16.異変(オーウェン視点)
その日、オーウェンは騎士団の詰め所にいた。
午前の業務はすでに終わり、午後の巡回に向けて準備をしているところだった。
机の上で装備を確認していると、向かいの席から声が飛んでくる。
「副隊長、今日の巡回、五番街からでしたっけ?」
顔を上げると、ベイクが椅子の背もたれにだらしなく寄りかかりながらこちらを見ていた。
「ああ。そこから南通りを回って、広場までだ」
「了解っす」
そう言いながらも、ベイクはにやにやした顔のまま続ける。
「しかし副隊長、本当に奥さんのこと大好きっすよね。昨日だって巡回中、通りの向こうに奥さん見つけた瞬間、顔がぱっと――」
そこでオーウェンは無言でベイクを睨んだ。
「……続けるか?」
「いえ黙ります!」
ベイクは即座に姿勢を正す。
元気だけはいいなと、いつも通りのベイクにため息をついた、その時だった。
窓の外から、聞き慣れた鳴き声がする。
オーウェンが振り向くと、白い小さな影が外の窓枠に降り立っていた。
「カー」
「おっ、カール君じゃないっすか!」
ベイクが身を乗り出す。
ブレアが飼っているカールは、時々こうしてオーウェンの元へ伝言を運んでくることがあるのだ。
「また奥さんからの手紙っすか?」
「ラブレターじゃないですかね?」
「副隊長、ここで読むんですか?」
周囲の騎士たちが面白そうに口々に言う。
オーウェンは軽く眉を寄せたが、何も言わずに窓の方へ歩く。
カールはオーウェンの姿を見ると、ぱたぱたと羽ばたいて、くちばしで強く、何度も窓を叩く。
その姿に、オーウェンはふと違和感を覚える。
急いで窓を開けると、鋭い声で鳴きながらカールが一目散に飛び込んできた。
「カール、一体どうしたんだ」
オーウェンが手を差し出すと、カールはすぐにその上に止まった。
「カー! カー!」
普段は静かな鳥なのに、今日はやけに騒がしい。
まるで必死に何かを伝えようとしているようだった。
オーウェンは眉をひそめる。
カールが詰め所に来ること自体は珍しくない。
だが、今日は違った。
落ち着きなく羽をばたつかせ、何度もオーウェンの袖をつついてくる。
その仕草に違和感を覚えながら、オーウェンはふとカールの足を見る。
何もついていない。
「……手紙はないのか?」
思わず呟く。
周囲にいた騎士たちも顔を見合わせた。
「え? 本当っすか?」
「いつも何か付いてること多いですよね」
ベイクが首を伸ばして覗き込む。
だが、何度見てもやはり何もない。
オーウェンの胸に、言いようのない違和感が広がる。
だとするといつもの練習なのか。
それにしても今日のカールの様子はおかしい……。
その時、聞き覚えのある声が入口から聞こえてきた。
「オーウェン、ちょっといいかな」
そこに立っていたのは、レイバン家の長男であり、ブレアの兄のダスティだった。
オーウェンはわずかに目を見開く。
「ダスティ殿?」
ダスティが詰め所を訪ねてきたのは初めてだった。
カールを見ると、ダスティの水色の瞳がわずかに細くなる。
その表情は、普段の柔らかな表情の彼からは想像できないほど鋭かった。
「……その子、カールだね」
「はい」
「手紙は何かついてた?」
「いえ、何も。手紙がないこと自体は珍しくありませんが……今日は様子が違います」
オーウェンが答えると、ダスティの表情がさらに険しいものになる。
「実は今日、ブレアと打ち合わせの約束があったんだ。十二時からね。だけどあの子は来なかった。ブレアがいそうな場所を当たってみたけど、どこにもいない」
「商会にもですか? 午前中はそちらで仕事をすると聞いていましたが」
オーウェンの問いかけに、ダスティは首を横に振る。
「それどころか、今朝は商会にも一度も顔を出していなかったんだ。だから君のところに来ていないか、聞きに来たんだけど」
「……ここには一度も来ていません」
「加えてカールのその異常な様子……もしかして、あの子に何かあったのかもしれない」
すると、詰め所にいた騎士の一人が口を挟む。
「でも約束の時間から、まだ一時間も経ってないですよね? 前の用事が押して遅れているだけなんじゃ……」
けれどダスティが即座に答える。
「普通なら、そう思うんだろうけど。でも――レイバン家の人間は絶対に遅刻しない。約束の時間を守らないなんて、うちの人間が一番やらない行動だ。だからこそ、ブレアの身に何かあったと疑うべきなんだ」
オーウェンは、その言葉にすぐ納得した。
レイバン家の価値観は、ブレアと関わる中で嫌というほど見てきた。
無駄と非合理を徹底的に嫌う家だ。
時間も例外ではない。
「少なくとも、今朝まではブレアに異常はなかったはずなんだ。カールが僕に手紙を届けに来たからね。間違いなくあの子の字だった。つまり」
「ブレアに何かあったなら、その後か」
オーウェンが続きを告げると、詰め所の空気がわずかに張りつめる。
「それなら、家を出てから商会へ向かう途中で、何かが起きた可能性が高いかもしれないですね」
そう言うや否や、オーウェンはすぐに隊員たちに指示を出す。
「午後の巡回だが、予定を少し変える」
詰め所の騎士たちがこちらを見る。
「南通り周辺を重点的に回ってくれ。ついでに聞き込みもしてほしい。今日ブレア・レイバンを見かけたかと。何か分かればすぐに連絡を回してくれ」
「了解!」
そう言うと、騎士たちが慌ただしく詰め所を出ていく。
残ったオーウェンは、ダスティに向き直る。
「ダスティ殿。俺はブレアが普段、商会へ向かう時に使っている道を当たってみます」
そう言うと、ダスティは迷いなく頷いた。
「僕も行くよ。気になるからね」
普段の彼なら、家の仕事を優先して動くことも多い。
けれど今回は違った。
レイバン家の人間にとって合理性は何より重要だが、それでも家族のこととなれば話は別らしい。
その時、鋭い鳴き声が響く。
「カー!」
カールがオーウェンの肩に飛び移り、忙しなく羽をばたつかせる。
まるで自分も連れて行けと言わんばかりだ。
「分かった。お前も来い」
カールを肩に乗せたまま、オーウェンは詰め所を出た。
胸騒ぎは、もう無視できなかった。
オーウェンはダスティたちを伴い、そのまま聞き込みを始めた。
すると、すぐに彼女を今朝見たという人物が現れた。
「ああ見たよ。どうも具合が悪くなったらしくてね。ぐったりしたブレア様を男が抱えて運んでたよ。治療院に連れてくって言ってたけど」
オーウェンとダスティの視線が同時に鋭くなる。
「特徴は覚えているか?」
オーウェンが低く聞き返す。
「若い男だったよ。オーウェンさんと同じくらいの背丈で、茶髪に眼鏡。レイバン家の護衛だって名乗ってた。最近雇われたばかりだとか」
その言葉に、オーウェンはすぐダスティを見る。
「レイバン家で、そんな護衛を雇いましたか?」
ダスティは即座に首を横に振った。
「いや。少なくとも、僕は聞いていない」
さらにダスティは瞳を冷たく細め、続ける。
「それに、もし誰か雇ったとしても、家には必ず共有するはずだ。そんな話は一度もなかった。それに今日のブレアの護衛の見た目と全く合っていない」
つまり――その男は嘘をついていた可能性が高い。
「その男はどこから来たか分かるか?」
「確かあっちの裏通りから出てきたかと」
オーウェンはすぐにそちらへと移動する。
大通りから一本入っただけだが、人通りはほとんどなく、石畳の狭い道だ。
「ブレアが商会に行くときに使っている道とは別だね。そうしてあの子はこんな道に来たのかな」
「分かりませんが……」
その時、道の一番奥に置かれていた大きな木箱が、わずかに動いた。
オーウェンが急いでそちらへ向かうと、その箱の横に一人の男が横たわっていた。
それは――間違いなく、本物のブレアの護衛だった。
「何があった!?」
彼の上半身を起こすと、護衛は震える声で何とか言葉を紡ぐ。
護衛が言うには、ブレアが男のボタンを探すために地面に目線を向けていた隙に、あっという間に距離を詰められて気を失わされたという。
「……っ!」
護衛の言葉にオーウェンは唇を強く噛む。
ブレアは本来、護衛なしでも動けるほど強い。
そのうえで付けられていた護衛まで一瞬で倒され、犯人は大通りで堂々と彼女を連れ去っている。
腕が立つだけではない。
人目すら恐れていない節がある。
「カー!」
と、頭上からカールの鋭い声が響く。
白い影が急降下し、オーウェンの前に降り立った。
そして何かをくちばしでつまみ、差し出す。
それは、ガラスでできたボタンだった。
まるでダイヤのようなカットが入っており、光を受けて、異様な輝きを放っていた。
オーウェンはそれを手に取る。
護衛に確認すると、これがまさに犯人が捜していたと言っていたボタンらしい。
だとすれば、十分すぎる手掛かりだった。
「……しかしこのボタン、普通じゃないな」
ダスティも覗き込む。
「こんなの、うちの商会でも扱っていないよ。少なくとも王都の市場で見た覚えもない」
ダスティはそのままボタンをじっと見つめ……。
「……いや、待って」
水色の瞳が細くなる。
「このボタン――見たことがある」
オーウェンが顔を上げた。
「本当ですか?」
「うん。少し前に、王都で見かけた男が付けていた」
ダスティは記憶を辿るようにゆっくりと言葉を続ける。
「目を引くボタンだったからね。仕入れ先を聞こうと思って、つい声をかけたんだ」
「声を?」
見ず知らずの人間にいきなり話しかけたのかと驚きの声を上げたオーウェンに、ダスティは苦笑する。
「どこで仕入れたのか聞こうと思ってね。レイバン家の人間の性ってやつだよ。そしたら、自分で作ったって言ってた。ガラスから切り出して削った、自作だって。売るつもりもないって」
「そのボタンと同じだと」
「うん。見間違えるはずがない、これはその時彼がしていたボタンとまったく同じものだ」
ダスティがそこまで言うのだ。
そのボタンがこの道に落ちていたのは、偶然とは思えない。
「その男の見た目は覚えていますか」
するとダスティの顔色がわずかに曇る。
「ただ、さっき聞いた特徴とは違うんだよね。僕が見たのは、妙に整った顔立ちの男だった。やや暗い金髪で、瞳が赤かったかな。赤い目なんてかなり珍しいから覚えているよ」
その瞬間、オーウェンの体が凍りつく。
「……いや」
否定しかけた思考が、次の瞬間には形を成していた。
条件が、揃いすぎている。
ブレアを一瞬で制圧できる腕。
人目を気にしない大胆さ。
派手な装飾を好む男。
そして、金髪と赤い瞳という珍しい組み合わせ。
表の世界では変装しているとすれば、説明がついてしまう。
「宵鴉の――アイン」
オーウェンの呟きに、ダスティがすぐさま反応する。
「それって王都の裏で動いている連中のことだよね。アインは確か、そこの一番手……ならブレアが簡単に連れ去られるのも無理はないかな」
「つまり誰かが宵鴉を使ったことになります。彼らは誰かに依頼されて動く連中です。必ず雇い主がいるはず。心当たりはありますか」
「うちに恨みを持つ人間なんてたくさんいるだろうからね。すぐには分からないよ。でも、殺さずに連れ去ったってことは……」
その時、ベイクが全力で二人の元へと駆け寄ってきた。
「副隊長っ!」
ベイクはオーウェンの返事を待たず、息を切らしたまま叫んだ。
「レイバン家から連絡です! 脅迫状みたいなものが届いたらしいっす!」
オーウェンとダスティは顔を見合わせる。
「やっぱりそういうことだったね。うちのブレアを誘拐する。目的は」
「――身代金か」
護衛を治療院へ運ぶようベイクに命じ、オーウェンたちはすぐにレイバン家へと向かって走り出す。
屋敷に到着すると、すぐに応接室へ通された。
そこには、ブレアの父のカーターが立っていた。
普段は冷静な男だが、今はわずかに表情が硬い。
「来てくれたか」
カーターは低く言うと、テーブルの上を指した。
「……これを見てほしい」
そこには一枚の紙と、小さな箱が置かれていた。
紙には乱暴な文字で書かれている。
『ブレア・レイバンの身は預かった。48時間以内に3億ダルクを用意して、明後日の午後一時に中央広場の噴水前に置け。用意できなければ、彼女の命はない』
そして、その隣には箱があった。
カーターの方を見ると、彼は重々しく頷く。
オーウェンは、ゆっくりと蓋に手をかけ、開いた。
――中に入っていたのは、束ねられた髪だった。
薄茶色の髪は、彼女と全く同じ色合いだ。
それは、最近ずっと彼女が付けていたのと同じ、真っ白なリボンで結ばれたまま、刃物で乱暴に断ち切られている。
「っ、これって」
ダスティが引きつった声を上げる。
オーウェンは何も言わなかった。
指先が震える。
だが、それすら握り潰すように拳を作る。
怒りを押し殺すように。
――見間違えるはずがない。
ブレアの髪だった。




