26.逆恨みの刃(ギルバート視点)
ミリス商会の執務室には、重い沈黙が落ちていた。
机の向こうで帳簿を閉じた男――ミリス商会長のローガンは、深く息を吐く。
「結論から言う。これ以上レイバン商会には……いや、ブレア・レイバンにはちょっかいをかけるな」
向かいの椅子に座っていたギルバートは、思わず顔をしかめた。
「は? 父上、本気で言ってるんですか!?」
ブレアは自分に恥をかかせた女だ。
ギルバートの個人的な恨みは深い。
のみならず、ローガンにも商会としての恨みはあるはずだ。
例えば王都の一等地の入札。
あれは本来、ミリス商会が取るはずの案件だった。
それを横からさらっていったのが、レイバン商会。
しかも責任者は、レイバンの商会長でも次期当主でもなく、ブレア・レイバンだった。
「父上だって悔しいって言ってたじゃないですか! だからブレアの事業に横槍だって入れて」
ローガンはすでに数回、ブレアにしてやられていた。
工事資材は入札前から年間契約で押さえられ、入札工作も、担当者が想定外に潔白だったせいで失敗。
さらに料理人の引き抜きにも敗れた。
つまりブレアは、最初から正攻法で勝つ準備を整えていたのだ。
「儂は先の一件で、ブレアには手を出しても勝ち目はないと踏んだんだ。小娘一人を相手にしているつもりでいたら、下手をすればレイバン商会ごと敵に回すことになる。そんな真似をして、このミリス商会が無事で済むと思うな」
「くそっ!」
ギルバートは苛立つ気持ちを隠しもせず、目の前のテーブルを蹴る。
彼がここまで憤る理由は、ミリスがレイバンに勝てなかったから……それだけではない。
自分を振って、社交界で笑いものにし、彼の自尊心を著しく傷つけた。
ミリス商会の息子が、勝手に妄想していただけだと。
まるで滑稽な男のように言われ、彼は周囲から笑いものにされたのだ。
その事実が、ギルバートにはどうしても受け入れられなかった。
「あの女に好き勝手されたままで終われるか! こんなところで、引けるわけがない!」
ギルバートは椅子を蹴るように立ち上がった。
だがその音をかき消すほどに、ローガンは強く机を叩くと、ギルバートを一蹴する。
「お前はこれ以上余計なことをするなっ! 大体――」
ローガンは机を叩いた手をそのまま指差すように突きつけた。
「誰があの暴行騒ぎの尻拭いをしたと思っている!」
ギルバートの肩がびくりと震える。
「騎士団の上層部に金を積み、事を大きくしないように手を回したのは誰だ。しかも、お前、あのレストランの裏でボヤ騒ぎも起こしたろう!」
「っ、な、なんで、それを父上が知って」
「ブレアが儂に言ったんだ! 証拠もあると暗に匂わせてもきよった。お前のせいで、儂はわざわざブレアに頭を下げに行く羽目になったんだぞ」
ローガンは怒りで赤くなった顔で、吐き捨てるように叫ぶ。
「分かるか、小娘に頭を下げるしかなかった儂の気持ちが!」
ギルバートは何も言い返せない。
その間にローガンはさらに畳みかけた。
「ただでさえ、お前が婚約だの婚約破棄だのとありもしないことを騒ぎ立てたせいで、ミリス商会は社交界で笑い者になりかけている。それなのにまだ騒ぎを起こすつもりか」
ローガンは息を荒くしながらも、低く言い放つ。
「儂が許せるのは、せいぜい商売の駆け引きまでだ。足を引っ張るにしても、証拠を残さず、こちらに火の粉が降りかからん範囲でやれ。暴力も、放火まがいも、騎士団にまで尻拭いをさせる不始末も、そんなものは商人のやることではない」
そして忌々しげに舌打ちしたローガンは、ゆっくりと、低い声で言い放った。
「これ以上、このミリスと儂の顔に泥を塗るな」
ギルバートは歯を食いしばる。
そんな息子を、ローガンは冷たい目で見つめる。
「正直言って、お前が当主として無能なのは分かっている」
「っ、父上、俺は」
「黙れ! 儂は事実を言ったまでだ。が、亡き妻の忘れ形見であるお前には息子としての情はある。だからこそ、当主として恥をかかないように、優秀な嫁を取らせてやろうと考えていた。だがこれ以上余計なことをしたら――いくら儂でも庇いきれん」
「そんな、父上っ!」
ギルバートが半ば泣き出しそうな顔になるが、ローガンは最後に淡々と告げた。
「いいか。これが最後の温情だ。これ以上何もするな。もし何か事を起こしたら、その時は、お前をミリスから追い出す」
ギルバートの顔から血の気が引く。
しかしローガンはそれ以上何も言わず、椅子を引いた。
「……話は終わりだ」
そして息子を一瞥すると、そのまま執務室を出ていった。
重い扉が閉まる音が響く。
部屋に残されたギルバートは、しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがてゆっくりと拳を握りしめる。
「……くそ」
ギルバートは怒りのあまり、何度もテーブルを蹴る。
父の言葉は、彼の頭の中からとうに掻き消えていた。
今、彼の頭の中に浮かぶのは、ただ一人。
ブレア・レイバン。あの澄ました顔。
自分を見下したような目。
そもそもあの女が自分との婚約を受け入れてくれていれば、何も問題はなかった。
あのレストランの案件も、ブレアとの共同事業となり、ゆくゆくはミリス商会のものになったはずだ。
それに、自分はこれでも、彼女のことを気に入っていたのだ。
レイバン商会という血筋は問題ないし、見た目も悪くない。
連れ歩くのには少し華がないのは難点だが、自身の美貌を引き立てるのはこれ以上ない人間だった。
それなのに、よりにもよって、愛想のかけらもない騎士の男などを選び、蕩けるような顔で街を歩いていたとは!
二人が王都をデートしていたという噂を思い出した途端、喉の奥が焼けるように熱くなり、奥歯がぎりりと鳴った。
――あの女が自分にすがりついてくることはない。
ローガンにここまで釘を刺された以上、力ずくで妻にすることも不可能だ。
自分という完璧な男の価値を理解できず、あんな騎士を選び、笑い者にした愚かな女。
「……だったら、徹底的に壊してやる」
自分のモノにならないなら、すべてを失って泣き叫ぶ顔を見てやる。
恥をかかせたことを、心の底から後悔させてやるのだ。
だが、これまでと同じ手を使うことはできないと分かっていた。
まさかあそこまでローガンが激昂するとは、さすがに予想外だった。
もう、後がない。
しかし――露見さえしなければ問題ない。
しかもブレアの事業が失敗すれば、ローガンもギルバートのことを見直さざるをえないはずだ。
なにせあのローガンが敵わなかった相手なのだ。
ブレア本人には攻撃を加えることは難しい。
レストランの方も警備が強化されていて近づくのは危険だ。
そこでふと、天啓のようにひらめく。
なら、料理人はどうだろう。
あの店は、料理長のラリアンを主軸としており、それ以外のシェフたちも凄腕揃い。
代わりを探すことは難しいはずだ。
ギルバートの口元が、ゆっくりと歪む。
怒りで濁っていた瞳に、別の光が宿る。
それはもはや理性の色ではなく、暗く沈んだ執念のようなものだった。
さすがにローガンの目が光っている今、軽率に動けばすぐに露見するだろう。
きっと商会の者たちにも、自分を監視するよう言いつけているはずだ。
ならば、今は動かない。
ローガンに従うわけではない。
ただ、勝つために待つだけだ。
ギルバートは深く息を吐き、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
急ぐ必要はない。
結婚式も、レストランの開店も、まだ少し先だ。
その直前で、すべてを台無しにしてやればいい。
幸いギルバートには、表立っては頼めない類の仕事を引き受ける連中への伝手がある。
料理人が消えれば、店も結婚式も崩れ――世間のブレアの評価は一気に落ちる。
その瞬間、ブレアはどんな顔をするだろう。
そう思うだけで、ギルバートの口元には暗い笑みが滲んだ。




