35.計画の破綻(ギルバート視点)
王都西のミリス商会別邸は、普段ほとんど使われていない。
夕暮れの裏庭は人気がなく、取引にはうってつけだった。
ギルバートは腕時計を見やる。
十八時ちょうど――約束の時間だ。
やがて、庭の奥の影がわずかに揺れたかと思うと、黒装束の男が音もなく姿を現した。
顔の下半分を布で覆い、目だけが覗いている。
宵鴉の人間だ。
「確認したぞ。依頼は成功だ!」
「そうか」
「宵鴉の七番目の割にはいい仕事してくれたじゃないか。顔も体も包帯だらけだった。あれじゃあ人前には二度と出られないだろうな」
黒装束の男は短く頷いた。
「これで、指定された、一生消えない傷を負わせるという依頼は完了した。 …… 殺さずにそこまでやるのは骨が折れたがな」
その言葉に、ギルバートは笑いながら首を振る。
「だがああいう女は、死ぬよりも惨めに生きてこそ価値がある。顔に一生ものの傷が残れば、あの女の価値は地に落ちる。仕事も、将来も、何もかも以前のようにはいかないだろう」
自分に恥をかかせた報いとしては、それでもまだ足りないくらいだった。
さっき目にしたブレアの絶望的な表情と、彼女の暗い未来を想像して歪んだ笑い声をあげていたら、ふと宵鴉の声が割り込んだ。
「俺たちの腕に疑いはないだろう。だが、報酬の受け渡し前に一つだけ条件がある」
「あ? 条件だと?」
「前回の料理人の利き腕を折るという依頼…… あれはうちの別の奴が担当したはずだ。 あれよりも今回の仕事の方がよっぽどリスクが高かった。だから、同じ報酬額では納得がいかない」
ギルバートはふんっと鼻で笑う。
「強欲な奴らめ。……だが、俺はお前たちの仕事に非常に満足している。報酬は少し上乗せしてやろう」
実際、ブレアの弱った姿を見て気分がよかった。 清々しいまでの心地よさを感じる。
機嫌よくそう言ったギルバートの言葉に、宵鴉も満足げに頷いた。
「ではありがたくいただこう」
ギルバートは、持っていた革袋を開く。
中には宝石が詰まっているが、懐から純金製の懐中時計を取り出すと、袋の一番上に置く。
「ほら、約束の報酬だ」
そう言って袋を差し出す。
宵鴉が黙ってそれを受け取る。
その瞬間だった。
「動くな」
低く鋭い声が庭に響いたかと思うと、ギルバートと宵鴉はあっという間に包囲されていた。
「な、なんだ!? ここはうちの敷地内だぞ!?」
勝手に入ってくるなんて許せないと声を荒げようとして……そこでギルバートは、彼らの着用している服に目がいく。
それは、中央騎士団を示す深い紺色だった。
「ひっ……」
嫌な予感がした。
ギルバートは緊張と恐怖から、ごくりと喉を鳴らす。
予感を裏付けるように、集団の中から、一人の人間がゆっくりと現れる。
「っ、お、前は」
以前、自分をあっさり拘束した男。
そして、ブレアが自分ではなく選んだ男――第二小隊副隊長、オーウェン・ハーヴェストだった。
剣をまっすぐに携えたオーウェンは、背筋が凍り付いて動けないギルバートの前までやってくると、彼の首元に切っ先を突き付け言った。
「ギルバート・ミリス。宵鴉と接触し、ブレア・レイバン襲撃を依頼した件、並びにラリアン襲撃教唆の罪で拘束する」
オーウェンの冷たい声が裏庭に響く。
ギルバートの背筋を、滝のような汗が流れた。
ありえない。
なぜだ。
なぜ騎士団がここにいる。
もしかして宵鴉が裏切ったのか――。
混乱する頭でそこまで考えた時。
「こんばんは、ギルバート様」
絶対にありえない、聞き慣れた声がした。
そんなまさかと思いながらゆっくりとそちらへ視線を向けると、そこに立っていた人物を見た瞬間、思考が一瞬止まった。
「……な」
言葉が出ない。
なぜなら現れたのは、あのブレア・レイバンだったのだ。
包帯などないどころか、顔にも腕にも傷一つない。
彼女はいつも通りの、いや、いつも以上に隙のない穏やかな微笑みを浮かべて、静かにこちらを見つめていた。
ギルバートの喉が、ひくりと鳴る。
そんなはずがない。
さっきこの目で見た。
治療院のベッドに沈み、包帯だらけで動くこともできないはずだった。
それが今、何事もなかったような顔で、自分を見下ろしている。
宵鴉は確かに仕事を終えたと言ったじゃないかと、そちらに目線を向けると。
「いやぁ、布で顔を覆うのって暑いっすね」
布の下から現れた顔は、ギルバートにも見覚えがある。
第二小隊の騎士で、オーウェンの部下の男だ。
その時、頭の中で何かが繋がった。
治療院。
宵鴉。
この取引。
騎士団。
全部――最初から仕組まれていた。
「き、貴様、最初から……」
ギルバートの声が、怒りで震える。
対してブレアはいつも通り、すました顔でギルバートを見つめる。
言葉はなかった。
だが彼女の表情で全てを察したギルバートの顔が、真っ赤に染まる。
「ふざけるなぁぁっ!!」
怒鳴り声が庭に響いた。
しかし喉が震えた途端、剣の切っ先が喉元に触れ、ギルバートはぴたりと叫ぶのをやめる。
オーウェンの声が静かに落ちる。
「動くなというのが聞こえなかったか」
少なくとも彼にはこちらを殺す意思はない。
だが、逆らえば次の瞬間に喉を裂かれる――そう本能が告げていた。
動くことも叫ぶこともできず、その場にただ立ち尽くすだけのギルバートに、騎士たちが一斉に近づく。
そして背後から腕を取られ、強引に押さえ込まれる。
「離せ!」
剣の先が喉元から離れた隙に、ギルバートがこれでもかと大きな声で叫ぶ。
だが騎士たちは表情一つ変えず、手際よく腕を後ろに回し、拘束具をかける。
拘束具の金属音が、静まり返った庭に乾いて響く。
それは、ギルバートの逃げ場が完全に閉ざされたことを告げる音だった。




