14.二人の夜
王都の店の視察をすべて終えた頃には、すっかり夜になっていた。
最後の確認先は、シャレン食堂だ。
暖簾をくぐると、店の中にはもうお客さんの姿はなかった。
閉店間際だから当然だろう。
いつもながら、視察としては一番都合がいい時間帯だ。
「いらっしゃい……お、ブレア様」
奥から顔を出したザックが軽く頭を下げる。
「こんばんは。今日も定期視察……もといザックさんの美味しい晩御飯を食べに来ました」
「どうぞどうぞ! 腕によりをかけて作りますから!」
私はいつもの席に腰を下ろし、壁に掛けられているメニューを眺めた。
見慣れた料理が並ぶ中、いくつか新しい札が増えている。
予想していた通り、春野菜のフリット。
それから、新じゃがと鶏そぼろの甘辛シチュー。
そして――。
「鶏肉と春野菜のバジルソテーとミネストローネのセット…」
これが今年からの新メニューらしい。
私は腕を組んでしばらく悩む。
フリットもいい。
サクサクで軽い食感の衣のついた野菜はどれだけでも食べられるし、一緒に添えられている自家製ワイン塩との相性も抜群だ。
新じゃがだって捨てがたい。
甘辛という変わった味付けのシチューはここでしか食べられないし、これについてくる自家製ライ麦パンをつけると、おかわりが止まらなくなる。
でも今日は視察だ。
そうなると、新メニューを試すのが筋だろう。
「よし」
ザックを呼ぼうとした、その時だった。
椅子が引かれる音がして、誰かが私の隣に座る。
視線を向けた私は、思わず声が出た。
「……オーウェン?」
私は思わず瞬きをする。
夕方に会った時は、別の任務が入って帰れないかもしれないと言っていたはずだ。
あのオーウェンが仕事を放り投げる……なんてことはしないはずだし、とすると、これは私の見ている幻……?
試しにそっと腕を伸ばしてみると、私の手にペタッとオーウェンの腕の感触が伝わった。
「何をしてるんだ?」
「いえ、本物かどうか確かめていました」
「正真正銘、本物だが」
「ですね。仕事はどうしたんですか?」
「予定より任務が早く終わった。それで、君と夕食が取れるかもしれないと思って寄った」
すると、ザックが注文を取りに来た。
「ご注文はどうしましょう」
私はメニューを見ながら答える。
「私は、鶏と春野菜のバジルソテーとミネストローネのセットをお願いします」
「今回のも自信あるんで、楽しみにしててください」
言われなくても、想像しただけでお腹が鳴りそうだ。
そして隣を見る。
「オーウェンは?」
彼はメニューをちらりと見る。
新メニューの札のあたりで、ほんの一瞬だけ視線が止まる。
少しだけ悩んでいる様子だった。
けれど次の瞬間、彼は顔を上げて言った。
「鶏南蛮を」
やっぱり。
私は思わず笑ってしまう。
「本当に好きですね、鶏南蛮」
「美味いからな」
ザックも苦笑する。
「副隊長は、いつもそれですね。考えてみりゃあうちでそれ以外食べてないんじゃないんですかい?」
「そうかもしれないな。いつも悩みはするんだが、どうもあれの誘惑に勝てないんだ」
ここに通い始めて四年になるのに、相変わらず鶏南蛮一筋なんだから少し可笑しい。
すると、同じように笑っていたザックが注文を書き留めながら、何かを思い出したような表情になる。
「そういやオーウェンさん、先日は大活躍だったそうじゃないですか」
「……?」
私は思わず顔を上げた。
「どういうことですか?」
ザックは少し身を乗り出す。
「いやね、ついさっき、第二小隊の方々が食べに来てましてね。倉庫街の密輸団の話をしていたんですよ。予定よりも早く捕まえられたって」
「密輸団?」
確かに倉庫街は人気が少ないこともあって、そういったやり取りされるってことは聞いたことがある。
「逃げ道まで用意していたらしいんですが、それを読んで全部捕まえたとか」
そしてザックは笑いながら言う。
「その逃げ道を見抜いたのがオーウェンさんだって、その騎士さんが自慢してましたよ。おかげで昨日は早く帰れたと」
オーウェンは小さく息を吐いた。
「……大げさだ」
「いやいや、みんな旦那を褒め称えてましたよ」
私はオーウェンの顔を見る。
「そうだったんですか?」
彼は少しだけ視線を逸らした。
「たまたまだ」
そう言って話を切り上げるあたり、いかにもオーウェンらしい。
けれど、彼が最近どんどん結果を出しているのは確かだ。
大きな事件以外にも、迷子の子供の保護や、怪我をした老人を治療院まで運んだりと、王都に住む人達のために惜しみなくその任務を全うしている。
オーウェンは、こういう時も決して自分から誇らない。
けれど、だからこそ周囲の評価は着実に積み上がっていくのだろう。
それに、この前の夜会でモーリス公爵に気に入られたこともあって、今度は公爵の家族と食事をすることになったとも聞いている。
そこには当然、公爵の義理の息子で例の人事部のマイケルもいるそうで。
彼の計画も着実に進んでいるようで、何よりだ。
しばらくすると、料理が運ばれてきた。
バジルの爽やかな香りと、鶏南蛮の甘い香りが同時に広がる。
「いただきます」
「いただきます」
二人でそう言って食事を始める。
ザックは注文したものを出したらいつもすぐに奥に引っ込む。
聞こえるのは食器の音くらいで、それを背景に、いつも通り私たちはただ、何気ない会話をする。
特別なことは何もない、そんな、穏やかな時間だ。
食事を終え、店を出ると、夜の空気が少しだけひんやりしていた。
王都の通りは昼よりもずっと静かで、灯りのついた店がぽつぽつと並んでいる。
この時間でも人通りはそれなりにある。
だから私たちは、いつも通り仲のいい夫婦らしく手を繋いで歩き出し、同じ家へ向かう。
「今日はありがとうございました」
私の言葉に、オーウェンが少し首を傾げた。
「何がだ?」
「夕食を一緒に食べるために、お店まで来てくれたじゃないですか」
オーウェンは少し考えてから言う。
「君が行くと聞いていたからな」
「でも嬉しかったんですよ。一人ご飯は苦じゃないですけど、オーウェンとの食事は楽しいですから」
私はにっと笑ってそう言った。
そうしたら、オーウェンはほんの少しだけ視線を逸らす。
「……それなら良かった。俺も君との食事は楽しい」
少しの沈黙が流れ、夜の石畳を踏む足音だけが静かに響く。
私はちらりと隣を見る。
今日はそんなに暑くもなく寒くもなく、ちょうどいい気候なのに、謎に彼の耳のあたりが赤い。
ふむ。
「……もしかして」
「何だ」
「オーウェン、ちょっと照れてます?」
オーウェンは即座に答える。
「照れていない」
「でも耳が赤いですよ? それに頬も」
「っ、気のせいだ」
「ふーん?」
私は少しだけ首を傾げる。
けれど、繋いでいる手に意識を向けて、小さく笑った。
「まあいいです。そういうことにしておきましょう」
私のこの反応に、オーウェンが少し眉をひそめる。
「何か含みのある言い方だな」
「いーえ、別に? ただあなたの手が、尋常じゃないくらい熱いので」
一瞬、オーウェンの歩く速度がほんのわずかに乱れた。
が、熱はそのままに、すぐに速度を戻すと、
「……気のせいだ」
と答えた。
それでも、繋いだ手が離されることはなかった。
私も離すつもりはなく、ぎゅっと握ってみる。
すると、まだ照れているらしいオーウェンが、少しだけ強く握り返してきた。
そのことが少し嬉しくなって、胸の奥がぽかぽかする。
……明日も、こんな風に穏やかな一日が続くのだろう。
私は何の疑いもなくそう思っていた。




