿はこのエリアでも人気が高い。
この売上低下は一過性かもしれないけど、それでも胡坐をかいているわけにはいかない。
落ちる時はあっという間に落ちていくものだから。
場所は、ここよりもさらに奥に行ったところらしい。
この温泉街で最も高い価格設定にしているらしいけど、お客さんはかなり多いそうだ。
元よりそちらには宿泊予定だったし、早馬を飛ばして手紙で先に部屋も押さえていた。
それに、あの貸し切り風呂はぜひともこの目で確認しておかないと。
地図を見ながら他にも候補になりそうな宿や店に目星をつけたところで、私はオーウェンの元へと戻った。
「お待たせしました」
「別に構わない。ここから見える庭を眺めていたらあっという間だった。なかなか綺麗なものだな」
「でしょう? うちの自慢なんですよ」
この宿を手掛けたのは、まだ若かりし頃のお父様だ。
そんなに広くない庭だけど、季節に応じて違った姿を見せるのが素晴らしいと、お客さんに好評である。
実は花を愛するお母様のために、目いっぱい季節の花を植えたんだって言ってたっけ。
ちなみに、年に一回はお父様はお母様と二人でここに泊まりに来て庭を散歩しているらしい。
いくつになっても仲がいい。
しかし、これからもこうして待たせてしまうことはあるだろうけど、彼にこの町を楽しんでほしいという気持ちもちゃんとある。
「なにせ、視察兼新婚旅行ですからね」
私は小さくそう呟くと、オーウェンの手を握って宿の外へと連れ出す。
「さて、ひとまず用事は終わりましたし、まずはこの町を少し歩きましょう!」
「あ、ああ」
急に手を引いたからか、オーウェンが戸惑ったような声を上げながらも、すぐに握り返してくる。
繁忙期ではない、とはいっても、通りは相変わらず賑やかだった。
宿から立ちのぼる湯気と、行き交う人の楽しげな声が混ざり合って、町全体がどこか浮き立ったような空気に包まれている。
この空気に触れていると、私までつられて浮き立ってしまいそうになる。
しばらく歩いているうちに、行きに見かけた足湯の場所へとたどり着いた。
「足湯も初めてですよね? 少し入っていきませんか?」
「構わない」
ちょうど人もまばらになっていたので、オーウェンと並んで腰を下ろし、靴を脱いで足をお湯に浸す。
だけどここで私は思う。
旅行用の靴は、普段履いているものより作りがしっかりしている。
そのぶん脱ぎ履きに少し手間がかかるから、足湯を気軽に楽しむには案外不便かもしれない。
それに服だって、もっと着替えやすくてゆったりしたものを用意できないだろうか。
温泉は出入りのたびに着替えることになる分、その手間が意外と大きいし。
ましてバリエスには湖もあるし、そうなると乾きやすい素材で作ってみるとか。
その辺はお兄様に提案してから、ノーラお義姉様にも相談してみよう。
……と、脱いだ靴を片手にいつものように考え込んでいたら、ふと隣からオーウェンがほっと息を吐く音が聞こえた。
「……気持ちいいな」
その顔は、本当に気持ちよさそうで、見ている私ですら、ほっこりと和んでしまう威力がある。
なので私もいったん考察をやめると、彼に倣ってお湯に足をそっと浸す。
熱すぎず冷たすぎず、ちょうどいい温度のお湯が、足元をじんわりと温める。
「こういうものが町の中に用意されているとは思わなかったな」
「無料で誰でも入れるっていうのもいいですよね」
それもあってか、入れ替わり立ち替わり、人が入っては出て行く。
個人的には、たとえ少額でもお金を取ってもいいとは思う。
あとは、濡れた足を拭くものを持っていない人のためにタオルを販売するとか。
まあ、それは私が決めることじゃないけど。
湯気がゆらゆらと立ちのぼり、硫黄の匂いがかすかに漂ってくる。
この匂いも慣れてくると結構癖になる。
「ところでバリエスで源泉が見つかったと聞いたが。具体的にはどの程度の規模の温泉になるんだ?」
「まだ詳しい湧出量が分かっていないので何とも言えませんけど……少なくとも、この町のように温泉街を作れる規模ではなさそうですね」
とはいえ、使い方はいくらでもある。
「もともと湖畔の宿泊施設を計画していたところですし、湖で遊んだ後に体を温められるような設備は相性がいいと思うんです」
例えば、こうして町の中にある足湯のようなものを、湖の近くに設置しても面白いかもしれない。
「確かに。それは喜ばれそうだ」
「後は宿泊施設に浴場を併設するのはもう考えています。大浴場や、コンセプトの違う予約制の小さな貸し切り風呂をいくつか作る……なんていうのも十分売りになりますし」
ここまで大きな温泉街にはできなくても、温泉付きの湖畔施設にはできる。
そう考えるだけでも、計画の幅はぐっと広がる。
その分予算も跳ね上がって、最初に見積もっていた額の倍にはなりそうだ。
それでも、あの源泉を使わない手はない。
後はあれとかこれとか、他にも色々と……そこまで考えたところで、ふと我に返る。
またまた一人で計画のことばかり考えて、オーウェンを置き去りにしてしまっていた。
慌てて隣を見ると、オーウェンは相変わらず、湯気の向こうで少し肩の力を抜いたような表情をしていた。
「どうですか?」
「ああ。……いいものだな」
その答えに私はほっと胸を撫でおろす。
喜んでもらえてよかった。
思えばオーウェンと出会ってから今に至るまで、こんなに長い時間を過ごすのは初めてだった。
それだけ私たちの生活の中心はお互いの仕事だったし、それはこれからも変わらないだろう。
仕事の延長のような旅ではあるけれど、それでもこの二週間はオーウェンと向き合って過ごしたい。
そう思いながらも、私は足湯から立ち上がる。
……名残惜しくても、視察は視察だ。
どんな時でも、レイバン家の人間として目的はきちんと果たさないと。
もう少しオーウェンの幸せそうな横顔を眺めていたかったけど、やることはまだ山ほどあるのだから。
「そろそろ行きましょうか」
「分かった」
ちょっとだけ名残惜しそうなオーウェンを見て、また時間があれば寄ろうと思いながら足湯を後にした。




