29.守るべきもの
ラリアンはしばらく何も言わなかった。
ただ、私の手の中の紙をちらりと見て、それから包帯の巻かれた腕を見下ろす。
そして、ふぅっと大きく、ひとつため息をついた。
「ボス」
「……はい」
「誰が辞めるって言った?」
思わぬ返答に、私は思わず彼の顔を見る。
「っ、ですが、このままだとあなたたちの身に危険が及ぶかもしれません。護衛は付けるにしろ、その隙を突かれる可能性だって……」
「いーや、絶対に辞めねえぞ」
ラリアンは私の言葉を遮り、きっぱりと言い切り、包帯の巻かれた腕を軽く揺らしながら笑う。
「俺だけじゃねえ。店の連中にも聞いたがな、みんな同じこと言ってた」
「……え?」
「辞める奴なんて一人もいねえよ。むしろな、『こんな脅しで逃げるような奴なら最初から来てねえ』ってよ」
まるで当たり前のことのようにラリアンに言われて、私は一瞬言葉を失う。
ラリアンは私をまっすぐ見ると、にやりと笑って言った。
「なあ、最初に会った時のこと、覚えてるか?」
もちろん覚えている。
その当時別の場所で働いていたラリアンのことを聞きつけ、私はそこに足を運んだ。
そして、彼の作った料理を食べた時に衝撃を受けたのだ。
だから私は自分の開くレストランへ来てほしいとお願いしたけど、彼は即座に断った。
「最初は、ただにこにこした愛想のいい嬢ちゃんが来たなと思ったもんだ。笑って美味しいって言やぁ俺が落ちるとでも思ってんのかって、ちょっと苛ついたな」
「あの時の迷惑そうなラリアンさんの顔、忘れられません」
彼は私に向かって、
『王城でもそうだったが、面白みのないもんばっか作らされてな。自由はないし、窮屈だったんだ。あんなのはもうごめんだ』
とけんもほろろに断った。
彼が料理長の座を自ら降りたのは、自由度のない職場にうんざりしてというのは話に聞いていたから、驚きはしなかった。
でも、うちの店は違う。
彼のような腕の持ち主に制限をかけるなんて間違っている。
もっと自由で、楽しくて、美味しい、彼らの理想とする料理を私は見たい。
そのワクワクは、きっと食べにくるお客さんにも伝わるから。
そのためにはやっぱり彼が必要だと、私は熱弁をふるった。
何度も何度も店に通って、何度断られても諦めずに口説き続けた。
「ボス、言ってたろう。王都で一番面白いレストランを作るって。いや、この国一番か? とにかくみんなの度肝を抜く店を作るって、目ぇキラキラさせてな。で、提示してきた金額見て、頭おかしいんじゃないかって思った」
「言われましたね、それも」
「けど、ボスは金を積んで言うこと聞かせようとしたんじゃない。俺の腕にそれだけの価値があるって判断しての金額だって言ってくれたろう?」
私は、働く人間の給与を削って出した利益に価値なんてないと思っている。
そんなやり方、長く続くはずがない。
私が欲しいのは、働く人もお客さんも満足した結果として残る利益だ。
「あの金額は今でも正当だと、自信を持って言えます」
私の言葉に、ラリアンは笑った。
「だから俺はここに来るって決めたんだ。あんたのその考え方と熱意に負けてな。他の連中だって同じさ」
「僕もです!」
その時突然、ノックもなく扉が勢いよく開く。
声とともに入ってきたのは、ローリーだった。
「なんで、あなたがここに……」
ローリーはずんずんと病室の中へ入ってくると、私の目の前まで来てぴたりと足を止める。
そして、少しだけ息を整えてから口を開く。
「僕も王都に出るかどうか、ずっと迷っていたんです。でもブレアさんが、『ただ甘くて美味しいお菓子じゃない。食べた人が思わず笑顔になるようなお菓子を作れるのはあなただけだ』って言ってくれて。王都の人たちはまだそれを知らないから、みんなを驚かせようって真剣な顔で」
そしてローリーは弾む声で言った。
「ブレアさんが背中を押してくれなかったら、僕は今ここにいませんでした。だから絶対に、僕も逃げません!」
胸の奥が、じんと熱くなる。
ラリアンも、ローリーも、それに他の人たちも。
みんなが、当たり前のように辞めないって言ってくれる。
危険があると分かっていても、それでもここに残ると言ってくれる。
その事実が、胸の奥を強く打った。
この店を、私と一緒に作ろうと思ってくれていることが、私は何よりも嬉しかった。
何かがこみ上げそうになって、私は思わず目を伏せる。
だけど。
泣くな、私。
今私がすべきことは、彼らの信頼にこたえること。
そのために解決すべきことは一つだ。
私は小さく息を吐くと、ゆっくりと顔を上げる。
そして、みんなのボスとして力強く微笑んだ。
「あなたたちの仕事も未来も、こんなやり方で奪わせるつもりはありません。私が必ず守ります」
私の言葉に、ラリアンとローリーが力強く頷く。
「さて、話はこれくらいにしましょう。ラリアン、あとはゆっくり休んでください。ローリーも、一緒に外へ」
私はローリーの背中を押し、ラリアンに一礼してから、二人でそっと病室の扉を閉めた。
静かな廊下に出た瞬間。
「無事だったか、ブレア」
不意に、廊下の奥から聞き慣れた低い声が響いた。
顔を向けると、見慣れた騎士団の制服を着たオーウェンがこちらへ歩いてくるところだった。
冷静で揺るぎない彼の瞳を見た瞬間、私の中で張り詰めていた糸が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
彼は私の無事を確認するように一度頷くと、挨拶もそこそこに、今の状況を淡々と説明し始める。
「今回の襲撃事件だが、うちの第二小隊が担当となり捜査をしている。犯人はまだ捕まっていないが、証拠を探しているところだ。すまないが少し時間が欲しい」
オーウェンが言うには、人気のない夜道で月明りすらなかったため、犯人は男性という証言しか手掛かりがないらしい。
「後は、ラリアンだけでなく、他の料理人たちにはレイバン家の手配した護衛の他に、うちの隊員も人員を出している。彼らの自宅やレストラン周辺も見張らせている」
護衛を手配してくれたのは、多分リアン叔父様だろう。
それは分かるけど。
「中央騎士団まで動かしてくれたんですか……」
「今回の件は明らかに悪質だ。放置するわけにはいかない。暗闇で目もきかない中、大柄なラリアン氏を一度で引き倒し、正確に綺麗に骨を折っている。相手は素人じゃない。そういうことに長けている人間の犯行だろう」
私も、さすがにギルバートが自分で実行したとは思っていないけど……。
オーウェンの言い方に、もしかして彼は実行犯の目星がついているんじゃないかという疑問を抱く。
だけどそれは後で確認すればいい。
とりあえずみんなの無事が確保できているみたいで、ほっと息を吐く。
と、ふとオーウェンの背後に立つもう一つの人影に気付いた。
白地に金刺繍の施された制服を着た人物――近衛騎士のヒューゴ様だ。
なぜ、近衛の彼がここに?
王族の護衛が主な任務のはずなのに。
私が首を傾げていると、視線に気付いたローリーが少し困ったように笑った。
「ああ、ええとですね、実は、その……リーリア王女殿下が、僕が襲われるかもしれないって話を、どこからかお聞きになったらしくて」
言われてみれば、あの近衛は、オーウェンの友人であるヒューゴ様だった。
ローリーは苦笑しながら続けた。
「それで、すぐにご自分の護衛をしている近衛の方に、僕の護衛を命じたんです」
その時の彼女の台詞は、
『彼はこの私の口を満足させる一流のパティシエですのよ! 彼が失われたら今度誰が私のお菓子を作りますの!?』
だったそうな。
――ああ、さすがだ。
まったくもってリーリア王女らしい。
あまりにも潔い理由に、さっきまで病室で瞳から零れそうだった滴はすっかり引っ込み、思わず苦笑いがこみ上げる。
「近衛騎士団の方々には本当に申し訳ないんですけど……」
ローリーが体を縮こまらせて小声で呟いたら、ヒューゴ様が小さく笑った。
「お気になさらず。王女殿下のご命令は絶対ですから」
「で、でも……」
「殿下が『絶対に守りなさい』と三回も仰いましたからね」
ヒューゴ様の返しに、ローリーは少しだけ照れたように笑う。
口元は、どこか嬉しそうにも見えた。
その姿が、以前彼の店でリーリア王女のために作ったマカロンを見つめている時の彼と重なった。
これってやっぱり……そういうことだったりするのかな。
そう考えていたら、オーウェンと目が合う。
どうも思っていることは同じようだった。
だけど、今はそのことを議論している場合じゃない。
オーウェンは私たちを見回すと、小さく息を吐いた。
「ローリー氏の護衛は近衛に任せるとして、俺たちは俺たちのやるべきことを進めよう」
そして私に顔を向けたオーウェンは、短く続ける。
「今から少し話せるか」
「はい、もちろんです」
おそらく今後のことについてだろう。
もう、みんなを守ると決めた。
だから私は迷わず頷き、オーウェンとともに歩き出した。




