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婚約破棄をでっち上げられた商人令嬢は、面倒ごとを避けるため堅物騎士と契約結婚します。〜これで仕事に集中できる!〜  作者: 春樹凜
第二部

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23.賭け



 夕方になり、部屋の中の光が少しずつ橙色を帯びていく。


 アインの行動には、妙な規則性がある。

 本人は気まぐれで生きているような顔をしているけれど、食事に関してだけは妙に几帳面だ。

 だからこそ、今日も来ると思っていた。


 案の定、扉が開く。


「囚われのお嬢様、ご機嫌はいかがかな?」


 が、しわがれた声と共に入ってきたのは、見慣れた赤い瞳の青年――ではなかった。


 一瞬、誰だろうと思った。

 扉の前には、背筋の伸びた老紳士が立っていたからだ。


 灰色がかった髪をきっちり撫でつけ、口元には整えられた髭。洒落た杖までついている。

 年の頃は六十前後に見える。どこにでもいそうな、少し気難しそうな上流階級の老人だった。


 けれど、その老人が扉を閉めたあと、私を見てにやりと笑う。


「今から晩飯買ってくるけど、何食いてぇ?」


 元に戻ったその声で、ようやく分かった。


「……すごいですね、その変装」

「だろ?」


 老人の顔のまま、アインは楽しそうに肩をすくめる。

 本当に、何でもできる男だ。

 変装前の、あの茶髪の青年も十分自然だった。

 

 けれど今回は、それとは比べものにならない。

 背の曲げ方も歩き方も声の響かせ方まで別人だった。

 あれで旧街道を歩けば、誰もアインだとは思わないだろう。

 ただ、中に真っ赤なシャツを仕込み、宝石だらけの杖を選ぶあたりは実に彼らしい。

 多少身バレするリスクが上がっても、地味な装いをする気はないのだろう。


「で、夕飯はどうする」

「そうですね……」


 私は少しだけ考えるふりをした。

 本音を言えば、王都の端にある行列店でも指定してやりたかった。

 けれど、それでは露骨すぎる。 


 だから私は、肩の力を抜いて答えた。


「お任せします。……でも、できれば肉が食べたいです。肉」

「人質のくせに、贅沢な要求してくるなぁ」

「だって聞かれたので」


 本音だった。

 こういう時こそ、しっかり食べるべきだと思っている。

 頭を使うには糖分も必要だけれど、体力だっている。

 

「それにあなたの舌は信用できますから。アインが選ぶなら、味に外れはなさそうですし」

 

 現に彼が運んできてくれた食事は、どれも絶品だった。

 まさかの私ですら知らなかったお店の物もあって、アインに思わずそのお店の名前と場所を聞いたほどだ。


「私はここで、美味しいお肉が届くのを楽しみに待っていますね」


 そう言うと、アインは一瞬だけ呆れたように笑った。


「分かった。うまい肉探してくるわ」


 老人の姿のままそう言って、彼は部屋を出ていく。

 扉が閉まり、足音が遠ざかる。

 私はすぐに窓辺へ寄り、鉄格子の隙間から下を覗いた。


 老紳士が庭を横切る。

 その歩き方は、完全にアインとは別人だった。

 やがて彼は崩れた塀の向こうへ消えた。


「……本当に、何でもできるんですね」


 誰に聞かせるでもなく呟く。


 敵としては最悪だ。

 でも、観察対象としてはとても興味深い。


 私は窓から離れ、静かに呼吸を整えた。


 さて。

 ここからは、私にとっても賭けだ。


 まず、ポケットからハンカチを取り出す。

 レイバン家の紋章入りのものだ。

 さすがに、ただのハンカチまでは取り上げられなかった。


 次に視線を落とす。

 窓枠の近くに、風化した漆喰の欠片が転がっている。

 その中から、実験に使ったものと同じくらいの大きさのものを拾い上げた。


 それから、左手の指輪へ触れる。

 掠めただけでも相手を長時間動けなくするための毒針は、本来は相手に打ち込むためのものだ。

 当然使えばただじゃ済まないし、分かっていて自分の指に刺すなんて正気の沙汰じゃない。


 これから私が取ろうとしている方法を見たら、オーウェンはきっと「君は……」と呆れた顔でため息をつくに違いない。

 

 だけど。


「……他に方法がないんですよね」


 私は指輪から針を出す。

 遠くから、石畳を叩く蹄と車輪の音が聞こえる。

 ぐずぐずしている時間はない。

 私は覚悟を決め、勢いよく指先を針に押し当てた。


 途端に鋭い痛みが走り、思わず息が止まる。

 浅く刺したつもりでも、毒はきちんと体内へ入った感触があった。指先からじわりと血が滲み出る。


 急がないといけない。

 私はハンカチを広げ、紋章の横へ血を押しつけるようにして、震えそうになる指で小さく線を引いた。


 一画。

 二画。

 三画。

 四画。


 M。


 血の量は多くないから、これで精一杯だった。

 けれど、紋章入りのハンカチに血で書かれた頭文字。

 意味のない落とし物だとは思われないはずだ。


 私は漆喰の欠片をハンカチで包み、四隅をきつく結んだ。


 その時にはもう、指先の感覚が少しおかしくなり始めていた。

 熱いのに寒い。胸の奥がざわざわする。呼吸が浅くなる。

 さすが効き目が早いと内心感心する。

 次こそは敵に使いたいものだ。


 でも、まだ何とか動ける。

 私は鉄格子の前に立ち、外を見る。


 夕方の郵便馬車がどんどん近づいてくる。

 布張りの屋根に、昨日と同じ速度、同じ軌道。


 風は弱く、右から左へ流れている。

 これならいける。


 馬車がちょうど邸宅の前を通る。

 その瞬間、私は鉄格子の隙間から腕を突き出し、全身の力をこめて投げた。


 白い布の塊は、ひゅっと空を切る。

 うまくいった、と思った次の瞬間、枝先に触れた。


「……っ」


 落ちる――!

 心臓が嫌な音を立てる。

 だけど、ほんのわずかに軌道を変えただけで、塊はそのまま布張りの屋根へ落ちた。


 ぽすん、と鈍い音がして、屋根の中央が重みで小さくたわむ。


 私はその場で大きく息を吐きそうになって、寸前で堪えた。

 まだだ。まだ気を抜くな。


 郵便馬車はそのまま何事もなかったように旧街道を進んでいく。

 外の人間が気づいた様子はない。

 扉の向こうも静かだ。


 成功した。

 そう確信した瞬間だった。


 ぐらり、と視界が傾く。

 私は咄嗟に窓枠へ手をついたけれど、指先に力が入らない。

 体の芯から熱が噴き上がるような感覚と、逆に皮膚の表面を這う寒気。頭の中がぼうっと霞み、足元が急に頼りなくなった。

 なんとか部屋の中央まで戻ろうとしたけれど、三歩も進めず、膝が崩れる。

 床へ座り込んだ自分の吐息が、熱を帯びているのが分かった。


「……っ、は……」


 喉が焼けるように熱い。

 頭も痛い。

 額には汗が滲み、息は荒くなる。

 視界も少し揺れていた。

 ひどい風邪を引いた時みたいだ、と思った。

 自分で打った毒だから、文句は言えないけど、これなら風邪を引いたように見えるだろう。


 どれくらいそうしていたのか分からない。

 やがて扉の外で足音が止まり、続いて軽い声が聞こえた。


「肉、買ってきたぞ――って、おい!」


 入ってきたアインは、さっきの老紳士の姿ではな

く、見慣れた青年の姿に戻っていた。

 片手には包みを抱えていて、香ばしい匂いが部屋

いっぱいに広がった。


 炭火で焼いた肉の香りだ。

 それも、かなりいいやつ。

 ぐぅとお腹が鳴った。


「どうした」


 が、お腹を鳴らしている私とは対照的に、ぐったりする私を見たアインの声の調子が変わる。

 彼は包みをテーブルへ置くと、すぐにこちらへ寄ってきた。


「……なんか、やばくねぇか?」

「ちょっと……だるいだけです」

「ちょっとの顔じゃねぇだろ」


 そう言って、彼は迷いなく私の額へ手を当てる。


 ひんやりした指先が気持ちいい。

 でも次の瞬間、彼の眉が露骨に寄った。


「熱っ」


 その一言で、ああ、やっぱり高いんだなと思った。


「風邪か?」

「かもしれません」

「……さっきまでぴんぴんしてただろ」


 確かにその通りだ。

 ただ、この部屋は夜はそれなりに冷えた。

 風邪を引いても仕方がないと思える状況なのだ。


 さすがのアインも私が指輪の毒を使ったとは思わなかったようで、一瞬疑わしげな視線を向けたけど、すぐにそれを振り払うように首を振り、


「おい!」


 扉の方を振り返り、部下を呼ぶ。


「別の部屋から毛布もってこい。ありったけだ」

「は、はあ?」

「急げ」


 その一声で、外が慌ただしくなる。

 やがて男たちがばたばたと動き回り、別室から数枚の毛布が運ばれる。

 アインはそれを自分で広げると、私をぐるぐると包み、半ば強引にベッドに寝かせる。


「あの、ちょっときついんですけど」

「黙って温まってろ」


 毛布の隙間から抗議しても却下された。

 なんて手厚い看護なんだ。

 この人本当に誘拐犯なんだよね? と、疑ってしまいたくなる。


 さらにアインはテーブルの上の包みを開き、中身を取り出す。

 買ってきてくれたのは、香草と胡椒をたっぷり効かせた牛肉の串焼きだった。

 炭火で焼かれたらしく、表面にはうっすら焦げ目がついている。

 肉汁の匂いだけでまたお腹が鳴りそうだ。


「っと、さすがに病人に食わせられるもんじゃねぇな」

「え、食べます、食べたいです」


 掠れる声でそう訴えたら、アインが訝しげな顔で、私と串を交互に見比べる。


「熱ある時に肉食べたがるってどうなんだ……」

「しっかり食べて回復するのが一番です」


 私は毛布に包まれたまま言った。

 実際頭はぼんやりするし、体も重いけど、お腹はしっかり空いている。


 アインは呆れた顔のまま、串焼きを一本差し出してくる。

 私はそれを受け取り、熱っぽい体のまま、ゆっくりとかぶりついた。


 やっぱり美味しい。

 これどこで買ったのか、後で確認しないと。


 アインは私がちゃんと食べるのを見て、彼はようやく少しだけ肩の力を抜いたようだった。


「食えそうならまあいいか……。無理だったら言えよ」

「はい」

「今夜はそのまま寝とけ」

「ありがとうございます」

「礼を言われる筋合いはねぇよ」


 そう言いつつも、彼は水差しを近くへ寄せ、毛布がずれないように端を押し込んだ。

 本当に、どこまでも妙な男だ。

 私は串焼きを食べ終えると、熱を持った体を毛布へ沈める。


 毒は確実に効いている。

 でも、やるべきことはやった。


 後は、届くかどうかだ。


 ハンカチのレイバン家の紋章。

 血で書いた一文字は、ミレガン家を表すМ。

 そして郵便馬車。


 これでどこまで分かってもらえるか。

 それでも、ただの偶然では済まされないはずだ。

 私は重くなっていく瞼をゆっくり閉じた。


 ――きっと、彼なら見つけてくれる。

 そう信じながら、私は静かに息を吐いた。



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