3.オーウェンの選択(オーウェン視点)
ブレアの誘拐事件以来、オーウェンは信じられないほど多忙だった。
事件の後処理、関係者の取り調べ、宵鴉に関する情報の洗い出し。
そのうえ今回の件で評価も大きく跳ね上がり、騎士団内外からの呼び出しまで増えている。
騎士総監をはじめ、中央騎士団長、近衛騎士団長からも直接声をかけられた。
人事のマイケル・モーリスの態度も、明らかに変わっていた。
以前のような露骨な拒絶は消え、オーウェン自身を見ようとしているのが分かる。
ブレアが繋いでくれたモーリス公爵との接触と、その後の食事会が効いたのだろう。
功績も十分で、昇進はもはや既定路線と言ってよかった。
だが――今、彼の頭を悩ませていることが二つあった。
一つは、ジェームズ・ヒルスの件だった。
本来なら第二小隊が関わっていてもおかしくないはずの取り調べを、中央騎士団長のピーターが自ら担当したのだ。
中央所属の騎士である以上、それ自体は不自然ではない。
だが処理が早すぎた。
軍法会議もろくに行われないまま、ジェームズは騎士籍を剥奪され、北方辺境収監所へ送られている。
騎士団としては、この件を長引かせるつもりがないのだろう。
表向きにはそう理解できる。
だが、違和感が残った。
その違和感を裏付けるような報告が、昨日ガルフから届いた。
誘拐事件の直前、ピーターとジェームズが密会していた可能性があるという。
二人とも同じ中央騎士団の人間であり、普通に考えればおかしいことないように思える。
確証はない。
だが偶然にしては出来すぎている。
もしもこの件にピーターも関わっていたとすれば――この事件は非常に根深い。
そしてもう一つの問題は――。
誰もいない詰め所で書類をまとめ終えたオーウェンが、小さく息を吐いていると。
「ようやく一段落か」
声をかけてきたのはガルフだった。
差し出されたカップを受け取り、オーウェンは軽く頭を下げる。
「ありがとうございます」
「さすがに仕事に意欲的なお前も疲れてるだろう。早く帰って嫁さんの顔を見たいだろうに」
ガルフの言葉に、オーウェンはわずかに俯き曖昧な表情を浮かべる。
多忙なブレアと時間が合わないのは事実だ。
だが――結論を出せないまま顔を合わせずに済んでいる現状に、わずかに救われている自分がいることも否定できなかった。
原因は、あの誘拐事件だ。
ブレアは強い。
あの状況でも自力で事態を動かそうとし、実際に実行した。
それでも、守れなかった事実は消えない。
一歩間違えば、取り返しのつかないことになっていた。
――このまま、何事もなかったかのように彼女の隣に立っていいのか。
「顔が浮かないな」
その声に、オーウェンははっと顔を上げる。
ガルフはオーウェンの瞳をじっと覗き込むと、ばしんと肩を叩く。
「っ、隊長……?」
戸惑いの声を上げるオーウェンに対し、ガルフは力強く笑いかける。
「俺はお前の上司だ。部下が悩んでることがあるなら、相談に乗るのも上の務めだろう?」
「…………」
「言いたくなかったら言わなくてもいい。だが、吐き出した方が楽になることもあるからな」
騎士団の中で誰よりも信頼を寄せる、ガルフの言葉。
確かに、このまま頭の中で考えていても、答えは見つからず煮詰まるばかりだった。
少し迷ったあと、オーウェンは口を開いた。
「……ブレアのことです」
「離れた方がいいとか思ってんのか」
直球だった。
オーウェンは否定しなかった。
「理屈で言えば、その方がいいはずです」
「あの事件は別にお前が悪いわけじゃない。そんなことはブレア嬢も分かってるだろう。責任を感じてるのか」
「はい。だけど俺は、それでも……」
言葉が続かない。
ブレアの身を案じるなら、野心を捨てるか、あるいは結婚を取りやめるべきなのかもしれない。
上を目指す限り、ブレアが危険に晒される可能性はますます高くなるだろう。
選べる答えは一つのはずだった。
なのに、それを口にしようとした瞬間、胸のどこかが強く痛む。
理屈ではなく、感情がそれを強く拒んでいる。
己の上に行きたいという願望と同じくらい、ブレアのことを。
――手放したくない。
そう漏らすと、ガルフが短く息を吐いた。
「なら答えは出てるじゃないか」
そしてガルフは、オーウェンの迷いを断ち切るように言葉を続けた。
「お前の中に、もう離れるって答えはないんだよ。どっちも捨てられないんだろう?」
「っ、俺は……」
そこで、オーウェンは初めて気が付いた。
どちらを選ぶかではない。
オーウェンは、どちらも手放さないという選択を既にしていたのだから。
それなら、今やることは――。
沈黙が落ちる。
だがその沈黙は、先ほどまでのものとは違っていた。
「いい顔になったな」
迷いが消えたオーウェンの表情を見て、ガルフがそう言い放つ。
オーウェンはかすかに表情を緩めると、ガルフに軽く頭を下げる。
「ありがとうございます、ガルフ隊長」
「礼を言われるようなことはしていないぞ」
「いえ、隊長のおかげで迷いが消えました」
オーウェンは静かに立ち上がると、外套を手に取る。
「一度帰ります」
そしてガルフを置いて真っ先に自宅へと戻ると、明かりが灯っているのが遠目からでも見えた。
オーウェンははやる気持ちのままに早足になると、すぐに中へと入る。
「なんなんですか、まだ用が……」
リビングの扉を開けると、ブレアが驚いた表情で出迎えた。
「ブレア」
「オーウェン……!?」
自分を見て、どこか嬉しそうに頬を緩めるブレア。
その反応を見た瞬間、胸の奥が静かに軋む。
――どれだけ長く顔を見せていなかったのか、改めて思い知らされたようだった。
それに、テーブルに並べられていたのは、全てオーウェンの好きなものばかりだった。
だからこそ、その言葉がするりと出た。
「すまない。……俺は忙しさを理由に、君と顔を合わせる時間もろくに取っていなかった。まずはそれを謝罪させてほしい」
そしてオーウェンは、ブレアに向かって深く頭を下げる。
すると、ブレアの慌てたような声が聞こえてきた。
「えっと、あの、オーウェン? 別にそんな、謝らなくても……。というか私は気にしていないので、顔を上げてください」
けれど、ここで顔を上げるわけにはいかなかった。
次に口にする言葉こそが、本題だったからだ。
喉の奥がひどく乾く。
もしここで拒まれたら、自分はきっと、彼女の前に立つ資格すら失う。
オーウェンは頭を上げず息を吐くと、そのままの姿勢で続ける。
「もう一つ、君に謝りたい。俺は、君を危険に巻き込む可能性があると分かっていても。――野心も君も、どちらも手放したくはないんだ」
今自分が言った言葉がどれだけ自分本位なことなのか、オーウェンはちゃんと理解していた。
本当は自分がどんな時でも守れるのに越したことはない。
だが、現実問題として、それは不可能だ。
「君が危ない目に遭わないよう、俺もできる限りの手を打つ。そばにいる時は必ず守るし、いない時でも君を守れる人間を用意する。もちろん、ブレアの仕事の支障にならない形でだ。だから」
――このまま、俺のそばにいてほしい。
そう言って、オーウェンは、さらに頭を下げる。
「身勝手ですまない」
「オーウェン……」
彼女に嘘はつきたくない。
ブレアから離れたいと言われれば引くしかない。
それでも、これが今のオーウェンの素直な気持ちだった。
長いような短いような沈黙が落ちる。
オーウェンは微動だにせず、そのまま頭を下げ続けた。
「オーウェン、顔を上げてください」
「…………」
一体彼女は今どんな顔をしているのか、確認するのが怖かった。
それでもオーウェンは恐怖を押し殺し。ゆっくりと顔を上げる。
すると……目を輝かせたブレアの顔がそこにはあった。
彼女はにこっと笑いながら言った。
「何言ってるんですオーウェン。身勝手上等じゃないですか!」
「え……」
あまりにも意外な言葉に、それ以外何も返せず、彼は思わず目を瞬かせる。
だがブレアは気に様子もなく、楽しそうに続ける。
「そもそもこの結婚だって、自分たちがしたいようにするために決めたものでしょう? 私は私のしたいことをするし、あなたはあなたのしたいことをすればいいんです。それでいいじゃないですか」
彼女の言う通りだった。
誰かに強制されたものではない。
ただ、自分たちで納得して選んだ形だった。
「……君は、嫌にはなっていないのか? あんな目に遭ったのに」
オーウェンが尋ねると、ブレアは心底不思議そうな顔で首を傾げて答える。
「別に?」
そして、少しだけ怒っているように眉をひそめる。
「というか、私があの程度で壊れるような脆い女だと思ったんですか? それは聞き捨てならないんですけど」
まるで本気で怒っているような口調だった。
――普通の人ならトラウマになりかねない状況にあったのに。
彼女にとっては、『あの程度』と言い切れる出来事なのだ。
「それに、お父様から今後は護衛をつけるように言われているので」
「そうなのか?」
「はい。あ、別にあなたの罪悪感を減らすためじゃなくて、あくまで私のためですからね。護衛は自分で探すか、お父様が用意するかって話になっています」
それはまさに、自分が考えていたことと同じだった。
彼女は、いや、レイバン家は、オーウェンが悩むまでもなく、とっくに対策を考えていた。
「でもどうせなら別の強い人がいいので、誰かいい人いませんか? 個人的にお父様推薦のムキムキ三人を連れ歩くのは嫌なので」
その言葉を聞いた瞬間、オーウェンはわずかに目を見開いた。
やはりブレアは、どんな時でもブレアなのだと再認識させられる。
「もちろんだ。俺の方でも当たってみよう」
そう答えると、ブレアは安心したように表情を緩めた。
「ありがとうございます。頼りにしてますね」
真っすぐに信頼を向けられ、オーウェンの心臓が大きく鳴る。
理由も分からずどくりと脈打った胸を軽く押さえていると、ブレアが、ぱんと軽く手を打つ。
「じゃあ、この話はおしまいってことで。せっかく久しぶりに会えたんですし、一緒にご飯食べましょう」
「あ、ああ、そうだな」
わずかに震える声を悟られないよう答え、オーウェンはブレアと並んで料理を並べていく。
手を伸ばせばすぐに、彼女に触れられる距離だ。
結婚してから当たり前だったはずの距離なのに、今夜は妙に意識に残る。
隣に立つブレアはいつもと変わらない様子で皿を整えている。
だが、その横顔はどこか楽しそうに見えた。
珍しく鼻歌まで歌っている。
それが自分のせいなのだとしたら……。
胸の奥でまた小さく鼓動が鳴ったが、理由は分からないままだった。
そしてほとんどの物を並べ終えたところで、普段より声が弾んだように聞こえる調子で、ブレアがキッチンへ向かう。
「オーウェン、そちらをお願いしてもいいですか? 私は飲み物を入れてくるので」
「分かった」
そうして実に一カ月ぶりに、向かい合って食卓に着いた――その時だった。
「副隊長! いるっすか!?」
突然、玄関のドアが強く叩かれる音と同時に、ベイクの声が家の中まで響き渡る。
声の感じからも扉を叩く強さも、ただ事ではない。
そう直感した瞬間には、オーウェンはもう立ち上がっていた。
入口へ向かい扉を開けると、そこには息を切らしたベイクが立っていた。
額には汗が浮かび、普段の軽口の影もない。
やはり、明らかに尋常ではない様子だった。
「す、すみませんっ、せっかくの奥さんとの時間なのに」
「気にするな。それで、何があった」
するとベイクは、一度唾を飲み込むように喉を鳴らしてから、衝撃の言葉を告げた。
「よ、宵鴉のアインと思しき男が――騎士団に出頭してきたっす!」




