30.出立の日
マルリック最終日の朝は、いつもより少しだけ早く目が覚めた。
荷物をまとめながら、私はこのマルリックで過ごした日々のことを思い出していた。
バリエスのための視察だったはずなのに、気づけばマルリックの観光事業の立て直しまで正式に引き受けることになっていた。
この地に新しく富裕層向けの宿屋を立ち上げるっていうのも、夢物語ではなく実際に動かす予定の計画だ。
既にあの貸切温泉宿の隣の空き地の情報も手に入れている。
あと、リアン叔父様には食堂の件も相談しないと。
帰った後にやることは、山ほどある。
まあ、気になるものを見つければ、つい商売に絡められないかと考えてしまうのはいつものことだ。
ただ、いつもと違うことがあるとすればそれは――。
ちょうどその時、部屋の扉が開いて、朝風呂へ行っていたオーウェンが戻ってきた。
頬がほんの少し赤く、普段よりも表情が緩んでいるところを見ると、最後の温泉を十分に堪能できたらしい。
「楽しかったですか?」
私が尋ねると、オーウェンは分かりやすく相貌を崩した。
「ああ、誘ってもらえてよかった」
「私の方こそ、あなたと一緒でよかったです」
「そうか」
短い返事だったけど、その声はどこか嬉しそうだった。
そんなオーウェンを見ながら思う。
これまでにも、仕事で色々な土地へ足を運んできた。
知らない商品を見つけたり、その土地でしかできない商売を考えたりするのが好きだから、大抵の視察は楽しい。
だけど今回は、それだけじゃなかった気がする。
今まであまり考えたことはなかったけど、今回の視察がこれまでのどれよりも充実して楽しかったのは、オーウェンが一緒だったことも大きいんだろう。
それも、仕事が捗ったとか、護衛がいて助かったとか、そういう意味だけじゃなくて。
もしかして私は、オーウェンと一緒にいること自体を――。
ふと、目の前のオーウェンを見る。
視線が合った瞬間、なぜか胸の奥がどくんと大きく鳴った。
「?」
オーウェンが不思議そうにこちらを見る。
私はその顔を見つめながら、頭の中に浮かびかけた何かを辿る。
けれど、それがうまく言葉になるより先に、別の考えが浮かんだ。
……そうか、旅って、どこへ行くかだけではなく、誰と過ごすかでも楽しさが変わるようだ。
だったらバリエスでも、ただ闇雲に設備を増やすだけではなくて、一緒に来た人との時間そのものを楽しめる仕掛けを作ればいい。
なるほど、これは使える。
これはオーウェンと一緒に来たからこそ気づけたことだ。
それにしても旅行そのものを楽しめた上に、新しい商売の視点まで得られるなんて、一石二鳥である。
思わず笑ってしまった私を見て、オーウェンが首を傾げる。
「ブレア?」
「なんでもありません」
そう答えて首を振ると、私は再び荷物をまとめ始めた。
その後、オーウェンと二人で町外れの工房へ向かった。
二件目の宿屋にあった、不眠気味のオーウェンを救ったあの枕の工房だ。
中にいたのは職人気質な男性で、最初は少し取っつきにくい雰囲気があった。
だけど旅の間ずっと不眠に悩んでいたオーウェンをしっかり眠りにつかせるほどだったとその素晴らしさを語り始めたら、みるみる目の色が変わった。
オーウェンにも一言添えてもらったら、少し戸惑いながらも彼なりの言葉で枕の良さを伝えてくれた。
彼の尽力もあり、バリエスの湖畔施設と、今後マルリックに開業を予定している宿への納品という商談をあっさりと取り付けることもできた。
もちろんオーウェンのために、彼のまくらも購入した。
それから、せっかくなのでと私の分も一つ。
「はい、オーウェン。これ使ってくださいね」
「……ありがとう」
なぜか彼は微妙な顔をしていたけれど、受け取ってはくれた。
これでオーウェンは、帰りも不眠に悩まされることはないはずだ。
帰りは馬車の予定だったので、荷物をまとめて中へと積み込んだ。
オーウェンと私の枕、アインへお土産、お兄様とアインの温泉まんじゅう、その他諸々とアインから頼まれていたもの――気づけば馬車の中は、ある特定の人物へのお土産で埋め尽くされていた。
「……よくもこれだけ」
馬車の荷物を見つめ、オーウェンが呆れたように呟く。
「アインのリストが多かったので」
最後に気になるお店を数軒回った後、マルリックの入り口に待たせていた馬車に戻ると、そこにはガーネット様とトールが見送りに来てくれていた。
けれど昨日一緒に鍛錬をしていたもう一人の姿がないことに気づき、私は辺りを見回す。
「あれ、エルマーさんは今日はいないんですか?」
尋ねると、トールは重いため息を吐きながら答えた。
「はい。……今日も外せない用事があるらしくて」
「今日も?」
「たまにあるんですよ。非番の日になると、一人でどこかへ出かけていくことが。行き先を聞いても絶対に教えてくれないんです」
トールはそこで、少しだけ声を潜めた。
「俺は、恋人でもいるんじゃないかって踏んでるんですけどね」
「なるほど」
エルマーなら明るくて人当たりもいいし、恋人がいたとしても別に不思議ではない。
「ただ、今朝は妙に元気がなくて。よっぽどオーウェンさんに会えないのが堪えてるみたいなんですよね」
トールは困ったように頭を掻いてから、続ける。
「それで、『オーウェンさんにちゃんとお別れを言っておきたかったって伝えてください。絶対に、絶対に伝えてください!』って、めちゃくちゃ強く念押しされまして」
オーウェンは一瞬だけ目を丸くした後、真剣な顔で頷いた。
「大丈夫だ、ちゃんと伝わった。エルマーにも、次に会う時には鍛錬の成果を見せてくれ、と伝えてくれ」
「ありがとうございます。あいつも喜びます」
その言葉を聞いたエルマーが泣いて喜ぶ姿まで、簡単に想像できた。
……本当に、筋金入りのオーウェン信者である。
最後に、ガーネット様が私たちの前へ出る。
「ブレア様、オーウェン様。この度は本当にありがとうございました」
数日前に初めて会った時と同じ柔らかな声だったけど、その表情はあの時よりもずっと晴れやかに見えた。
「こちらこそ、色々と見せていただいてありがとうございました。正式な契約書が整い次第、もう一度こちらへ伺います。その時には、今回よりさらに具体的な計画を持ってきますので」
「楽しみにしています」
ガーネット様はそう言って笑うと、ほんの少しだけ私との距離を詰めた。
「あなたと、そしてオーウェン様と出会えて、本当に良かったです」
思いがけない言葉に、一瞬だけ返事に詰まる。
私はまだ、何かを成し遂げたわけじゃない。
本当に仕事を始めるのはこれからだ。
それでも、彼女がそう思ってくれているのなら、悪い気はしなかった。
「こちらこそ。これから長いお付き合いになると思いますので、よろしくお願いします」
「はい」
ガーネット様はもう一度笑って、ゆっくりと一歩下がった。
全員に別れを告げて馬車へ乗り込むと、車輪がゆっくりと動き始めた。
窓の外ではガーネット様や騎士たちがこちらへ手を振っていて、私も窓を開けて手を振り返す。
しばらくして二人の姿が見えなくなり、窓から流れていく街並みを何気なく眺めていた時だった。
「……あれ?」
通りの向こうに、見覚えのある姿を見つける。
エルマーだ。
その隣には一人の男がいて、ちょうど人通りの少ない脇道へ入っていくところだった。
てっきりトールの言っていた恋人に会いに行ったのかとも思ったけど、相手はどう見ても男性だった。
それよりも気になったのは、エルマーの様子だ。
昨日、オーウェンを前にあれだけ目を輝かせていたのが嘘みたいに、今は俯きがちで、表情もどこか暗い。
隣にいた人物にも、なぜか少しだけ見覚えがある気がした。
「……?」
どこで見たんだろう。
そう考えているうちに馬車は角を曲がり、二人の姿は建物の陰へと消えた。
少し気にはなったけど、エルマーにも人に言いたくない用事くらいあるだろう。
私はそれ以上考えず、再び流れていく景色へ目を向けた。
何日も歩き回った市場や宿、足湯のある通りが少しずつ遠ざかり、やがて建物の数が減ってくると、街全体を包むように立ち上る白い湯煙だけが遠くに残った。
「良い街だったな」
「ええ。また来たいです」
口にしてから、それは仕事のためだけじゃないなと思った。
もちろん、次に来る時には正式な契約を結び、工事や商品開発の話を進めることになる。
今回みたいにのんびり温泉に入っている暇なんてないかもしれない。
それでも、この街がこれからどう変わっていくのかを、自分の目で見たいと思う。
「次に来る時は、もっと良い街になっているはずです」
「随分と自信があるな」
「当然です。私が関わるんですから」
そう言うと、オーウェンが小さく笑った。
その声を聞きながら、私はもう一度窓の外へ視線を戻す。
数年先には、きっと今日とは違う景色が見られるだろう。
そしてその時も、できることなら隣にはオーウェンがいてほしい。
そんなことを、ごく自然に考えている自分に気づき、なぜか胸の奥が少しだけくすぐったくなった。
まあ、悪い気分じゃないなと思いながら、窓の外へ目を向ける。
高く澄んだ青空の下、遠くなったマルリックの湯煙が、まだ白く揺れていた。




