5.夜会のお誘い
レストランの開店まで、もう日がない。
料理の確認に店内装飾の最終調整、宣伝の段取り、従業員との打ち合わせと、やることはいくらでもある。
結局新居に戻ったのは、すっかり夜も遅くなってからだった。
玄関に入ると、すぐにカールが出迎えてくれた。
「カー」
「ただいまカール。いい子にしてましたか?」
「カー!」
家の中はまだ暗く、オーウェンは帰っていないみたいだ。
肩に止まったカールに話しかけながらダイニングに向かい、椅子に座って彼と遊びながら、私はあることを思いつく。
実はこのカールを飼おうと思ったきっかけは、宵鴉の襲撃事件だった。
メンバーが連絡手段として黒いカラスを使っているのを見て、私も真似したくなったのだ。
私は近くにあった紙に、
『もうすぐ帰ってきますか?』
と短い文を書いて、カールの足に括りつけ、窓のところへ連れて行く。
「カール、お願いします」
私がそう言って窓を開けると、カールはどこかへ向かって一直線に飛び立っていった。
しばらくして。
ぱたぱたと可愛い羽音を立てながら、カールが戻ってきた。
確認すると、彼の足にはさっきとは違う紙が括りつけられていた。
中身を確認すると、
『あと少しで』
オーウェンの筆跡でそう書かれていた。
よかった、どうやらうまくいったようだ。
カールにご褒美としてドライフルーツをあげつつ、私は小さく笑った。
「よくできました」
カールは得意げに胸を張ると、もぐもぐと果物を食べ始める。
本当に賢い子だ。
宵鴉が使っていたカラスを見た時は、正直半分くらい思いつきだったけど……実際、かなり便利である。
今カールが覚えているのは、この家と本邸、商会、それからオーウェンのいる騎士団の詰め所だけ。
でもこの調子なら、他の場所も覚えてもらえば、家族との連絡役としてかなり役立ちそうだ。
そんなことを考えながら、私はカールを鳥籠に戻し、湯浴みを済ませてからダイニングへ戻ったら、人影があった。
「おかえりなさいオーウェン」
「ただいまブレア」
「手紙通りですね」
私がそう言うと、オーウェンは鳥籠の中で既に眠っているカールを見た。
「伝書役にしたいとは聞いていたが、まさかこんなに早く成功するとはな」
「それだけ賢い子なんですよ。そのうち外出時は毎回連れて行くようにすれば、何かあった時にすぐに連絡できるようになります」
オーウェンは腕を組み、少しだけ考えるような顔をした。
「確かに便利だな。騎士団でも使えそうだ」
「でしょう?」
思わず胸を張ると、オーウェンはわずかに口元を緩めた。
「ところで、今お湯を沸かしたところなんだ。ブレアも何か飲むか」
「じゃあ、ハーブティーがいいです。そこのオレンジの缶の」
「分かった」
オーウェンは頷くと、棚から茶葉を取り出した。
しばらくして、湯気の立つカップが二つ、テーブルの上に置かれる。
「ありがとうございます」
「俺同じものにしてみた。柑橘系の香りがするな」
「オレンジにレモン、それにミントが少し。私、これ好きなんですよね。オーウェンの口にも合うといいんですけど」
私はカップを手に取り、香りを吸い込む。
ほっとする香りだ。
しばらくお茶を飲みながら静かな時間が流れた後、オーウェンが口を開いた。
「裁きの間はどうだった。今日だったんだろう?」
ああ、そういえばその話はオーウェンにもしていた。
私は軽くため息をついた。
「……罰、決まりました」
「何だった」
「モーリス公爵との社交です」
オーウェンの手がはたと止まった。
「それが……罰になるのか?」
「ええ。とんでもない罰ですよ」
「以前、身体を痛めつけられるようなことではない、と言っていたな。確かに体の痛みは何もなさそうだが」
「はい。体は。ただし、精神的には非常に苦痛です」
そして私は一体何がそれだけ苦痛なのかを説明する。
するとオーウェンは納得したように頷く。
「なるほど。それは君にとっては辛いだろうな」
「でも、あのワインは本当に美味しいので、役目も責任もちゃんと果たしますよ」
じゃないと、もし失敗したら、ダスティお兄様が受けた罰以上のものを課されるかもしれない。
想像しただけで冷えて震える体を温めるように、両手でカップを持っていると、オーウェンがふと口を開いた。
「……その、モーリス邸で開かれる夜会だが。俺を君の同行者として連れて行ってもらうことは可能か?」
「え。あ、はい、それはもちろん。というかまさに今その提案をあなたにするつもりだったんですけど」
私がそう言うと、オーウェンは少しだけ目を細めた。
「そうか」
そしてカップを手に取りながら、続ける。
「実は今日、ガルフ隊長から、俺が来期に隊長に昇格する可能性があることを教えてもらった」
「えっ、隊長に!? それってものすごいことじゃないですか!」
実現すれば、歴代最年少記録をぶっちぎりで更新することになる。
話を聞くと、この間の宵鴉を捕らえたことも大きいそうだけど、それにしたってだ。
もちろんレイバン家はその話に全く関わっていない。
だからこれは、オーウェンが自分の手で掴んだことだ。
「これなら、いずれ副団長や団長だって現実味が出てくるんじゃないですか?」
「どうだろうな。仮に隊長に昇格しても、そこから副団長、団長と上がるには、短くても数年、長ければ十年以上かかるだろう。それより上となれば、さらに時間が必要だ。だが、その間に人脈を培いながら、下から変えられることは変えていく」
オーウェンは静かに続けた。
「一気に上に立って、今日からこういう騎士団にする、なんてやり方は無理だ。騎士団は人の集まりで、命令だけで変わる組織じゃない。独裁のようなやり方では、必ず反発を招く」
「……確かに」
「だから、上がりながら少しずつ変えていく。味方と賛同者を増やしていくのが、一番確実だ」
私は思わず小さく笑った。
「ずいぶん気の長い改革ですね」
「そうでもない」
オーウェンは肩をすくめる。
「十年や二十年で変えられるなら、むしろ早い方だ」
レイバン家の力を使えば、その期間を十年以上短くすることもできるだろう。
でも、オーウェンはそれを望んでいないし、そんなことをしたら騎士団の公平さは永遠に失われるだろう。
彼は、騎士としての自分の力でそこまで辿り着くつもりなのだ。
私はカップを持ったまま、小さく息を吐いた。
「……本当に、真っ直ぐですね。知ってましたけど」
「そうか?」
「ええ。普通なら、近道があるなら使おうって思いますよ」
「自分で決めたやり方を裏切ったら、その瞬間、信念はただの言い訳になる。俺は、自分で決めたことを裏切りたくないだけだ」
彼の言いたいことはよく分かる。
私だって、自分のやり方を曲げるつもりはない。
短期の利益のために信頼を失うようなやり方は、商売では一番損をする。
だから私は、目先の得より長く続く利益を取り、なおかつ正面から勝つ。
本質はきっとそう変わらない。
私がそれを商売でやり、彼が騎士としてやろうとしているというだけだ。
そういう人間だからこそ、オーウェンは上に立つ価値があるとも思うし、彼が頂点に立った騎士団を見てみたいとも思う。
「で。あなたがモーリス公爵の夜会に行きたいと行ったのは、彼が、騎士団本部にいる人事決定権を持つ一人――マイケル・モーリスの義父だということと関係がありますか?」
「そういうことだ」
私の問いかけに、オーウェンはあっさりと認めた。
彼が言うには、承認が得られていないのは人事部の二人。
一人は何とかなりそうだそうだけど、問題はもう一人の方らしい。
「マイケルは、いわゆる近衛騎士団至上主義でな。中央騎士団や地方騎士団の人間を、あまり快く思っていない節がある」
「なるほど」
「しかも今回は、実現すれば全騎士団の歴代最年少記録を塗り替える昇進だ。表向きは、功績だけで若い人間を隊長にする前例を作りたくない、という考えらしい」
「つまり」
「近衛ではない、中央騎士団の若い人間が目立つのが気に入らないんだろう」
「……ああ」
それは確かに厄介だ。
「今のままでは承認することはないだろう。加えて人付き合いもあまり好まないらしい。近衛の連中としか関わらないそうだ」
「それじゃ、接触すること自体が難しいですね」
「ああ、そうなんだ。彼との接点を作るきっかけすらなくて、どうしたものかと考えていたんだ」
それで、その糸口としてモーリス公爵と接触したいと。
「だからといって、公爵に推薦を頼むつもりはない。ただ、俺がどういう人間かを知ってもらうきっかけになれば十分だ。『ああいう騎士がいる』と話題にしてもらえれば、向こうの見方も少しは変わる」
「それで、興味を持ったら?」
「その時は、俺から会いに行く」
そしてオーウェンがマイケルを直接口説き落とすと。
なかなか面白い作戦だ。
私はカップを傾けながら、くすりと笑った。
「結果的にこの話を持ち出したのは、あなたの役にも立ちそうでよかったです」
「結果的に?」
「はい。実はあなたに同行をお願いしようとした理由のうち、オーウェンの将来に役に立つかもしれないっていうのがあったので。まあ、全体の二割ですけど」
「残りは」
「公爵位に就く前は近衛騎士として活躍した公爵の興味をあなたに向けさせることで、こちらへの注意が逸れて少しでも私が楽になればいいなというのが八割」
正直に告げたら、オーウェンは苦笑した。
「君らしい理由だな」
「あ、でも、その二割がなければ私は自分勝手にあなたを巻き込むつもりはなかったんです。そこは誤解しないでくださいね。それに、何かあったら遠慮なく巻き込めって言ったのは、あなたの方ですし」
「確かに言ったな」
「だから早速、巻き込むことにしました」
私がそう言うと、オーウェンは飲み干したカップを置いた。
「分かった。なら、存分にその役目を果たさせてもらおう」
「ありがとうございます。きっと公爵、あなたを気に入りますよ」
「俺は近衛ではないがな」
「大丈夫ですよ。公爵は選民主義のきらいはありますが、権威だけを求めて就いた大多数の近衛兵と違って、本心から王家に忠誠を誓った数少ない騎士ですよ。騎士という仕事に誇りを持っていた彼なら、きっとあなたを気に入ります」
あ、でも。
私は一つだけ、懸念事項を思い出した。
「モーリス公爵との夜会では、絶対にお酒を勧められるんですけど……大丈夫ですか?」
ハーヴェスト邸に挨拶に行った際、オーウェンはなるべくお酒は口にしないようにしていると言っていた。実際昨日の結婚式だって、一切飲んでいなかったし。
確か、それなりには飲めるけど、厄介な酔い方をすると。
私の言葉に、明らかにオーウェンの顔が固まった。
数秒の沈黙の後、彼は軽く咳払いをする。
「……た、多分」
少しだけ視線を逸らしながら続ける。
「いや、おそらく大丈夫だ」
「……本当ですか?」
「ああ。自分さえ気をしっかり持っていれば問題はない。そう、平気だ、問題ない」
どこか自分に言い聞かせるような口調だったけど、本人がそう言うのなら大丈夫なのだろう。多分。
だけどその二週間後――彼のとんでもない姿を目にすることになるなんて、この時の私は、まだ知る由もなかった。




