17.騎士団という場所(オーウェン視点)
第二小隊の詰所へ戻ると、壁際の机では騎士たちが報告書を書き、あるいは装備の点検をしていた。
「オーウェン副隊長、おかえりなさいっ!」
入口をくぐった途端、やけに明るい声が飛んできた。
嫌な予感しかしない。
視線を向けるより早く、数人の団員がこちらへ集まってきた。
報告書を持ったままの者、装備を外しかけの者、明らかに仕事の手を止めている者までいる。
「……何だ」
短く問うと、先頭にいたベイクがにやりと笑った。
「いやぁ、副隊長。ちょっと確認したいことがあるんすけど」
「業務以外の内容なら後にしろ」
「だけど俺たち、これ聞いとかないと気になって仕事に手が付かないんすよ!」
そしてオーウェンが何か言う前に、素早くベイクが口を開いた。
「レイバン家のブレア嬢と恋仲って話、やっぱり本当なんすよね!?」
その言葉で、周囲の空気が一斉にざわついた。
オーウェンは無言でベイクを見る。
だが彼らの反応を見るに、否定しても無駄だと理解していた。
ついさっき、そう見えるように彼らの前で演じてみせたばかりなのだ。
ましてリーリア王女が話を広めた時点で、騎士団に噂が届かないはずがない。
オーウェンは観念した表情になりながらも、はっきりと宣言した。
「そうだ。それに、彼女とは近々結婚する予定もある」
瞬間、部屋の中に、想像以上のどよめきが広がっていく。
「巡回中に何度か見かけましたけど、レイバン商会の看板娘って感じで普通に人気ありますよ!」
「笑顔で話しかけられた新人、みんな勘違いしかけたって言ってましたし」
「俺も副隊長に頼まれた伝言の件で話しましたけど、普通に可愛かったっす!」
ブレアは、リーリア王女のような派手な美貌というわけではない。
だが、あの水色の瞳はよく動き、笑えば場の空気がふっと緩み、気づけば視線を向けてしまう。
本人なりの処世術なのだとしても、それだけでは片づけられない何かが、ブレアにはあった。
だから以前、本人に可愛いと伝えたのは、オーウェンの偽りない本心である。
「いやしかし、副隊長がなぁ……」
「妙に押しが強い人ばっかに迫られて、女性苦手だったのに」
「人生分からんもんっすよねー」
「話はもう済んだろう。早く仕事に戻れ」
低く言うと、団員たちは「はーい」と気の抜けた返事をしながら散っていく。
だが誰も不満そうではない。
むしろ、どこか楽しげだった。
その空気を背中で感じながら、オーウェンは自分の机へ向かった。
――その時だった。
入口付近で、伝令役の若い騎士が一枚の書類を差し出すのが視界の端に入る。
受け取ったのはベイクだった。
「……あー、そう来るんすね」
内容を確認した瞬間、先ほどまでにやりと笑っていた彼の表情が露骨に歪む。
苦虫を噛み潰したような顔のまま、ベイクは一直線にオーウェンの元へ歩いてきた。
「副隊長、これを」
差し出された書類を受け取りながら、オーウェンは視線を落とす。
「もう解放されたのか」
やはりそうなったか、と思う。
ギルバート・ミリスは確かに現行犯だった。
ましてオーウェン自身がこの目でその現場を見て、取り押さえたのだ。
だが相手は、王都でも有数の大商会ミリスの嫡男だ。
仮にボヤの件で引っ張ってきたとしても、罪状は調整され、結局は同じような結末になっていただろう――そんな事例を、これまで何度も見てきた。
しかし詰所に充満する空気は、怒りというより、諦めに近かった。
同じ部屋のあちこちから、小さな不満が漏れる。
「また金かよ……」
「どうせ上層部だろ」
「真面目にやるのが馬鹿らしくなるな」
書類を書いていた者も、装備を整えていた者も、手を止めずにぼやく。
声は荒くない。
みなこの状況に慣れているのだ。
それが、この国の現実だった。
指先に力が入り、持っていた書類の端がわずかに折れる。
だがすぐにその力を抜くと、オーウェンは報告書を閉じ、静かに机へ置いた。
現場の騎士がどれだけ動こうと、構造そのものが変わらなければ結果は同じになる。
だからこそ、上へ行く必要がある。
現場で剣を振るうだけでは、何も変えられない。
その思考を遮るように、低い声が背後からかかった。
「納得いかない面をしているな」
振り返ると、入口付近に、腕を組んだ男が立っていた。
「ガルフ隊長」
ガルフはこの第二小隊を率いる小隊長で、オーウェンの直属の上司だ。
大柄な体を入口に立たせるだけで場の空気が締まり、周囲の騎士たちが自然と姿勢を正す。
オーウェンはわずかに苦い表情を浮かべる。
「顔に出ていましたか」
「お前は俺の部下だぞ。それくらい分かる」
ガルフはそう言うと踵を返した。
「報告書、持って来い」
奥の執務室へ向かう背を、オーウェンは書類束を手に追う。
扉が閉まると、詰所の喧騒が遠のいた。
机の上へ報告書を置いたところで、ガルフが口を開く。
「釈放は想定外だったわけじゃないだろう」
「はい」
短く答えると、ガルフは机の上の報告書へ視線を落とした。
「だがな。普通の奴なら、ここで愚痴の一つもこぼす。あるいは諦めた顔をするもんだ」
確かに先ほど詰め所にいた騎士たちはみな、そういう反応を見せていた。
けれど先ほどオーウェンはそのどちらも見せなかった。
彼の心にあったのは……。
オーウェンが何か言う前に、ガルフが先に答えを告げた。
「お前は違う。納得していない顔はしていたが、諦めもしていなかった。……あれは、考えていた顔だ。その先をな」
ここでガルフは顔を上げてオーウェンに視線を向けると、ズバリと切り込んだ。
「変える気なんだろう。この構造を」
オーウェンは思わず息を止めた。
その言葉を、自分から公言したことはない。
つい先日、ブレアに話したのが初めてだったはずだ。
「なぜ、そう思われますか」
オーウェンの言葉に、ガルフは鼻で小さく笑った。
「騎士団本部に顔を出す回数が増えた。後は、中央騎士団の副団長や、人事局の連中にも水面下で接触しているだろう。もっとも、普通の奴なら気にも留めんさ。仕事熱心な副隊長が顔を売っている――その程度にしか見えないだろう」
ガルフは鋭い目線をオーウェンに向ける。
「だが俺はお前を長く見てきた。お前は目的もなく動く男じゃない」
つまり勘ではなく、積み重ねた観察の結果だった。
「……隊長には適いませんね」
そこまで言われては、否定する理由はなかった。
ガルフは小さく息を吐き、腕を組み直した。
「なに、大したことじゃない。隊長ってのはな、部下が何を考えて動いているかを見るのも仕事のうちだ。だから見てれば分かるってだけでな」
ここでガルフはわずかに視線を細め、期待を込めたような声音で言った。
「しかし、お前なら、辿り着けるかもしれんな。俺なんかよりもよっぽど強いんだ」
予想外の言葉に、オーウェンはわずかに眉を寄せる。
「全騎士団の中でも随一の使い手である隊長には、俺もまだまだ及びませんが」
「剣の腕ではな。だが俺が言いたいのはそういうことじゃあない。お前には意志の強さがあるって言いたかったんだよ。俺には達成できなかった、上へ行きたいという何よりも強い意志がな」
突然の告白に、オーウェンは驚いて目を見開く。
「隊長も目指したことがあるんですか」
「ああそうだ。昔の話だがな。だが真正面からぶつかることしか知らなかった。敵は敵だと決めつけてな。……結果は見ての通りだ」
そういえば、以前に聞いたことがある。
ガルフはかつて中央騎士団長候補にまで名を挙げられながら、上層部との対立でその道を絶たれた男だと。
それでも、現場に残った彼を慕う騎士は多い。
オーウェンにとっても、その背を追える今は誇りだった。
だが、いつかは――。
「いずれ、俺はあなたの背を越えます。そして必ず、辿り着いてみせます」
その瞬間、ガルフは目を細めた。
ほんの一瞬だけ、驚いたような沈黙が落ちる。
やがて、彼は口角をにやりと上げる。
「……でかい口を叩くようになったじゃねぇか」
だがその声音に咎める色はなく、どこか誇らしげですらあった。
「いいだろう。だったら最後まで貫け。途中で折れるくらいなら、最初から目指すな」
そう言うと、ガルフは軽く拳でオーウェンの肩を叩いた。
「期待してるぞ、現副隊長」
そして、不意に口調を変える。
「そういや、レイバン家との繋がりも、その一環なのか?」
「違います」
尋ねられた質問に、オーウェンは即答だった。
ガルフの片眉がわずかに上がる。
「つまり本当にブレア嬢を愛しているからと?」
問いは半ば冗談めいていたが、オーウェンはすぐには答えなかった。
馬鹿正直に言うならば、自分がブレアと結婚に向けて動き出した理由は別にある。
余計な縁談や干渉を断ち、仕事に集中するため――それが始まりだった。
今も表向きは、溺愛する恋人を演じているに過ぎない。
そこに恋愛感情があるのかと問われれば、答えは分からない。
だが、迷いなく断言できることが、一つだけあった。
「仮に彼女がレイバン家の人間でなかったとしても。俺は、ブレアを選んでいました」
言葉にしてから、自分でも不思議なほど自然だと思った。
損得でも、立場でもなく、ただ、それが当然の選択のように思えたのだ。
オーウェンが答えてから数秒の沈黙の後、ガルフが低く笑った。
「やっぱりお前は、面白い男だな。だから俺は、お前が好きなんだ」
どこか満足そうにそう言うと、ガルフは踵を返し、ぽん、と軽くオーウェンの肩を叩く。
「さて、俺はこれから隊長共と楽しくない会議だ。俺が戻るまで、団員への指示は任せる」
それだけ言うと、振り返りもせずガルフは執務室を出ていった。
閉じた扉の向こうへ消える背中を、オーウェンはしばらく黙って見つめていたが、最後に敬意を示すように静かに一礼して見送った。




