32.捕らえた鴉
夜遅い王都に、石畳を踏む馬車の音が静かな通りに響き、やがてゆっくりと止まった。
御者が扉を開け、私はそこから降りて、軽く伸びをする。
「ありがとうございました」
お礼を言いながら通りを見回す。
街灯はあるけど、間隔が広くて少し暗い。
人通りもほとんどない時間帯だ。
まあ、もうレイバン邸の門の前だから問題はない。
そう思って門をくぐろうとしたところで、ふと足を止めた。
「あ」
そうだった、大事なことを思い出した。
「どうかされましたか、ブレア様?」
御者席から降りてきた男性が声をかけてくる。
彼は御者を兼ねた護衛だ。
「忘れ物を思い出しました。明日の朝一番で必要な書類なんですけど、商会に忘れてきたみたいで」
「分かりました、ではお乗りください」
そう言って彼は今閉めたばかりの扉を開いたけど、私は首を横に振る。
「大丈夫です。商会はすぐそこですし、探し物に少し時間がかかるかもしれませんから」
「ですが、ブレア様の身に何かあったら……」
「心配しすぎです」
勝手知ったる王都だし、この辺の治安はいいから一人でも大丈夫だ。
でも御者はなかなか首を縦に振ってくれない。
「それが私の仕事ですし……」
「だけどあなた、今日は朝早くからずっと馬車を出してくれていたでしょう? あなたも激務で疲れているはずです。これ以上付き合わせたら、帰りがもっと遅くなるじゃないですか」
私は軽く手を振る。
「いいから、今日は先に帰りなさい。しっかり休むのも仕事のうちです」
「ですが……」
「俺がいるんで大丈夫っすよ!」
御者が困惑していると、馬車の中からひょっこりと顔を出した人物がいた。
中央騎士団の制服を着たベイクだ。
最近は私にも、レイバン家の護衛以外に、こうして彼らが護衛についてくれているのだ。
「ブレアさんの用事が終わるまで俺がしっかり護衛するんで、安心して休んでほしいっす!」
ベイクが胸を張って言うと、御者は少しだけ表情を和らげた。
「私もそこそこ強いですし、ベイクもいてくれます。用事が終わったらすぐ帰りますから」
私がダメ押しで説得すると、御者はようやく観念したように息を吐き、深く頭を下げる。
「……かしこまりました。ブレア様、どうかお気をつけて」
彼はもう一度頭を下げると、馬車へ戻った。
遠ざかっていく車輪の音を聞きながら、私はベイクと二人で静かな通りを商会へ向かって歩き出す。
「今日も一日、ありがとうございましたベイクさん。オーウェンが不在の日に、あなたに護衛してもらえて助かりました」
「とんでもないっす! 副隊長からも『俺が会議で戻れない間は、絶対にブレアから目を離すな』ってきつく言われてるんで」
「オーウェンは心配しすぎなんですよ」
「そんだけブレアさんのことが大事なんですって! まあ、俺もたまにはこういう平和な仕事の方が気楽でいいっすけどねー」
街灯の光が石畳に落ちて、二人の靴音と、他愛のない会話だけが小さく響く。
商会はすぐ目の前だ。
路地の角を曲がったその瞬間だった。
――目の前に黒い影が落ちた。
ベイクの目の色が、一瞬で鋭い騎士のものに変わる。
月明かりが照らす中でも、男は黒い布で目元以外を隠しているため顔の判別はできない。
それでも覗く瞳は険しく、彼がただ者ではないことを物語っていた。
「な、なに……っ」
私は少しだけ体を震わせ、一体何なのか分からないといった体で小声でそう呟く。
男は迷いなくナイフを抜いた。
彼は何も言わずに一気にこちらとの距離を詰めると、私を守ろうと前に出たベイクの首元へ、目にもとまらぬ速さで刃を突き出す。
「くっ……!」
ベイクはなんとか剣で防戦したけど、相手の次の一手があまりにも早かった。
ナイフを持った腕の振りに、ベイクの動きが追いつかない。
このままでは、ベイクが一撃で沈められ、私もやられる。
だけど私は一歩も引かず、目をしっかり見開いてその刃の軌道を見つめた。
なぜなら、ここにいるのは『私たちだけ』ではないから。
――キンッ!!
甲高い金属音が夜の路地に響き渡った。
ベイクの首に迫っていたナイフは、空中でピタリと止められていた。
暗闇から飛び出した見慣れた騎士の長剣が、男のナイフを横から凄まじい力で弾き飛ばしたのだ。
男の体勢が大きく崩れる。
その隙を逃さず、剣の主――オーウェンは一歩踏み込み、手首を返した。
鋭い刃をかわし、長剣の腹で男のみぞおちを正確かつ強烈に打ち据える。
「ぐはっ……!」
男が肺の空気を吐き出して後ろにのけぞる。
だけど、オーウェンは逃げる間も与えない。
男が痛みに屈んだ瞬間、剣の峰を後頭部へ素早く振り下ろした。
ゴツッ、と鈍い音がして、男の体は糸が切れたように石畳に崩れ落ちた。
完全なる剣技による、一瞬の制圧。
オーウェンはそのまま男の背中に膝を乗せ、剣先を男の首筋にぴたりと突きつけて完全に拘束した。
「くっ……!」
冷たい石畳に押しつけられ、男はうめき声を上げた。
そして男は、自分を拘束したオーウェンに目を向けると、信じられないものを見るように顔を歪める。
「な、なぜお前がここにいる……! お前は今日、重要な会議のはずだろう!」
それに対して、オーウェンは息切れ一つせず淡々とした声で答える。
「俺の不在時を狙ったようだが、残念だったな。その会議にはガルフ隊長が代わりに参加している。それに、他にも潜んでいるぞ」
オーウェンがそう言うや否や、路地の奥や建物の影などの暗がりから次々と人影が現れた。
「オーウェン副隊長! 周辺確認しました、宵鴉と思われる人物は他に見当たりません。単独犯かと」
「そうか」
数人の騎士が男の拘束を引き継ぐ。
オーウェンはゆっくりと立ち上がり、まずは剣の柄に手をかけたまま固まっていたベイクに声をかけた。
「怪我はないか、ベイク」
「ふ、副隊長……ッ! マジで死ぬかと思ったっす……! あいつヤバすぎじゃないっすか!?」
ベイクが冷や汗を拭いながらへたり込むと、オーウェンは小さく口角を上げた。
「ああ。だがよく初撃を防いだ。上出来だ」
「うぅっ、副隊長〜……!」
情けなく泣きつく部下を一瞥してから、オーウェンは真っ直ぐこちらへ歩いてきた。
「君も、怪我はないか」
「ええ、おかげさまで」
私はこくりと頷くと、悔しそうにこちらを見つめる男に目をやる。
「予定通りですね」
オーウェンの不在時を狙い、彼らは今夜を決行日に選んだ。
だけど、すべてが相手を油断させて誘い込むための『囮作戦』だったのだ。
騎士団に布をはぎとられて顔が露わになった男は、よほど悔しいのか唇をぎりりと噛んでいる。
「名前は」
私の身に何ともないことを確認し、再び男の元に足を向けたオーウェンからの質問に、男は呟くような声で言った。
「……ジーベン」
宵鴉の序列で言うところの『七』。
組織の中でも決して下位じゃない。だからこそベイクの反応速度を上回ったのだろう。
それでもオーウェンは、ほとんど苦もなくこの男を制圧した。
この人なら本当に、アインが二人や三人いても勝てるんじゃない……? と、そんな考えが一瞬頭をよぎる。
そんな私の考えをよそに、淡々と尋問は続けられる。
「依頼主は」
ジーベンはため息を吐いた後、
「喋る代わりに減刑してくれ」
周囲の騎士たちがぴくりと動く。
オーウェンは一瞬だけ男を見下ろし、短く答えた。
「……お前の答え次第だ」




