34.二人の自覚(オーウェン視点)
扉が閉まると、さっきまで賑やかだった室内が急に静かになる。
「……本当に何でもやらされているんだな」
「やー、マジで容赦ねぇんだよ。手紙運ばされるわ、茶淹れさせられるわ、執事の格好させられるわ……。八歳児にここまでこき使われるとは思ってなかったぞ」
「それでも断らないんだな」
「そこはまあ、俺が悪かったんだし、仕方ないだろ」
アインはそう言いながら、自分で淹れた紅茶を一口飲み、テーブルに並べられていた焼き菓子へ手を伸ばす。
五枚の花びらを模した薄いクッキーの中央に、飴がけした胡桃が一粒乗っている。
特徴的な形をしているので、どこの物なのかは一目で分かった。
「お前もそれが好きなのか?」
オーウェンが尋ねると、アインは自分が手にした菓子を見下ろしてにやりと笑う。
「まあな。ローリーの店の菓子は何食っても美味いけど、最近はこれに一番はまってるな」
「奇遇だな。俺もだ」
「へえ」
オーウェンの答えに、意外そうに赤い目が細められる。
「まさか好みが被るとはな」
そう言いながらクッキーを一口かじったアインは、何かを思いついたらしく、ふとこちらを見る。
「なあ。じゃあさ、あんたとブレアってシャレン食堂によく行くんだろ?」
「ああ」
「何が一番好きだ?」
「急になんだ」
「せっかくだし、せーので言ってみようぜ」
「……なぜそんなことをする必要がある」
「いいだろ別に。ほら、せーの」
随分とくだらないことを言い出すものだと思ったが、ここで頑なに拒むほどのことでもない。
「「鶏南蛮」」
声が綺麗に重なった。
「…………」
「…………」
互いに黙って顔を見る。
先に吹き出したのはアインだった。
「ははっ、マジかよ。そこまで一緒か」
「……俺も驚いた」
「あそこの鶏南蛮、美味いよな。衣にタレが染みてんのに、ちゃんと端がさくっとしてるのがいい」
「分かる。あと、上に乗っている卵のソースも重すぎない」
「そうそう。あれ多すぎると途中で飽きるんだよな」
「付け合わせの酸味のある野菜と一緒に食べるとちょうどいい」
「あんた、分かってんなぁ」
気づけば、かなり話が続いていた。
考えてみれば、アインとこうして二人だけで話すのはほとんど初めてに近い。
アインはブレアの護衛なので顔を合わせる機会自体は多い。
けれど、そこには大抵ブレアがいたし、これまではわざわざ二人きりで話す理由もなかった。
最初の頃は、元宵鴉という経歴もあって警戒することの方が多かった。
今でも完全に理解できる相手ではない。
けれどこうして普通に話してみれば、会話には困らなかった。
少なくとも、食べ物の好みに関しては、思っていた以上に近いらしい。
やがてアインが自分のカップを空にし、自分の分を注いだあと、オーウェンのカップが空になりかけていることにも気づく。
「あんたもいるか?」
「頼む」
注がれた紅茶から、また柔らかな香りが立ち上る。
その向こうで何事もなかったように自分のカップへ口をつけるアインを見ながら、オーウェンの脳裏に、ふと玄関先での出来事が蘇った。
ブレアと自分を見比べたあと、ほんの一瞬だけ止まった笑み。
そして、その直後にアインが小さくこぼした言葉。
あの時はブレアがすぐ近くにいたため、問いただすことはしなかった。
だが今は、ちょうど二人きりだ。
そのまま何となく黙り込み、しばらく静かな時間が流れる。
オーウェンは紅茶を一口飲んだあと、カップをゆっくりと置いた。
「……アイン」
「んー?」
「さっき、ブレアと玄関にいた時のことなんだが」
アインが紅茶を飲みながら、こちらを見る。
「あの時、何か言っていたな」
一瞬だけ間があった。
けれど次の瞬間には、アインは何でもないことのようにからりと笑った。
「あんたには聞こえてたのか」
「ああ」
やはり聞き間違いではなかったらしい。
――『妬けるな』と。
あの時、アインは確かにそう口にしていた。
単に、自分たちが以前より親しくなったことを羨ましく思っただけなのかもしれない。
けれど、あの言葉を口にした直後、アイン自身が一番驚いたような顔をしていたことが、どうにも引っかかっていた。
「あれは、どういう意味だ?」
「別に。言葉のまんまだろ」
否定するでもなく、あまりにもあっさりと返されて、オーウェンは言葉を失った。
以前から、アインがブレアへ向ける視線には、単なる雇い主への忠誠だけでは説明できないものがあるように感じていた。
それでも確信があったわけではない。
だが今の返答で、その疑いが急に輪郭を持った気がした。
胸の奥に、鈍く重いものが落ちる。
「……つまり、お前はブレアのことを」
そこまで言ったところで、言葉が止まった。
その先に続くものは分かっている。
なのに、なぜか自分の口からはっきり言いたくなかった。
そんなオーウェンを見て、アインは察したように口元を緩めた。
「まあ、そういうことなんじゃねぇの?」
「……ずいぶん曖昧だな」
「俺だって、さっき気づいたばっかなんだよ。あんたら見てたら何となく口から出て、言ってから自分でも『ああ、なるほど』ってなっただけ」
「さっき?」
「そ。だからまだ、自分でもそこまで整理できてねぇよ」
そう言うわりに、アインは妙に落ち着いていた。
少なくとも、自分の中に芽生えた感情を否定するつもりはないらしい。
しばらくオーウェンの顔を眺めていたアインだったが、ふっと表情を緩めた。
「けど安心しろよ。あんたらの邪魔する気はねぇから」
「邪魔?」
「世間にもレイバン家にも、仲のいい夫婦だって見せなきゃならねぇんだろ? 仕事に専念するために結婚して、変に疑われないよう仲良く振る舞ってる。それくらいは俺も分かってる。だから俺が余計なこと言って、その関係ぶっ壊す気はねぇってこと」
契約のために仲良く振る舞っている。
少なくとも、最初はそうだった。
それなのに――今の二人の関係まで全部そうかと聞かれると、少し違う気がした。
「……今は」
「あ?」
「今は、全部が演技というわけじゃない」
思わず出た言葉に、オーウェン自身が驚く。
けれど、撤回する気にはならなかった。
ブレアと街を歩き、温泉へ入り、同じものを食べた。
最後は荷物を奪い合って、それすら楽しかった。
あの時間まで演技だったとは思えない。
「へえ。じゃあ、もうあんたにとっても、ただの契約ってわけじゃないんだな」
「……何が言いたい」
「別に? あんたがそう思ってるなら、それでいいんじゃねぇの」
勝手に納得したような顔をされて、オーウェンはわずかに眉を寄せた。
するとアインが、ふと目を細める。
「けど、俺がブレアをどう思ってるか分かった途端、あんたちょっと機嫌悪くなったよな」
「……そんなつもりはない」
「さっきから顔が怖いぞー」
からかうように言われ、オーウェンは反射的に否定しかけた。
けれど、言葉が続かなかった。
アインがブレアにどんな感情を持っていようと、それは本人の自由だ。
そんなことは分かっている。
それでも――。
「お前がどう思おうと、俺が口を出すことじゃないのは分かっている。だが……気分がいいかと聞かれれば、よくはないな」
一瞬、アインがきょとんとした顔をしたが、すぐに堪えきれなかったように吹き出す。
「ははっ。あんた、そういうこと普通に言うんだな」
「悪いか」
「いや、いつも真面目だから、そういうのまで全部『理屈としては問題ない』で片づけるのかと思ってただけだ。けどまあ、考えてみりゃ、俺をブレアの護衛にする時もそうだったか。頭じゃ分かってても、気に入らねぇもんは気に入らねぇんだよな、あんた」
オーウェンが少し睨むように見ると、アインは楽しそうな笑みを浮かべたまま、残っていた菓子をもう一つ口へ放り込んだ。
腹立たしいが、かといって本気で腹を立てる気にもならない。
アインはそのまま菓子を咀嚼し、紅茶で流し込んでから、今度はまっすぐオーウェンを見る。
「で、俺のことばっか聞いてるけどさ。――あんたはどうなんだよ」
「……何がだ」
「分かってんだろ。結局ブレアのこと、どう思ってんの?」
あまりにも直球すぎる問いかけだった。
その意味は考えるまでもない。
ブレアと一緒にいると楽しくて、もっと一緒にいたいと思う。
以前より距離が近くなったことが嬉しかった。
そして今、アインが彼女へ特別な感情を抱いていると知って、面白くないと思っている。
これまでだって、何も感じていなかったわけではない。
危険な目に遭えば心配した。
野心を捨てることも、ブレアを手放すこともできないと、自分で認めたことさえある。
それでも、一つ一つには理由をつけられた。
昔からの友人なのだから心配するのは当然だし、そばにいてほしいと思うのも、おかしなことではない。
そうやって別々の感情として考えてきたが、本当は全部、同じところから生まれていたのかもしれない。
答えは、もう目の前にある気がした。
けれど、それを明確に言葉にしてしまうことだけが、どうしてもできない。
――ブレアは、自分と同じ感情を抱いてはいないと、そう思っているから。
「俺は……」
その時だった。
勢いよく扉が開く。
「書けた!」
一通の手紙を握りしめたモナが、満面の笑みで部屋へ戻ってきた。
「アイン、今度はこれ届けてきて!」
「……お前、本当に俺を何だと思ってんだ?」
「頼りになるカッコいいお兄さん!」
「こういう時だけ都合のいい言い方しやがって」
さっきまでの話などなかったかのように、アインがいつもの調子へ戻っていく。
オーウェンもそれ以上は何も言わなかった。
けれど、答えられなかった問いだけが、そのまま喉の奥に張りついて残り続けていた。




