28.マルリック四日目の収穫
細かい話はまた後に回して、私たちはすぐに伯爵邸を出ると、ガーネット様の案内で、ある場所へ向かう。
「こちらが、マルリックで実際に引かれている源泉になります」
そう、昨日見せてくれると言っていた、碧の泉とは別のもう一つの源泉だ。
そこは街の外れにあり、区域の入り口には簡素な柵と、立ち入りを禁じる看板が立てられていた。
ガーネット様が鍵を取り出してそれを開けると、白い湯煙がふわりと流れ出てくる。
「足元に気をつけてください。地面が濡れていて滑りやすくなっています」
ガーネット様の言葉に頷きながら中へ入った瞬間、強烈な熱気が襲う。
岩肌の割れ目から勢いよく湧き出る湯はかなりの高温らしく、近づくだけでも肌がじわりと熱くなる。
足元には温泉成分が固まった白い結晶が張り付いていて、踏むとざりざりとした感触があった。
「ブレア様、そちらは特に熱いので近づきすぎないようにお願いします」
分かってはいるんだけど、ついつい足が勝手に前へ出る。
「はい、気を付けます……っ!?」
足元の結晶に足を取られた瞬間、体が傾く。
だけど地面に手をつく前に、オーウェンの腕が私の体を素早く引き寄せていた。
「ありがとうございます」
「君はどうも危なっかしい。特に、何か気になるものを見つけて目を輝かせている時は」
「否定はできませんね」
正直、足場が悪いのでちょうど良かった。
転んで怪我でもしたら視察どころではなくなるから。
ちょうどいいので、オーウェンに体を掴んでもらった状態で、源泉の湧出量や温度や周辺の地形を確認することにした。
バリエスの湖畔で掘り当てた源泉も一度見に行ったけど、明らかにその量は桁違いだ。
湧出口からは石を削った樋が町の方向へ続いていて、その外側にも白い結晶がびっしりと浮き出ている。
これだけ成分が濃ければ、定期的に手入れをしなければすぐに詰まってしまいそうだ。
バリエスの開発に活かせることがないか考えながら、気になることをガーネット様に尋ね、その答えを次々とノートに書き留めていく。
途中でやっぱり二度ほど足を滑らせかけたので、最後までオーウェンに支えてもらっててよかったと思った。
源泉の視察を終えた後は、市場へ向かう。
「そのリストは……何ですか?」
私がアインから渡してきた紙を広げていたら、それを隣で見ていたガーネット様が問いかけてくる。
「ああ、王都の留守番役から頼まれたお土産のリストです」
「……随分と量が多いですね」
「買って帰らないとうるさいのが目に見えているんですよね」
市場はお昼前ということもあって、なかなかの賑わいだった。
アインのリストと照らし合わせながら、一つずつ確認していく。
時間が早いこともあって、昨日売り切れていたものも無事に入手することができた。
「これは?」
「食べ物系のリストです。長持ちするものに絞ってあります」
「これは?」
「雑貨です。本人の趣味です」
「……これは?」
「分かりません。とりあえず買います」
結局、両手に抱えきれないほどの荷物になったけど、それらは全てオーウェンが引き受けてくれた。
そして、荷物はいったん今夜泊まる予定の宿へ置きに行ってから、次は街外れにある広場へと向かう。
ここまでが私の視察なら、ここからはオーウェンの番だ。
昨日ガーネット様と話した後、オーウェンはエルマーとトールに声をかけていた。
ちょうど二人とも今日は非番らしく、喜んで参加するとの返事をもらっていたのだ。
広場へ到着すると、すでに二人は待っていた。
「オーウェンさん! 今日はよろしくお願いします!」
そして当然のように、誰よりも目を輝かせているのはエルマーである。
「俺、昨日聞いてから楽しみすぎてあんまり寝られませんでした!」
「お前は遠足前の子供か」
隣にいるトールが呆れたように言う。
「だってオーウェンさんに直接鍛えてもらえるんですよ!?」
「だからって寝不足で来るなよ。鍛錬以前の問題だろ」
「……それについてはトールの言う通りだ」
「すみません!」
即座に頭を下げるエルマーに、オーウェンが苦笑する。
相変わらず素直というか、なんというか。
「せっかくですので、私も見学させていただいてよろしいですか?」
一緒に広場まで来ていたガーネット様がそう尋ねると、オーウェンは頷いた。
「もちろんです。ただ、本当に俺が普段やっていることを一緒にやるだけですが」
「それでも構いません。私も興味がありますから」
こうして、中央騎士による地方騎士団への正式な訓練――ではなく、オーウェンと旅先で知り合った二人の騎士による、個人的な鍛錬が始まることになった。
ただ、オーウェンはすぐには鍛錬を始めなかった。
「その前に一つ聞きたい。二人は巡回中に気になったことがあった場合、どこまで報告している?」
「事件に繋がりそうなら隊長に上げますけど、いつもいる露店商が今日は来てなかったとか、その程度なら各自の判断ですね」
トールが答えると、エルマーも頷いた。
「第二小隊では、そういう小さなことも一度は報告してもらうようにしている」
「そんなことまでですか?」
「一つだけなら何でもなくても、別の情報と繋がることがあるからな。少ない人数で動くなら、そういう情報も共有しておいて損はないと思う」
「分かりました。隊長にも相談してみます」
「ああ。参考になるなら試してみてくれ」
そう言ってオーウェンは一度頷くと、二人を改めて見渡した。
「では次は、二人が普段どの程度動けているのか見せてくれ」
「はい!」
エルマーの返事が誰よりも早い。
「……今度こそ鍛錬か」
トールが覚悟を決めたように息を吐いた。
最初に短い走り込みと軽いストレッチを済ませると、次は木剣を使った素振りへ移った。
オーウェンは自分ではほとんど動かず、二人の体の使い方をじっと観察している。
一通り終わると、まず彼はトールの横へ移動する。
「トール。もう一度、先ほどと同じように剣を振ってくれ」
「あ、はい」
トールが木剣を振り下ろす。
「もう一度」
二度目。
「そこで止めてくれ」
オーウェンがその足元を指した。
「疲れてくると踏み込みが浅くなっている。そのせいで、上半身だけで剣を振る形になっているな」
「……自分では気づいてませんでした」
「普段なら問題ない。ただ、疲れた状態だと少しずつ崩れている」
そう言って、トールの立ち方を少し直す。
「腕だけで振ろうとするな。踏み込んだ脚の力を腰へ繋いで、そこから上半身へ伝える」
「こうですか?」
「もう少し腰を落として。そうだ。その姿勢のまま、ゆっくり五回振ってくれ」
トールが言われた通りに木剣を振ると、三回目を過ぎた辺りから太腿が小刻みに震え始めた。
「き、きつ……」
「今きついと感じている場所を覚えておいてくれ。そこが今、一番弱いところだ」
「はい……!」
「終わったら、その姿勢のまま十秒維持。それを五回。その後、片足ずつ踏み込みを二十回」
「…………はい」
「オーウェンさん、俺も見てください!」
横からエルマーが元気よく手を挙げる。
「順番に見るから待ってくれ」
「はい!」
続いてエルマーの動きも確認する。
トールには脚と踏み込みを中心に。
エルマーには、力任せになりがちな上半身の使い方を何度も直していた。
その後は、それぞれの弱い部分を重点的に鍛える補強鍛錬もいくつか教えていく。
――その途中、何かに気づいたように、オーウェンの視線が広場の外へ向いた。
道を挟んだ向こう側、人通りの中に立っている男をほんの一瞬だけ見つめる。
けれど、すぐに何事もなかったようにエルマーへ視線を戻した。
「もう一度振ってくれ。今度は右足の向きを意識して」
「はい!」
「……本当に基礎が中心なんですね」
少し離れた木陰から一緒に眺めていたガーネット様が、感心したように呟く。
「そうですね」
だけど、オーウェンは単純な動き一つ一つをかなり細かく見ている。
しばらくすると、短い休憩に入ったオーウェンが水を飲むためにこちらまでやってきた。
「オーウェン様、ずっとこういった基礎を続けるのですか?」
「はい。ガルフ隊長から教わった鍛錬も、大半は基礎鍛錬と素振りです。あとは実戦を想定した打ち合いですね」
「そんなに基礎が多いのですか?」
「実戦で必要になる動きのほとんどは、結局その基礎の組み合わせですから。それを何度でも正確にできる体を作る方が先だというのが、うちの隊長の口癖です」
ガルフ隊長は豪快に見えて、鍛錬に関しては意外なほど合理的らしい。
確かにオーウェンも毎朝、同じ基礎動作を飽きることなく繰り返しているし。
「そろそろ続きを始めます」
オーウェンは水を置くと、二人の前へ戻る。
「ここからは、疲れた状態でも同じように動けるかを見ていく。正しい動きを理解していても、実戦で再現できなければ意味がないからな」
そこで一度、言葉を切る。
「余力があるうちは、ある程度は正しく動ける。――疲れてからが本当の鍛錬だ」
嫌な予感がしたのか、トールの顔が引きつった。
唯一エルマーだけは、
「はい!」
と、まだ目を輝かせている。
ここまででも随分いろいろやらされていたのに……元気だなあ。
「では、先ほど二人にそれぞれ指示した補強鍛錬を二十回ずつ。その後、この広場の外周を五周走って、最初の基礎鍛錬をもう一度二十回ずつしてから素振りを二百回」
「……はい」
「それを一組として、全部で五組行う」
「……え?」
今度はエルマーからも小さな声が漏れた。
さっきまで輝いていた笑顔が、ほんの少し固まっている。
「全部終わったら、最後に二人で全力で打ち合いだ。疲れた状態でも、さっき直した動きが崩れないか確認する。その後、まだ動けるようなら俺とも一対一で打ち合おう」
「ひぇっ」
エルマーから初めて小さな悲鳴が上がった。
トールは何も言わないが、ただ遠い目をしている。
憧れの人から直接鍛えてもらえるというエルマーの夢は、どうやら想像していたよりずっと過酷だったらしい。
……なんというか、一言で言うなら、見ているだけで筋肉痛になりそうだ。
「あの方が、ブレア様の旦那様だというのは、その、とても心強いですね」
「まあ、そうですね」
我ながら気の抜けた返事だと思ったけれど、それ以上気の利いた言葉は出てこなかった。
ただ、オーウェンは厳しいだけでもない。
二人の動きが明らかに崩れればすぐに止めるし、無理をしているようなら回数も減らしている。
それぞれの体力や技量を見ながら調整しているらしい。
かなりきつそうなのに、二人とも弱音を吐かず、オーウェンの指示へ食らいついている。
エルマーは息を切らしつつも何度も自分の動きを確かめているし、トールも疲れた顔をしながら、言われたことを一つも聞き漏らすまいとしていた。
そんな二人を見つめながら、ガーネット様がぽつりと口を開いた。
「……夫も、この地を大切に思っていました。ご両親が事故で亡くなり、成人してすぐにこの地を受け継いで十年、今の彼らと同じように、マドランのために最後まで力を尽くした人でした」
その話は、ガーネット様がマルリックへ嫁いだ経緯を調べた時に、少しだけ耳にしていた。
苦労したことも多いはずだけど、前マドラン伯爵が慕われていたのは有名な話だ。
「あの人が守ってきたものを、そのまま残すだけじゃなくて、少しでも良い形で次へ繋いでいきたいんです」
そう言って二人の騎士を見つめるガーネット様の横顔には、穏やかながらも確かな決意が宿っていた。
私は余計なことは言わず、ただ静かに頷いた。




