14.湯煙の町マルリック
翌朝もまだ空気の冷たい時間に出発して、途中の拠点で馬を替えながら街道を進んだ。
そして、中継の町で宿を取り、昨日と同じようにオーウェンと同室で休む。
別々の部屋に、という案も考えたけど……。
どこに行っても私たちの存在はすぐにばれてしまい、熱烈な夫婦としては部屋を分けてほしい、なんてとてもじゃないけど言える空気じゃなかった。
彼はまだ同じベッドで寝ることに慣れないようだったけど、ベッドは毎回広くて快適だったので私に不満はなかった。
しかしオーウェンは寝不足らしく、理由を聞くと枕が変わると眠れないとのことだった。
なら次に一緒に来る時は、お祓いの塩とお札に加えて彼の枕も持ってこよう――そんなことを考えているうちに、ようやく目的地のマルリックが見えてきた。
街道の先に広がるのは、やわらかく白い湯気に包まれた町並みだった。
屋根の隙間から立ちのぼる蒸気と、遠くからでも分かる硫黄の匂い。
さすがは我が国きっての観光地だ。
行き交う人の数も、途中の町よりずっと多い。
「……ここがマルリックか」
馬を降りて、町へ入るための門前の行列に並んでいる間、オーウェンが感無量といった表情で門の先を見つめている。
「国内、いえ、この大陸の中でも唯一の温泉地として有名な町です。もしかして、初めてですか?」
「ああ。それにしてもこの特徴的な匂いはなんだ……?」
「硫黄ですね。この匂いを嗅ぐと、温泉に来たんだって気がします」
そして、門をくぐって町の中へ入った瞬間、空気が変わった。
かすかに鼻に残る硫黄の香りと、湯気を含んだやわらかな湿り気のある空気。
王都とはまるで違っていて、いかにも温泉地らしい空気だった。
通りの両側には木造の宿が軒を連ねて、その屋根のあちこちから白い湯気が立ちのぼっている。
さらに少し進むと、道の端に浅い石造りの湯溜まりが見えた。
「……あれは?」
オーウェンが指差す先には、腰掛けた人たちが靴を脱いで足を浸している場所がある。
「足湯ですね。歩き疲れた人が気軽に温泉に入れるようにって用意されているんです」
足湯の周囲では、湯気に包まれながら談笑している人たちの姿も見える。
通りのあちこちには地方騎士団の姿も見えて、観光客たちも安心した様子で行き交っている。
この地以外でもそれぞれの街や地域を守護する地方騎士団は見てきたけど、このマルリックが一番その数も多いという印象を受ける。
私も足を浸したいのはやまやまだったけど、今は馬を連れているので、この子たちを宿に預けたら入りにこよう。
そんなことを思いながら、大通りをまっすぐ進む。
通りの先には屋台も並んでいた。
串に刺さった焼き物に、甘い香りの団子、木箱の中で温められた温泉卵。
ダスティお兄様に頼まれ、アインにも念押しされた温泉まんじゅうに、籠へ積まれた温泉せんべいまで並んでいる。
店の前には、たくさんの人たちが集まっていて、みんな美味しそうに買った物にかぶりついていた。
「前回来た時とお店がいくつか入れ替わってますね」
「最後に来たのはいつなんだ」
「あなたに結婚の話をする直前です」
言いながらその時のことを思い出す。
……そうだ、あの視察から帰った直後に、ミリス商会のギルバートが私と婚約していると周囲に触れ回っていると聞いたんだったっけ。
もう終わったことにもかかわらず、あの時の噂の火消しに苦労した日々を思い出し、げんなりとしたため息が漏れる。
すると、オーウェンが即座に気づく。
「大丈夫かブレア。ずっと馬を走らせていたからな。少し疲れているんじゃないか?」
「いえ、平気です」
「そうか、ならいいんだが。辛くなったらいつでも言ってくれ」
本当に、この人はよく気がつく。
だけどギルバートのことを思い出してため息をついたなんて説明するのも面倒で、私は素直に頷くだけにしておいた。
……あと、彼の名前を出すとオーウェンの機嫌が微妙に悪くなるので。
「そうだ。今回の旅行ですけど、何か希望があればいつでも言ってください。行きたい場所ややりたいことなど」
今回マルリックに五日は滞在できる。
マドラン伯爵のところを訪れるのは明後日の午後だけど、視察の時間を除いても、スケジュール的にはかなり余裕がある。
そう尋ねたら、オーウェンは難しい顔になって眉間に深い皺を刻む。
が、ふっと表情を戻すと、今度は一転して困ったように眉を下げた。
「その、すまない。今のところは何も」
まあ、それはそうかもしれない。
そもそも、突然与えられた二週間の休暇中にやりたいことがなくて困っていた彼を誘ったのが発端だ。
「分かりました。ではしばらくは私の行きたい場所に付き合ってもらうことになりますが、大丈夫ですか?」
「問題ない」
「食事も宿も、他にも気になったところは全部見て回るつもりなので、結構振り回すと思いますよ」
「構わない。君の視察に護衛として同行するのも今回の目的の一つだからな」
「もし途中で気になる場所ができたら、その時は遠慮なく言ってくださいね」
「ああ」
にしても、本当にいい町だ。
屋台の匂いと、楽しそうに声を上げる観光客の姿を見ながら、バリエスでも使えそうな案が次々に浮かんでくる。
思わずニンマリしてしまった、その矢先だった。
「泥棒だ! 誰か止めてくれ!」
突然後ろの方から叫び声が響いた。
振り向いた瞬間、こちらへ向かって男が走ってくるのが見えた。
「どけどけっ!」
手に持ったナイフを振り回しており、周囲の人たちが悲鳴をあげながら場所を空ける。
だけどオーウェンは私を自分の背中へと庇いつつ、その場から引かず、じっと男を見据える。
「っ、おい、くそ、どけよっ!」
逃走経路の直線上から動かないオーウェンに向かって、男が雄たけびを上げながらナイフを振り下ろす。
それを見て周囲の人間が悲鳴を上げる。
が、オーウェンはその攻撃を軽くかわし、そのまま男の手を取って体勢を崩して地面へ引き倒す。
本当に、一瞬のことだった。
周囲にいた人たちがざわめき始める。
「すごい……」
「今の見たか?」
そこへ、慌てた様子の中年の男性が駆け寄ってきた。
「ありがとうございます! 財布を取られて……!」
「これで間違いないか」
オーウェンがうつ伏せで倒した男の拘束を解かないまま、拾い上げた革袋を差し出すと、男性は何度も頭を下げた。
その直後。
「失礼します!」
今度ははきはきとした、別の声が響いた。
通りの向こうから数名の青年が駆け寄ってくる。
彼らが着ているのは、白と金で飾られた近衛とも、銀の縁取りが印象的な濃紺の中央騎士団とも違う――王都を出てから何度も見かけた、深緑の生地で仕立てられた地方騎士団の制服だった。
「ご協力ありがとうございます! お怪我はありませんか?」
先頭に立っていた青年騎士がそう言いながら近づいてくる。
髪の毛をツンツンとさせた、私と同い年かもしくは少し下に見える騎士。
彼はオーウェンの顔を見た瞬間、もともと真ん丸な形の瞳をさらに大きく目を見開くと、
「……あ、あなたは……もしかして中央騎士団の、オーウェン様、ですか……?」
震える声でそう尋ねる。
対するオーウェンは、あっさりと頷くと即座に肯定する。
「ああ、確かにそうだが」
その瞬間だった。
オーウェンの返事に、周囲が一気にざわめいた。
「あの中央騎士団の……?」
「本物か?」
「なら隣にいるのは、レイバン商会の……」
オーウェンだけでなく、必然、彼の同行者である私へも多くの視線が注がれる。
……この旅の間で思ったのは、オーウェンはどこに行っても目立つし、すぐにその正体を言い当てられてしまうということだ。
私だけだとそこまでは目立たない。
これまでの視察がそうだった。
なのに彼が隣にいるだけで、必然私にも視線が注がれ、結果正体がすぐにばれる。
筋肉の鎧に包まれた数名の護衛を連れて歩くよりもいいかなと思っていたけど、目立つ度合いでいえば、もしかするとあまり変わらないのかもしれない。
あと気づいたことでいうと、オーウェンは男女問わずとてもモテることか。
彼は若いながらも功績を上げ続け、民衆人気が圧倒的に高い騎士団のエースといっても過言じゃないから、それも当然と言える。
現に最初の宿然り、目の前にいる青年騎士然り。
彼は今、感極まったような表情でオーウェンを見つめているから。
やがてオーウェンが倒した泥棒が地方騎士団に引き渡され、この場から連行される。
残った例の青年騎士は、なおも羨望の眼差しを向けつつ、姿勢を正して軽く礼をする。
「この度はご協力、感謝いたします!」
「いや、たまたま居合わせただけだ。本来はそちらの任務だったな。出過ぎた真似をしてしまって済まない」
そう言うと、彼は慌てたように首を振った。
「いえ、とんでもありません! 本当に助かりました。ありがとうございます!」
だけど声はまだ震えが残っているし、視線も微妙にオーウェンと合わない。
動きもどこかもじもじとしているような……。
ここでいつの間にかやってきた、彼の先輩と思われる別の騎士が、苦笑しながら口を挟む。
「すみません、こいつ、憧れの人が目の前に現れたってんで、緊張してるんですよ」
「ちょ、トールさん!」
青年は慌てて振り返り、小声で抗議する。
「余計なこと言わないでくださいよっ……!」
が、耳の先まで赤くなっているところを見ると、どうやら事実らしい。
するとトールと呼ばれた騎士が、一歩前へ出て軽く礼をする。
「失礼しました。俺はこの町を守護してる、地方騎士団第三小隊所属のトールです。こいつは昔からオーウェン様に憧れていまして、特にオーウェン様の活躍を耳にするたびに自分のことのように嬉しそうに話してきて……」
「もう勘弁してくださいっ!」
慌てて抗議する声が重なる。
それからはっとしたように姿勢を正すと、顔を赤らめたまま、青年が声を上げる。
「名乗りが遅れてすみません! 同じく第三小隊、エルマー・グレンです! オーウェン様に会えて、こ、光栄の極みです!」
「こちらこそ、そう言ってもらえるのは光栄だ」
ここに来るまでも結構な人たちに話しかけられていたけど、ここまでまっすぐな好意を向けてきたのは彼が初めてだ。
だからだろうか、オーウェンは少しだけ困ったように笑いながらも、友好を示すように自分から手を差し出す。
「オーウェン・ハーヴェストだ」
「よかったなエルマー。握手したらその手、しばらく洗えないんじゃないのか?」
「本当ですよ……って、トールさんはちょっと黙っててください!」
エルマーはトールの方へ振り返って、そう怒鳴り返す。
それからすぐに前を向くと、嬉しさを隠しきれない顔でもう一度、今度は深く頭を下げた後、オーウェンの手をしっかりと握った。
「っ、よ、よろしくお願いします! この町にいる間、何かあればいつでも言ってくださいね!」
「ああ、その時は頼む」
オーウェンの短い言葉に、エルマーは日に焼けた素直そうな顔をぱっと明るくして笑みをこぼしたのだった。




