02
ヨハンは集中力を使い果たした。
ペンを机の上に転がし、椅子の背もたれをきしませ――天井を仰ぐ。
「お前さんも休暇中だろ? たまにはあの怖いおっかさんに、顔を見せに帰れ――せっかく親孝行できる相手がいるんだから」
「いいの」
ソフィアは言った。
シニアにも休暇を与えたため、ヨハンはカプチーノが飲めず――ブラックのコーヒーを口にする。
「あなたのそばにいたいから――と言ったら、嬉しい?」
相変わらず表情を変えずに、妖精の少女は言った。
「へいへい――嬉しくてたまらないね。メスガキちゃんがうろちょろするせいで、仕事は進まないし小言は頂戴するし。世の中の所帯持ちって、みんなこんな感じか? って、なにやってんだ?」
いつもの益体のない無駄口を聞かされたソフィアは、いつの間にか背中を向けていた。
妖精の少女がどんな表情をしているのか、ヨハンからは見えない。
しばらくすると、カップの湯船から上がったソフィアは何も言わず――書類仕事を手伝い始めた。
心境の変化でもあったのか、
「目の前にやりかけの書類があるのは精神衛生によくない」と言った。
山のように積み上げられていた書類だった。
それらは、ソフィアがペンを抱えて〝踊る〟と――みるみるうちに片付いていく。
夜。
夕食をそのまま執務室で摂ると、ようやく仕事が終わった。
「お礼をさせてあげる――ケーキがいい。あと、外で食べたい」
「こんな時間にやってる、マトモな店があるか――いや、待てよ。〝あそこ〟なら、絶対に食い物があるはずだ。お高くとまってるヤツが住んでるもんな」
「本当に、お店があるの?」
「店があるとは言ってないぜ」
ヨハンはソフィアを連れて、帝都の中央まで外出した。
2人がいる道の横は、一面――白亜の高い壁が外界との境界線のように、そびえていた。
そこは宮殿の外壁に面した通りだ。
間もなく通用門が見えると、ヨハンは近づいた。
彼はそこで、純度999でプラチナ製の――一般には存在すら秘匿されている、特別な身分証を出した。
「武装を全てこちらに」
近衛兵に言われた通り、ヨハンは拳銃や予備の弾倉。
それから腰に下げている銃剣と、ボタンを押すと刃を出し入れできる――両刃のナイフまで預けた。
「ネクタイと襟の裏」
「おっとそうだ」
ソフィアに指摘されてから、ヨハンはネクタイの裏に仕込んである――硬質樹脂の非金属製の隠し武器を差し出す。
拳を握り込んで、指の間から細い刃が突き出す形の――プッシュ・ダガーだ。
また、上着の襟からは鋼線を加工した――絞殺用のワイヤーを取り出す。
「……」
呆れ返った近衛兵たちの冷たい視線に2人は見送られた。
「後宮――初めて入った」
ソフィアは、巨人が通れそうなほど天井の高い廊下を――上から下まで行ったりきたりしながら、飛び回っている。
背中のアゲハ蝶に似た翅を揺らして、輝く妖精の粉を廊下に撒いている。
どうやら、宮殿の内装や意匠――調度が興味深いらしい。
「今日はピンクのレースなんだな――まるでひと晩10ギニーの高級淫売婦みたいで、好みだぞ」
例によって、ソフィアの下着を仰ぐように覗いて彼は言った。
「あ、そう」
近侍に案内されるまま、窓に面したサロンに通された。
「まあ――よくいらっしゃいました」
そこで待っていた女性が声を上げて、2人を歓迎する。
「夜半に妖精さんと出会えるなんて――まるでおとぎ話みたいで、愉しいですわ」
「陛下……?」
ソフィアが〝神姫〟ヴィクトリアを見て、瞬いた。
ヨハンから見ても驚いているのがわかった。
帝国の最高権力者は駆け寄らんばかりに足早に近づき――優雅な仕草で彼の手をとった。
「ご無事の〝還御〟を、このヴィクトリアより、心から寿ぎ申し上げます――それから、フォン・シメオン少尉の予後はいかがでしょう?」
「前半だけ不適切」
ソフィアはいつもの無遠慮な口調のまま、短く指摘した。
還御とは辞書にある通り、帝室に連なる高貴な者の帰還を祝す言葉だ。
帝国の最高権力者たる〝神姫〟が、他者に用いるべきではない――本来ならば。
「大丈夫だ――しかし、お前さんに心配されたと知ったら、逆に心停止しちまうな。貴族特有のビョーキで」
「まあ――では内緒、ということで」
2人が親しげに話しているのを見て、ソフィアは交互に彼らを見た。
不思議でたまらない、といった様子だ。
妖精の少女は、この双子の関係を知らないのだから――無理もない。
「どういうこと?」
その素朴な疑問に、彼らは揃って誤魔化す。
「淫蕩な秘密の関係です♪」
「人間の世の中は複雑なんだぜ、メスガキちゃん」
「それ、聞いたことがある――〝ロンバルディアの貴婦人とシシスベ〟っていうの。お母様が言ってた。合ってる?」
「はい――そうです♡」
ヴィクトリアが首肯して、
「ぜんぜん違う!」とヨハンが訂正した。
その上、双子の妹は言う。
「以前は衆人環視の下で、組敷かれたこともあります――耳元で〝可愛いじゃん〟と仰っていただけましたの」
「それを持ちネタにするな!」
「ふーん?」
妖精の少女は2人の抱える秘密に、少しだけ興味を惹かれたようだが、
「そんなことより――早くケーキを食べたい」と言った。
目前の妖しい色気よりも、優先したいことがある。
自分に常に正直なところが妖精らしさのあらわれだろう。
「さすがはティターニア様のご令嬢にして、エインセル家はじまって以来の才媛ですわ♪」
「自己中こそ、メスガキ妖精ちゃんの取り柄だもんな――ぬへへ」
ヨハンの軽口に、
「あなたの次に?」とソフィアはいつもの調子で応じた。
ヴィクトリアは失笑を漏らした。
そのまま、夜の短い時間を――〝神姫〟は双子の兄と妖精の少女とともに過ごした。
翌朝から始まる、いつもの退屈な政務と国事行為で――玉座の御簾の中にあって〝神姫〟は不思議と機嫌を麗しくしていたらしい。




