30.信頼とすれ違い
窓から飛び降りた瞬間、体がふっと宙に浮く。
背後で、かすかにアインの笑い声が聞こえた気がした。
一瞬だけ、時間が引き延ばされたみたいに感じる。
おお、落ちてるなぁと今の状況を妙に他人事みたいに思う自分がいる。
普通なら、怖いはずだ。
でも不思議と恐怖はなかった。
だって――絶対にそこにいると分かっていたから。
そして、勢いよく落下した私の体は地面に激突する前に、寸前で何かに強く掬い上げられる。
ぐっと強い衝撃が体全体に伝わって、視界が一瞬揺れる。
でも、落ちない。
しっかりと、受け止められている。
ゆっくりと顔を上げると、目の前にあったのは、見慣れた顔だった。
少し乱れた髪に、わずかに浅い呼吸。
それでも、その目はいつも通りで。
私は小さく息を吐くと、にっと笑った。
「ただいま、オーウェン」
いつも通りのつもりだったけど、落下の衝撃で一瞬呼吸が詰まり、ほんの少しだけ声が掠れる。
彼は、何か言いたげにちょっとだけ息をのむ。
だけどほんの一瞬だけ目を細めて、私の欲しい言葉を返してくれた。
「ああ、おかえり」
――その時だった。
上から、突如もくもくと真っ白な煙が流れてくるのが見えた。
「……何あれ」
私を抱えたまま、オーウェンがその場から素早く距離を取る
「すぐに二階の状況を確認しろ」
短く、的確な指示が飛び、周囲の隊員たちがすぐに動き出すのを横目に、私は煙の上がる窓を見上げた。
室内は煙で覆い隠されていて、まったく何も見えない。
ただ、毒の類ではないようだった。
……誰があんなことをやったのか、考えるまでもない。
しばらくして。
完全に煙が消えたところで、屋敷の中から、さっきまでアインと死線を繰り広げていたガルフが戻ってくる。
「ガルフ隊長」
オーウェンが心配そうな表情で声をかけると、ガルフは即座に答える。
「ただの煙玉だ。二階の宵鴉のうち、一人は確保した」
だけどガルフの表情はすぐれない。
彼は頭をがしがしと掻きながら、少しだけ気まずそうな顔でこちらを見る。
「……だが、悪い。アインを逃がした」
ガルフによると、私が飛び降りた直後、仲間を置き去りにして、アインは隠し持っていた煙玉を投げてそのまま姿をくらましたらしい。
やっぱり彼の仕業だったようだ。
煙玉を持っていたなら、ガルフが突入した時点で私ごと逃げることもできたはずだ。
なのにそれをしなかった。
それ以外にも、アインの言動にはいくつか気になる点があった。
ガルフが突入してきた時、アインはそれを察していたように見えた。
それなのに、拠点を移すことも、他の宵鴉に伝えることもしなかった。
なんというか、彼は依頼を遂行するというより、この状況そのものを楽しんでいたように見えた。
飛び降りた瞬間に聞こえた笑い声も、気のせいではない気がする。
うーん、彼の精神構造がもう少しで読み解けそうで、でも読めないなぁと考えていたところで、私は未だにオーウェンに抱かれたままだったことに気づく。
もうそろそろ降ろしてもらってもいいんだけど、と思ってる間にも、状況は動いていた。
「負傷者の確認を急げ。確保した者は拘束を厳重に」
オーウェンは私を抱えたまま、何事もないかのように指示を飛ばしていく。
周囲の隊員たちが即座に応じて動き出す。
「宵鴉の潜伏先ですが、一人が口を割りました」
「三班と四班、急いでそちらへ向かえ。今から行けばまだ間に合うかもしれない」
「了解!」
宵鴉は、仲間が捕まったと判断した時点で、拠点を捨てる。
つまり、時間との勝負ということだ。
命じられた第二小隊の面々が即座にそちらへと向かうと、入れ替わりで別の隊員がやってきた。
「副隊長、今回の誘拐の件ですが、依頼人が分かりました」
するとオーウェンは相手を予想していたのか、名前が挙がる前に先に答える。
「……ジェームズ・ヒルス副隊長か」
「っ、そ、そうです!」
誰だっけ、確か中央騎士団の、オーウェンとは別の小隊の副隊長で……。
つまり今回の犯人は、オーウェンの同僚だったということになる。
オーウェンが指揮をとることになったあたりから、騎士団の関係者の可能性も考えていたけど、まさか本当にそうだったとは。
オーウェンの眉間に皺が寄り、ガルフと目線を交錯させる。
どうも二人とも、そのジェームズを疑っていたようだ。
「ガルフ隊長、ジェームズの確保をお願いしてもいいですか」
ガルフは承知したとばかりに頷くと、
「おい、五班! これから犯人確保に向かう! 相手は中央騎士団第五小隊副隊長、ジェームズ・ヒルスだ。絶対に逃がすな!」
「了解!」
命令を受けた隊員たちが、迷いなく散開していく。
それを最後まで見届けてから、オーウェンはようやく足を動かした。
彼は私を抱えたまま、馬車の方へと向かう。
邪魔をしちゃだめだよねと黙っていたけど、ここで私はようやく口を開いた。
「……オーウェン」
「なんだ」
「もう降ろしてもらってもいいんですけど」
そう言うと、オーウェンは瞼を伏せ、私を見る。
「体調を崩したんだろう」
「何で知ってるんですか?」
「血のついたハンカチ。……体調不良の原因は、それだろう」
どうも私が毒針を自分に刺して血文字を書いたことは、お見通しらしい。
「でももうすぐ効き目も切れます。なので歩くくらいなら問題なくできますよ」
だけどオーウェンは、
「却下だ」
短く、それだけ言って視線を前へ戻す。
「本当に大丈夫ですって」
念押ししてみるけど、それ以上返事はなかった。
オーウェンの顔を下から眺めながら、私は察する。
……あ、これ、ダメなやつだ。
これ以上何を言っても変わらないやつ。
私は諦めて、されるがままに運ばれることにした。
オーウェンは道の先に予め止められていた騎士団の馬車の前まで来ると、私を椅子の上にそっと降ろす。
御者が扉を閉めると同時に、馬車がゆっくりと動き出す。
行き先は聞かなくても分かる。
おそらく騎士団の詰め所だろう。
しばらくの間、馬車の中は沈黙が続いた。
さっきまでの喧騒が嘘のようで、まるで外界と切り離された静かな空間だ。
その中で、オーウェンが自分の指輪に触れると、中に仕込んでいた極小粒の解毒用カプセルを取り出す。
「飲んでくれ」
「え、でも、それは、もしもの時用にとあなたに用意したものですよ?」
「今がそのもしもの時だ」
「だけど毒はもう抜けかけていますし……」
断りたかったけど、本気で私の体調を心配しているオーウェンの顔を見たら、とてもじゃないけど断れない。
「……分かりました」
私はそれを受け取り、ごくりと喉の奥に流し込む。
そのうちに今残っている倦怠感も鈍い重さも、完璧に引いていくことだろう。
この薬はそれだけ強力なものだから。
私が薬を飲み終えたのを確認すると、オーウェンはほんのわずかに肩の力を抜いた。
それまで張り詰めていたものが、ようやく緩んだみたいに。
「……本当によかった」
それは、独り言みたいな声だった。
少しの沈黙のあと、オーウェンが、ぽつりと口を開く。
「……怪我はないか」
「大丈夫です」
「どこか打ったりは」
「それも問題ないです」
「そうか」
ふと、オーウェンの視線が私の肩口あたりで止まる。
「……髪を、切られただろう」
小さく、低い声。
そのまま、伸びてきた手が私の髪に触れかけて――止まった。
「あ、そういえばそうでしたね」
一昨日のことなのに、すっかり忘れていた。
「気づいたらバッサリ切られちゃってて」
あっさりとした調子でそう言うと、オーウェンの表情がわずかに強張る。
「でも、ちょうどよかったんですよ。少し切ろうと思っていたところだったので」
そう付け加えて、にんまり笑ってみせる。
「別に気にしてませんから」
その言葉に、オーウェンは何も返さない。
ただ一瞬だけ目を伏せてから、静かに視線を外した。
私は隣に座るオーウェンを見ながら、むしろ彼の方が心配になった。
彼の顔は少しやつれている。
リーリア王女に迫られ、食堂の机を見つめていた彼の姿と重なり……いや、それよりももっとひどい。
多分、まともに休めていないんだと思う。
私が交渉の末に勝ち取った四八時間。
その時間の間に見つけようと、必死で探してくれていたのが分かった。
「……オーウェンの方こそ、大丈夫ですか?」
思わず私が尋ねると、彼が不思議そうに瞬きをする。
「それは俺の台詞だと思うんだが」
「でも、どう見ても私よりオーウェンの方が消耗していそうですし。あと私、意外と元気なんですよ」
私も疲れてはいるけど、意外にも平気だ。
アインが謎に手厚い待遇を用意してくれたこともあるし、何よりオーウェンが来てくれると信じていたのも大きい。
「食事環境もかなり良かったので」
そこで私は、オーウェンの心配を吹き飛ばすように、あえて明るい声で言った。
「ちゃんと、三食きっちり食べてましたから」
一拍おいて。
オーウェンが、わずかに苦笑を浮かべた。
それから、目を細める。
「……そうだったな。君は高熱の中でも肉の串焼きを食べていたんだったか」
「え、なんで知ってるんですか?」
「報告があったんだ」
淡々とした返答。
一体どうやってその情報が伝わったのかは分からないけど、事実である。
なんだか食いしん坊みたいで恥ずかしい。
が。
「体力を温存するためにも、食事はとれる時にとっておかないと、ですから」
そう断言すると、オーウェンが小さく笑う。
「ああ、君らしいな」
だけど――そこで、会話が止まった。
どうも続かない。
いつもなら、もう少し何か言うはずなのに。
私は首を傾げ、もう一度オーウェンの表情を伺う。
疲れている、とは少し違う。
怒っているわけでもない。
ただ、どこか普段とは違う陰りが見えた。
……それだけ心配をかけてしまったということだろうか。
私は少しだけ視線を落としてから、口を開く。
「心配かけて、ごめんなさい」
すると、間を置かずにオーウェンから返ってきたのは、思っていたのとは違った言葉だった。
「っ、違う。……謝るのは俺の方だ」
オーウェンはくしゃりと表情を崩し、唇を噛み締める。
その仕草が、妙に痛々しく見えた。
まるで、自分を責めてるような。
それに――一体何に対しての謝罪なのか。
「オーウェン……?」
彼の名前を呼んでみるけど、私の声が聞こえていないかのようで、反応がない。
そこで、ふと気づく。
そういえば、さっき犯人の名前が出ていたっけ。
今回の依頼人は、ジェームズ・ヒルス。
彼はオーウェンと同じ、中央騎士団の副隊長。
私は彼と直接会ったことはない。
それなのに、宵鴉まで使ってこんなことをした。
私個人への恨みとも、単純な身代金目的とも思えない。
目の前のオーウェンの様子が、それだけじゃ説明できなかった。
もしかして今回の誘拐事件って……。
私が何かを言いかけたその時、ちょうど馬車がゆっくりと速度を落とす。
外から聞こえるのは、たくさんの人の気配。
窓を覗くと、到着を待ち構える騎士団の面々が勢揃いしていた。
と、その瞬間、オーウェンの表情から揺らぎが消え、きつく張り詰めていく。
「オーウェン、あの、少し話を」
ほんのわずかに間を置いて、彼は言った。
「すまない、ブレア。あとにしよう」
「でも……」
このまま流してはいけないと、胸のどこかが訴えていた。
けれど馬車の扉は開き、私はそのまま抱き上げられて外へ運ばれる。
飲み込まされた言葉は、とうとう口にできなかった。




