29.その手の中へ(オーウェン視点)
夜明け前。
空はまだ暗く、東の空がわずかに白み始めている。
ミレガン家旧邸宅の外で、オーウェンは屋敷を見上げたまま、静かに息を吐いた。
周囲に展開する第二小隊の気配は、ほとんど消えている。
誰一人として無駄な音を立てない。
それでも分かる。
全員が、そこにいると。
配置は予定通りだ。
一階制圧班、二階突入班、外周警戒――全員が持ち場についている。
敵の位置も報告通り。
「さっき見回ってた男が、二階の端の部屋に入ったところっす」
そうベイクからの報告を受けたが、元より二階にいると想定していた敵だ。
作戦は変更せず、そのまま決行する。
オーウェンはわずかに視線を動かすと、闇の中で、各員が小さく頷いた。
――行ける。
ガルフが短く、手を上げる。
それが、合図だった。
次の瞬間、影が同時に動いた。
音はなく、扉が開く気配すらない。
ただ静かに、屋敷の中へと侵入が完了する。
数秒間は何も起きない。
だが、それは成功の証でもあった。
音もなく、一班の一人が戻る。
「一階、制圧完了。三名確保」
予定通りだ。
オーウェンは小さく頷くと、そのまま二階へ意識を向けた瞬間――。
突如轟音が鳴り響き、建物全体が揺れる。
続けてブレアのいる二階の部屋の窓ガラスに何かがぶつかり、ひびが入る。
屋敷内にいた隊員たちが次々に戻ってきて、報告を続ける。
「ガルフ隊長が扉を破って侵入! 敵の一人は扉と共に吹き飛び、室内で気絶しています」
「人質は無事です! 今隊長はアインと思しき人物と交戦中です!」
まずはブレアの無事をきちんと確認できて、胸の奥の緊張がわずかにほどける。
だがすぐに表情を引き締めた。
「救出は」
するとここで、隊員の顔が曇る。
「いえ、その、戦闘が予想以上に激しく……。また扉の前での交戦のため、三人とも接近不能だと」
短く、歯切れの悪い報告。
それだけで状況は十分だった。
ここにいても聞こえてくるほどの、二人の激しい戦いの音。
その一撃一撃が致命傷になる領域の戦いだと分かる。
下手に加勢に加われば、ガルフの邪魔をしかねない。
もう一人の宵鴉が意識を取り戻す前に捕縛し、一刻も早くブレアも保護したいところだが……。
オーウェンはブレアがいるであろう部屋を見上げる。
この手の届くところに彼女がいるのに。
内部は拮抗し、外からは介入不能。
このままでは、誰も動けない。
焦りそうになる気持ちを抑え、オーウェンが冷静に次の一手を考えようとした、その時だった。
戦いの続く、鉄格子の向こう。
窓辺にブレアの姿が現れ、一瞬だけ視線が絡む。
――彼女の瞳は、確かにオーウェンを捕らえていた。
だが、ブレアは何事もなかったかのように視線を外し、室内へ戻る。
姿が見えたのは、瞬き一つほどの時間。
彼女は、無事だった。
「……っ」
ブレアの姿を目にしたオーウェンの胸の奥が、強く打つ。
だが同時に思う。
あの顔は、何か企んでいると。
捕らわれているとは思えないほど、あまりにも普段通りのブレアの表情。
オーウェンに気づきながらも、あえて視線を止めなかったのは、中のアインを警戒したためか。
誰も助けに部屋に入れないというこの状況で、あのブレアがただ待っているはずがない。
オーウェンは考える。
ブレアの思考に合わせろ。
彼女なら、次にどう動くか。
そして頭に浮かんだのは、結婚契約書のあの条項。
『――自分の身をあえて危険や痛みに晒さないように、なるべく、可能な限り善処する』
そして今は、その限りではない。
視線を、ヒビの入った窓ガラスへ戻す。
普通ならありえない。
オーウェンもそう思いたかった。
だが、彼の知るブレアはそういった普通じゃないことを、躊躇なくできる人間だ。
――理解した。あそこしかない。
上ではまだ攻防が続いている音がする。
二人の打ち合いが止む気配はないという報告を聞きながら、オーウェンはひび割れた窓の真下へ迷いなく足を進める。
確信があった。
ここにいればきっと……。
そして――突然二階のガラスがガシャンと弾けた音が響き、破片が降り注ぐ。
「一体何が……!?」
慌てた声を上げる隊員たちとは対照的に、オーウェンは息を整えじっと上を見つめる。
次の瞬間。
小さな人影が、空へ放り出された。
いや、違う。
あれは、自分から飛び降りている。
……まったく、相変わらず無茶をする。
だが、ブレアは無謀ではない。
オーウェンはかすかに苦笑いを浮かべる。
視線は逸らさず、落ちてくる軌道を正確に捉える。
その瞬間だけ、世界が不自然なほどゆっくりになった。
揺れる髪。
砕けたガラスの破片。
夜明け前の淡い光の中で、彼女の姿だけがはっきりと見える。
――来る。
オーウェンは地面を踏み込み、腕を伸ばす。
指先に触れたと同時に、落下の勢いがそのまま腕に叩き込まれた。
「っ!」
衝撃が全身を貫き、呼吸が詰まる。
足が沈んで靴底が地面を擦る。
腕にかかる重さは決して軽くない。
それでも決して落とさず、腕の中にしっかりと収めた。
二階の音も、一階のざわめきも、全てが止まった。
数瞬の静止の後。
オーウェンは息を吐くと、腕の中を確かめるように見下ろす。
すると、腕の中のブレアがゆっくりと顔を上げる。
ばっさりと切られた髪に、少し乱れた呼吸。
それに、疲れ切った表情。
それでもその口元は、いつものように笑っていた。
オーウェンが受け止めることを確信していた顔で、ブレアは口を開く。
「ただいま、オーウェン」
そのわずかに掠れたブレアの声に、息が一瞬止まる。
言いたいことはたくさんあった。
けれどオーウェンはそのどれも口にせず、目を細てる。
返したのはたったの一言だった。
「ああ、おかえり」




