2.日常の始まり
思い返せば、本当に色々あった。
まずは、あの結婚式。
誓いの口づけで盛大に息を止めすぎて、私はその場で気を失った。
目覚めた時には控室で、その後はオーウェンにお姫様抱っこされたまま会場へ戻ることになり、参列者は大騒ぎだった。
けれど私が本当に怖かったのは、そんなことより、お母様とノーラお義姉様の評価である。
だって、ドレスのお披露目時間を減らしてしまったのだから。
でも、私と目が合った二人は、目の奥は微妙に笑っていなかったけど、ギリギリ合格点という表情を向けた。
ああ、よかった……これでお説教は免れそうだ。
それから私たちは祝宴会場へ移動した。
場所はもちろん、来週オープン予定のレストランだ。
祝宴会場になったレストランは想像以上の反響だった。
ラリアンの料理も、ローリーのケーキも、内装も高く評価され、その場で二か月先まで予約が埋まった。
ついでに、私のドレスと装着まつげの宣伝効果まで上々で。
――つまり。
「昨日は、大成功でしたね」
私がそう言うと、オーウェンも小さく頷いた。
「ああ」
「ただ、さすがに疲れましたけど」
祝宴が終わって私たちはこの別邸へ戻ってきた。
で、軽く湯浴みを済ませて、私はほとんどそのまま倒れ込むように寝てしまった。
お風呂上がりのオーウェンも似たような状況だったらしい。
ちなみに寝室は別々だ。
普通に「おやすみ」と言って、それぞれの部屋へ向かい、そして今に至る、というわけだ。
「あ、そうだった! これは先に言っておかないと」
私はふと思い出して、左手を持ち上げる。
薬指には、昨日交換したばかりの結婚指輪が光っていた。
「この指輪なんですけど、実はちょっとした仕掛けをしてあるんです」
「指輪を選んだ時に、店で何か君が言っていたな。そのことだったのか」
「ええ。実はですね――」
私はオーウェンの指輪に手を伸ばすと、爪で外側の縁をすっと押した。
すると、カチ、と小さな音がして、オーウェンの指輪の側面がわずかに開いた。
「指輪を選んだ時、厚みを持たせれば細工ができそうだと思って、加工を頼んでおいたんです」
「……これは?」
中から出てきたのは、指輪の内側にギリギリ仕込めるサイズの、極小のカプセルだった。
私はさらっと告げる。
「解毒剤です」
「っ、解毒剤!? ……そもそも、結婚指輪に何かを仕込むという発想が、君らしいというか」
「だってどうせずっと身に着けておくなら、少しでも役に立つ方がいいじゃないですか」
他にも、私の靴や服にはナイフを仕込んでいる。
いや、私だけじゃない。
レイバン家の人間の服や持ち物には、もしもの時に備えて、こういった類の仕掛けがあらかじめ施されている。
「分かった。気持ちはありがたいが……使うような状況にならないことを願おう」
オーウェンが、少し考え込むように指輪を見た。
彼の言葉はもっともだ。
「それで、君の指輪にも同じ物が入っていると」
「いいえ、こっちはまた別でして」
そう言って、私は今度は自分の指輪の縁を軽く押した。
すると、小さく鋭い針が、外側にぴょこんと飛び出した。
「……針?」
私は少し芝居がかった仕草でちっちっと指を振る。
「これはですね――毒針です」
塗られているのは神経性の毒だ。
刺された直後から全身の力が抜け、半日は動けなくなる。
「敵に襲われた時とか、面倒な相手に絡まれた時とか……とにかく、身の危険を感じた場合の保険としてこれを選びました」
自慢げに言ったら、オーウェンが眉間に皺を寄せてため息を吐く。
「……なぜ君は攻撃する前提なんだ」
「攻撃は最大の防御ですから」
指輪に触れて毒針を出すよりも拳を繰り出した方が早いだろうけど、念には念を、というやつだ。
言い切った私に、オーウェンはもう一度ため息を吐いた。
「……くれぐれも無茶はするな」
「善処します」
「相変わらず、君のその返事だけは信用できない」
けれどオーウェンはこれ以上は何も言わず、立ち上がって食器を片付け始める。
こういう何気ない家事を分担するのも、これからの生活なんだろう。
「俺はこれから出勤する。君はどうする?」
「私も出ますよ。レストランに顔を出して、ラリアンたちにお礼を言うのと、オープンに向けての準備。お昼からは……」
そこで、私は不意に現実へ引き戻された。
――そういえば今日の昼、お父様に呼び出されているんだった。
しかも場所は、あの『裁きの間』だ。
思い出した瞬間、ずしんと気分が重くなる。
ああ……どうしよう、行きたくない。
できれば売り上げや新規事業で取り返したいところだけど、それでは私たちレイバン家には罰にならない。
仕事で結果を出すことは義務であり、同時に楽しいことでもあるからだ。
つまり罰とは、私たちが本当に嫌がることを課されるということになる。
体にはまだ疲れも残っているし、頭も完全には冴えていないのもあって、元気よく午前の仕事に取り掛かれる気がしない。
「顔色が悪いが。まだ疲れが取れていないんだろう」
「はぁ、まあ、そう、ですね……」
どんよりとした顔で突っ伏したら、キッチンにいたオーウェンが何かを持ってテーブルへと戻ってきた。
「ブレア」
名前を呼ばれのろのろと顔を上げると、彼は私の前にグラスを置いた。
それは、どろどろした、濁った緑色の液体だった。
見た瞬間、嫌な予感がする。
「……あの、これは?」
「疲れている時にはこれが一番だ」
「この、謎の未確認液体がですか?」
オーウェンは真顔で言った。
「色は悪いが、安心しろ。変なものは使っていない。ハーヴェスト領の野菜を使った野菜ジュースだ」
「野菜……ジュース……」
そう言われれば確かにそう見えなくも……いや、やっぱり見えない。
どう見ても怪しい薬品だ。
「味は保証できないが、体にはいいぞ」
「そこは保証してほしいんですけど」
「すまない。だが嘘は言えない」
真面目なオーウェンが味は保証できないときっぱり言うということは、本当に美味しくないんだろう。
でも、私を心配してのこの行動なのは私も分かっているので、ここで断るのは申し訳ない。
「…………」
数秒ほど葛藤した後、私は意を決してグラスを手に取った。
そして、一口。
「――っ」
まずい。
想像以上にまずい。
野菜の青臭さと苦味が一気に押し寄せてきて、舌が悲鳴を上げる。喉の奥に流し込むだけで、胃がせりあがりそうになる。
「…………」
私は黙ったままグラスを見下ろした。
「どうだ」
「……味については、確かに美味しいとは言えないですね」
「まずいとはっきり言ってくれていいんだぞ。だが、これを飲めば絶対に元気が出る。俺も初めは辛かったが、最近はこれを飲むのが日課になってるほどだ」
そう言うと、彼は自分のグラスを手に取って一気に飲み干した。
あんな想像を絶するまずさだったのに、オーウェンは顔色一つ変えない。
私はもう一度おどろおどろしい液体を見つめる。
……大丈夫、死ぬわけじゃないんだし、これくらい飲み干せなくてどうする。
私は覚悟を決めた。
「……分かりました。騙されたと思って飲みます」
そして残りを一気に体内に流し込んだ。
喉を通るたびに味覚が抗議してくるけれど、何とか耐える。
「ぅぅっ、ごちそう、さまです」
「ああ。よく頑張ったな。大丈夫、そのうちに慣れる」
「慣れたくないです」
そんなやり取りをしているうちに、オーウェンは時計代わりの懐中時計を取り出して時間を確認した。
「もう時間だな。俺はそろそろ行く」
「あ、そうですね、私も支度しないと。それにしても、結婚式の翌日も朝から仕事なんて、オーウェンはよく働きますね」
「お互い様だ」
仕事が好きな私たちらしいと言えばらしい。
それから食器を軽く片付けて、一緒に家を出た。
外はすっかり朝の空気になっている。
別邸の玄関を出て、レイバン家の門をくぐる手前で、私たちは立ち止まった。
ここからは完全に別行動だ。
「では、行ってきます」
「ああ」
オーウェンは頷く。
「君も気をつけて」
「はい。あなたも」
こんな感じで、「行ってきます」と「気をつけて」を交わす朝が、これから増えていくんだろう。
昨日までとは違う日常は、まだ少し不思議な感じはするけど、嫌じゃないのも事実だ。
短い挨拶を交わし、私たちはそれぞれの道へ向かった。
その時ふと、どこからか視線を感じた気がした。
「……?」
振り返っても、足を止めてこちらを見ている者はいない。
ただ人々が道を行き交っているだけだった。
……気のせい、だよね。
私は首を傾げると、門の前で待っていた護衛を連れて、今度こそ目的地へ向かって歩き出した。
――そして、あの激まず野菜ジュースだけど。
オーウェンの言っていた通り、なんと三十分ほど経った頃、本当に体が軽くなっていたのだ。
ハーヴェスト領の野菜の力なのか、オーウェンが何らかの念でも込めているのか。
これ、味さえ何とかできれば、普通に売れるんじゃないだろうか。
……まずは、この地獄みたいな味をどうにかするところからだけど。




