13.眠れない夜(オーウェン視点)
花びらは、ブレアの提案で全て浴槽へ移した。
その判断は正しかったように思う。
実際、浴槽に浮かぶ赤いバラの花びらはロマンチックでもあり、先ほどブレアが気になっていた香りも、湯に浸かることでひと味違う印象になっていた。
だが。
浴室から上がったオーウェンは、寝衣に着替えた後、ソファに座って真剣に悩んでいた。
これまで、オーウェンとブレアは同じ家で暮らしてはいるが、寝室は別だった。
演技上必要な時は、外出時に手を繋いだり、抱き寄せたりする。
しかし、家の中ではそれほど親密な身体的接触はない。
それなのに……。
オーウェンの瞳が自然と、一台しかないベッドに吸い寄せられ、慌てて目を逸らす。
考えるまでもない。
オーウェンの取れる行動は二つ。
――ソファで寝るか、床で寝るかだ。
しかし、今座っているソファは、オーウェンの体が横たわって寝るには明らかに狭すぎた。
ブレアならばすっぽりと収まりそうだが、もとより彼女をベッド以外で寝かせるという選択肢はない。
ならばもう一つの方かと、オーウェンは真剣な眼差しで客室の床を見つめる。
痛いのは覚悟できる。
詰め所で泊まり込まねばならない時は、固い椅子を並べて寝たことは何度もある。
それと大差ないはずだ。
そう決心したところで。
「難しい顔をして、どうしたんですか?」
柔らかい声と共に、ふわりと何かがオーウェンの頭の上にかぶさった。
「ブレア……?」
見上げると、小さく笑っているブレアがそこにはいた。
先ほどの動揺が嘘のように、普段の彼女に戻っている。
いつの間にか風呂から上がっていたのか、彼女がタオルをかけてくれたらしい。
「すぐ髪の毛を乾かさないなんて珍しいですね。風邪引きますよ」
確かに、今夜の寝床について悩んでいたせいで、髪を拭くという当たり前の行動すら抜け落ちていた。
「ああ、すまない……」
だが、オーウェンが髪の毛を拭こうと手を伸ばすより先に、ブレアの手が彼の頭に置かれる。
そして――そのまま彼女はオーウェンの髪を丁寧に拭き始めた。
「……!?」
思わず彼女から離れようと体を動かそうとするも、その動きは優しく、心地よい。
その途端、オーウェンの全身から力が抜ける。
このまま身を委ねたいという誘惑が、胸の奥に芽生える。
だが、その時――ブレアの髪がまだ湿っていることに気づき、はっと我に返る。
それに、このままこの心地よさに身を委ねれば、きっと平静ではいられなくなる。
何がどうとはうまく言えなかったが、とにかく距離を取るべきだと思った。
オーウェンは慌ててブレアから飛び退く。
「大丈夫だ! それより君こそ早く拭かないと風邪を引く」
するとブレアはなぜか残念そうな顔になると、
「そうですか」
と一言漏らして、自分の髪をタオルで拭き始める。
その後、二人は何もなく準備を整え、就寝時間が来た。
「それじゃあ寝ましょうか。明日も早いですし」
「そうだな」
オーウェンは頷き、何か床に敷くものはないかと室内に目線を走らせていたのだが。
「何をキョロキョロしてるんですか? あなたも早くこっちに来てください」
ベッドに入っているブレアにそう声をかけられ、オーウェンはこの部屋に入ってすぐの時のように、その場で固まった。
「その、ブレア……」
長い沈黙の末、口ごもりながらも、オーウェンは何か言いたげに視線を彷徨わせた。
「どうしました?」
ブレアが不思議そうに首を傾げる。
「……さすがに一緒に寝るのは……どうかと、思ってだな……」
するとブレアは目をパチクリとさせた後、さらりと答えた。
「いいじゃないですか。一度添い寝した仲ですし、気にしていませんよ。それにこれは広いですし、一人用のベッドを二台繋げていると思えば」
彼女の言う通り、ベッドはかなりの大きさだ。
ブレアにしてみれば、既に一度寝たのだから構わないということなのだろう。
極めて論理的な判断だ。
しかしオーウェンは、それが分かっていても素直には受け入れられなかった。
「あ、あの時は酔っ払っていたから、勝手が違うというかだな……」
酔っ払った自分がブレアに絡みついて、離したくないと駄々をこね、彼女の温もりに身を委ねたあの夜――思い出すだけで、顔が火のように熱くなる。
あれはお酒のせいで、自分の本来の判断ではない。
理性を失った、酔っ払いの行動だ。
しかし今夜はお酒も入っておらず、理性は冴えている。
それなのにこの状況で隣で眠るのは……。
だが、気にしているのはオーウェンだけのようだった。
考えてみれば、あのお化け騒動以外で彼女があそこまで取り乱す姿を見たことがない。
ブレアにとっては、自分と眠ることなど、一切心が揺れないことなのだろう。
――いつだって彼女はそうだ。
仕事を愛し、仕事のことを常に考え、一切ブレない。
人として、そういうところが好ましいと思うのに、自分だけがこんなに意識しているのだと思うと、胸の奥がわずかに痛んだ。
同時に、これ以上ここで議論を重ねても意味がないと悟る。
オーウェンは内心ではまだ迷いながらも、諦めてベッドへと向かった。
ブレアはすでに布団に身を沈めていて、オーウェンの方を見ている。
その視線には、やはり特に警戒も期待も、何も映っていない。
風呂上がりのはずなのに、落ち着かず、体の芯が冷えるような気さえした。
オーウェンが明かりを消して布団に入るも、広いベッドのためか、二人の距離はかなりあった。
「おやすみなさい」
ブレアはそう言うと、天井を見つめたまますぐに目を閉じた。
その様子は、至って平静だ。
一方、オーウェンも、
「おやすみ」
短く答えて目を閉じるものの、なかなか眠りにつくことはできなかった。
行き場のない視線を天井へ向けたまま、オーウェンは人知れず息を吐く。
一向に眠気の訪れないまま、どのくらいの時間が経過したのか。
しんとした空間の中、このまま夜明けが来るのを待つことになりそうだなと、そうオーウェンが覚悟をした時だった。
「……眠れないんですか?」
とっくに眠りについていたと思っていたはずのブレアの声が聞こえた。
そっと隣を伺うと、薄暗い中でこちらを見る水色の瞳と目が合った。
「君も起きていたのか」
「はい。奇遇ですね。……実は私もなんです。なんだか目が冴えちゃって」
言葉通り、ブレアの目はしっかりと見開かれている。
「もしかして、まださっきのことを引きずっているのか?」
彼女が幽霊の類を怖がっていることは、話には聞いていた。
だが、敵に襲われても、誘拐されても動じなかった彼女が、小さな影一つであそこまで怯えるのは想定外だった。
幽霊がいなかったと分かっても、やはり感じた恐怖はそう簡単に拭えないのだろう。
そんな彼女に、一体自分は何をしてあげられるかと真剣に考えていたオーウェンだったが……。
彼女の口から出てきた言葉は、彼の予想とは違っていた。
「遠出の視察はよくするんですけど。あなたと一緒だからですかね。……私、ちょっとはしゃいでるみたいなんです」
そう言うと、ブレアにしては珍しく、はにかんだような笑顔を浮かべてみせたのだ。
その告白と笑顔に、オーウェンは思わずすべての思考を停止させて息をのむ。
彼女は常に冷静であり、興奮するのは仕事が絡む時がほとんどだ。
それなのに、自分のせいで彼女がそんな状態になっているのだと気づいた時――。
自分の胸のどこかが、先ほどまでの冷えから一転して、ぬくもりで満たされていくのを感じた。
それは喜びなのか――それとも別の何かなのか。
オーウェンには、その感情の正体が分からなかった。
ただその温かさを手放したくないと、そう思えたのは確かだった。
だが、オーウェンと目が合った彼女は恥ずかしくなったのか、慌てて視線を逸らす。
「では、おやすみなさい」
そう言って、背を向けて眠りについてしまった。
オーウェンは何も言えず、その後姿をそっと見つめる。
やがて、ブレアの呼吸が深く、ゆっくりとしたものへと変わっていくのが分かる。
どうやら眠ってしまったらしい。
彼女の息づかいを感じながら、オーウェンは天井を見つめ、先ほどのブレアの言葉を思い出す。
あれは演技ではない、彼女自身の言葉だ。
だが、人前で言われる愛を告げるどの言葉よりも、オーウェンの心を強く揺さぶる。
言葉にできない感情を燻ぶらせたまま、長い時間をかけて、オーウェンはようやく目を閉じる。
けれど眠りは浅く、ブレアの存在を常に意識し続けたまま、夜は静かに更けていった。




