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婚約破棄をでっち上げられた商人令嬢は、面倒ごとを避けるため堅物騎士と契約結婚します。〜これで仕事に集中できる!〜  作者: 春樹凜
第二部

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26.夜明け前の静寂



 目を開けると、薄暗い天井がぼんやりと視界に入った。

 ……まだ夜だ。


 体は重い。

 だけど、さっきまでのような酷い寒気や吐き気はないし、指先にゆっくりと感覚が戻ってきているのが分かる。


 最悪の状態は抜けたらしい。

 だけど、まだ本調子には遠い。

 あれの効き目が切れるには、もう少しかかる。


 ため息をついたところで、喉がひどく乾いていることに気づく。

 少し体を起こそうとすると、すぐ近くで低い声がした。


「起きたか」

「っ!?」


 ……何を隠そう、私はお化けとか幽霊とか、そういったものが大の苦手なのだ。

 そして、わずかな夜空の光しか届かない部屋の中で、突然目の前にぬっと現れた黒い影。

 しかも、声まで聞こえる。

 

 こんなの、怖くないはずがない。


「ひぇっ!?」


 私は慌てて毛布を頭からかぶると、体をぶるぶる震わせながら呪文を唱える。


「し、塩……塩持ってない! ど、どうしよう、無理無理ホント無理!! た、退散退散退散っ! 悪霊退散! 商売繁盛!!」

「待て、最後のなんだ」


 毛布の外から、聞き覚えのある呆れた声が降ってきた。

 おそるおそる毛布をめくる。


 薄暗がりの中で、わずかに光を拾った瞳と目が合った。

 ……なんだ、お化けじゃなくて、ただのアインだった。

 早鐘を打っていた心臓が収まり、私はゆっくりと息を整える。


 彼の手には水の入ったコップがあった。 


「そういやあんた、幽霊とかそういう類いが苦手だったな」

「なんで知って……」


 言いかけて思い出す。

 結婚式の控室での会話を、彼は盗み聞きしていたのだ。

 あの時、私はオーウェンにその話をしていたんだった。

 毛布から体を出すと、少しだけ視線を逸らして答える。


「……怖いものは怖いんです。仕方ないじゃないですか」

「あんたも一応人間ってことか」

「一応って……。人間離れした人に言われたくないですけど」


 そう言いながら、差し出されたコップを受け取る。


「……ありがとうございます」


 まだ少し手は震えていたけれど、なんとか水を口に含む。

 冷たいそれが喉を通り、体の奥まで染み込んでいく。

 もう一度ふう、と息を吐き、壁に体を預けて呼吸を整える。


 アインが少し近づき、じっと私の顔を見る。


「さっきより顔色はいいな」

「そうですか?」

「ああ。死にかけみたいな顔ではなくなった」

「ひどい言い方ですね」

 

 思わずそう返した、その時だった。


 鉄格子のところ――視界の端に、白いものが映る。

 それは手のひらサイズの小さな白い鳥で、つぶらな瞳がじっとこちらを見ている。 


「…………」


 ごくりと息を呑む。 

 間違いない。

 あれは――カールだ。

 

 あの子はこの辺りに来たことはないはずだ。

 単独で来たとは考えにくい。

 ならもしかして……。


 私は思わず窓の外を覗きそうになったけど、ぐっと堪える。

 

 いけない、落ち着け私。

 今、ここにはアインがいる。

 彼に気づかれるわけにはいかない。


 カールは窓枠の影で、こちらからしか見えない位置でじっとしている。

 偉い子だ。

 解放されたらたくさん褒めて、ドライフルーツをあげないと。


 そんなことを考えながら、同時に頭の中で状況を組み立てる。

 カールがここにいる以上、状況は動いている。

 あのハンカチが届いたのだろう。


 そしてオーウェンなら、居場所を掴んでも即座には動かない。

 動くなら夜明け前だ。

 本当はアインが朝ごはんの買い物中に突入するのが一番勝率が上がるけど、それを今の私に伝える手段はない。


 だったら今私にできることは、アインがここから動かないように、ここに留めておくこと。

 もし彼に外の見回りにでも出られたら、すぐに異変に気づかれる可能性がある。


 私は一瞬だけ呼吸を整えた。

 そして。


「――ぎゃっ!?」


 わざと、少し大きめの声を上げる。


「どうした」


 窓の方へ何気に目を向けようとしていたアインの視線が、すぐにこちらへ向く。

 私は急いで、窓とは反対側の部屋の隅を指差した。


「あ、あそこ……! 今、何か、何かいたんですっ……!」


 アインが指さした方へ首を向ける。

 同時に、カールが音もなく窓から飛び立った。

 ――よし。


 私はすぐに毛布を引き寄せ、再び頭からかぶる。


「む、無理です……無理無理無理無理無理……!」

「何もいねぇぞ」

「でも、いました……! 絶対いました! いたんですっ!!」


 震える声で言いながら、毛布を握りしめる。


「…………」


 アインは少しだけ沈黙した。

 私はその間に、さらに畳みかける。


「……ああいうの、本当にダメなんです。無理なんです。襲われたら一体何で戦えばいいんですかっ!? 私は、今武器も一つも持っていないのに……。せめて塩ください! 大量の塩を!」

「部屋中にばらまく気かよ」

「当たり前じゃないですか!」


 今は怯えている演技をしているわけだけど、塩が最強武器の一つなのは本気で信じている。


 しばらく毛布の中で丸まっていると、アインが呆れたように息を吐いた。


「……攫われてもびくともしねぇ心臓持ってるくせに、そんなに怯えるとはな」

「人間怖いものの一つくらいはありますから!」

「ま、俺にはないがな」

「……血は見たくないって言ってたじゃないですか」

「怖くはない。汚いから嫌なだけだ」


 そんな会話をしながらひたすらに毛布の中で縮こまっていたら。

 ふと、小さな呟きが聞こえてきた。


「……なあ、あいつは見たことあるのか」

「え?」

「オーウェンだよ。今みたいに、必死に怯えてるあんたの姿を見せたことは?」


 一瞬だけ言葉に詰まる。

 怖いとは言ったけど、ただそれだけだ。

 一体この質問に何の意味があるんだろうと思いながらも、私はそっと毛布から顔を出すと、おずおずと首を振る。


「……ないですけど」

「ふーん」


 短く返して、アインは口の端をわずかに上げた。

 なぜか、どこか嬉しそうに。


「……しゃあねぇな」


 そう言って立ち上がると、彼は扉を開けて外にいた宵鴉に向かって声をかける。


「おい。夜の見回りはお前らでやれ。俺は今日はここから動かねぇ」


 短い応答が返り、外の足音が遠ざかっていくのを確認してから、アインは再び部屋に戻ってきた。

 そして、椅子を引きずってベッドのすぐそばまで寄せる。


「……見回り、行かなくていいんですか」

「一人にしたら、あんた怖がるだろ」


 あっさりと言われ、私は少し驚く。

 

 彼は面倒見がいいので、例えば、「怖いからここにいてください……!」と涙ながらに訴えてみるのはどうだろう、とか、他にもいくつか引き留められそうな台詞を考えていた。

 

 なのに、私が何か言うまでもなく、アインが自らここに残ってくれると発言したのだ。


 アインはそのまま椅子に腰を下ろすと、こちらを見下ろす。


「あなたって、結構いい人ですよね」

「そう思うんならあんたはずいぶんとおめでたい頭してるな」


 アインはそう言って、くくっと笑う。


「俺がここに残るのは、あんたが怯えてる様を存分に眺めて楽しむためだ」


 その目は、面白がっているようで――だけどほんのわずかに、どこか柔らかい色を帯びていた。


 アインという男は、知れば知るほどよく分からなくなる。

 まあ、彼の分析はともかく、結果的にはこちらにとって随分と好都合な状況になった。


 このまま彼がここにいるなら、外の異変に気づくことはない。

 そうあってほしい。

 あとは来るのを待つだけだ。


 そして――夜が明ける直前、事態が動き出した。



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