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#0 ゼロとして—伍—

「うががあああああああああ」


 淡いオレンジの夕焼けがブロック塀に遮られ、薄暗くなっている路地裏。そこには悪意と憎悪でまるまると肥えた一体の真っ黒な悪霊。

 ゼロがその巨大な悪霊に向かって、力強い回し蹴りをお見舞いする。悪霊は吹っ飛んでそのまま塀に激突すると、消滅してドス黒い霊魂となった。


「うん、いい感じだね。まだまだ、私に比べると遅いけれど」


「裁きの環も神器も使えないんです。累さんには敵いませんよ」


 意地悪そうに言う累に、ゼロは冷静に答えると拾った霊魂を手渡した。


「全く、君は本当に大人しいやつだな。もっと“悔しー!”とか“ムキー!”とか、そういう感情にはならんのかい」


 累は、悔しがる様子と怒る様子をオーバーなリアクションでとると、ゼロの方をチラリと一瞥した。


「だって、いちいちイラついていたって仕方ないじゃないですか。事実なんですから」


「はあ、これだから相棒は……。まあ、それが君の良いところでもあるんだけどね」


 ゼロは日々悪霊を退治し、着実に経験を積んでいった。並大抵の悪霊ならば累の力を借りずとも倒せるようになっていた。ただ霊魂をあの世に送ることだけは、累に頼まねばならなかった。

 また、天使としての活動以外の生活も問題なく送ることができていた。とはいっても、外出するのは、ほとんどが動画撮影や食事のためであった。外に出るときは、アパートに元々あった黒パーカーや無地のスエットなど、地味な服ばかりを着る。累に「もっとオシャレをしたらどうだー」と冷やかされたが「あまり目立たないほうが良かったんじゃないんでしたっけ」と一蹴した。

 そして、ゼロは今までの記憶を取り戻すこともなく時間は経ち、累に拾われてから五ヶ月が過ぎようとしていた。




 ハートコアの一〇三号室で、ゼロがパソコンに向かって難しい顔をしながら動画を編集している。累はカメラのレンズを手入れしながらゼロに問いかけた。


「何か少しでも思い出したことはないのかい?」


「全然、何も思い出せていないですよ。……そっちこそ、正体不明の天使とピエロについては何か情報掴めそうなんですか?」


「こっちも全然。()()()()が深いところまで潜り込んでくれているようなんだけれど、ピエロは少したりとも尻尾を出さないようだね。正体不明の天使も、今のところ大きな動きは見せていない」


「そうですか……」


 累からの報告にゼロは少し目を伏せながら返事をした。

 累の言うミカエルとは、彼が共に正体不明の天使を調査している仲間の天使のことである。しかし、ゼロはまだ会ったことはない。ただ、累はミカエルのことを彼女と言うため、女であることは想像ができた。


「正体不明の天使は様々な神器を作り出しているんですよね。……始まりの天使が持つ創造の力……その人の方がよっぽどゼロっぽくないですか? 僕は本当にゼロなんでしょうか?」


「いや、GHにいる正体不明の天使がゼロだということはあり得ない。ゼロから霊魂が送られなくなったのが一年前。正体不明の天使が活動を始めたのは十三年も前だ。辻褄が合わなくなってしまうからね」


 そう言って累がカメラをケースに片付けて、ゼロのことをチラリと見た。彼の不安そうな顔が累の瞳に映り込む。


「ただ、彼女の使う神器に通用するのは、今のところ君の力だけだと思う。君は正体不明の天使に対抗できうる唯一の存在だ」


「…………」


「まあ、そう気に病むな。君は記憶を取り戻すことに努めるんだな。それが手っ取り早い」




 ——僕は何者なのだろうか。ゼロとは何者なのだろうか——

 

 漠然とした不安感と焦燥感で眠れない日も多々あった。約五ヶ月もの間、天使としての仕事を累に教わり、それを遂行してきた。それでもゼロは記憶を失う以前に自分がこの仕事をしてきたという実感は全く持てていなかった。

 ゼロは眠る時、ある夢をみるようになっていた。知らない少女の後ろ姿。いや、もしかしたら、記憶を失う前は知り合いだったのかもしれない。彼女に向かって必死に声を掛けようにも、その長く美しい黒髪を見せ続けるだけで、こちらを振り向いてはくれない。追いかけようとすればするほどに彼女は遠ざかっていってしまう。


 彼女は何者なのだろうか。僕のことを知っている人なのだろうか。


 そして、彼女のことを追いかけるゼロのさらに後ろから迫る誰かの声。その声は誰かの名前を呼んでいるようだった。この声の主を確認するため振り返る前に、決まってゼロは目覚めてしまった。

 この声は後ろ髪だけを見せる彼女のものなのだろうか。それとも別の人のものなのだろうか。


——たっちゃん——


 ただ、自分の後ろから聞こえてくるこの女の声が、はっきりとゼロの耳に残った。




——十一月二十日

 日はすでに沈みかけ、あたりは薄暗くなっている。

 累とゼロはいつものように、いつもの天狗の面と継ぎ接ぎの服装で、悪霊とエネルギー切れが近い幽霊の浄化作業を行なっていた。


「よし、それじゃあそろそろ戻ろうか」


 裁きの円を使い、霊魂をあの世に送った累がゼロに言ったその時、二人は異様な気配を感じ取り、ピクリと体を反応させる。


「相棒もわかったかい?」


「向こうの方で悪霊の気配が突然現れた? でも、とても薄い気配です」


「恐らく、今まさに悪霊になりかけているんだろう。……この距離感だと、あそこの竹林の方かな。行ってみる?」


「そうですね。行ってみましょう」


 


「助け……あああああああああああああああああああああああああ!」


 ゼロと累が竹林に足を踏み入れると、少し遠くの方から男の悲痛な叫び声が聞こえてきた。ゼロと累は少し驚いたように顔を見合わせる。


「近いです。急ぎましょう」


「ああ、そうだね」


 ゼロと累は走った。生い茂る竹林の向こう、少し開けた場所に二つの人影がある。一人はその場に立ちつくし、もう一人は蹲っているように見えた。

 ゼロはその影の元に飛び出した。


「なっ……」


 ゼロは、月明かりに照らされて見える、目の前の光景に言葉を失った。

 白いトレンチコートを着た、髪がボサボサの男が地べたに蹲っている。そして、そのすぐ近くには死装束姿の少女の幽霊が。シュッとした鼻筋に艶やかな唇、そして長く美しい黒。彼女は虚で真っ黒な大きい目を見開きながら、静かに涙を流していた。両手足からは黒いオーラを発し、その手には付け根からまだ鮮やかな血を垂れ流させている脚を持っている。


 この脚……彼の脚をもぎ取ったのか?


 ゼロがトレンチコートの男に視線を移すと、大きく肩を揺らしながら、荒く、懸命に呼吸をしていた。意識を保つことがやっとなようで、飛び出して来たゼロの存在などまるで気がついていないようだった。


「累さん!!」


 後ろからやってきた累は、目の前の惨状を見て、「ありゃ、これはひどい」と声を漏らした。


「累さん、彼の手当をお願いします。絶対に死なせないでください」


 ゼロは少女から視線を外さずに、静かに言った。静かではあったが、その言葉には凄みがあった。ゼロのいつもとは少し違う雰囲気を、累はすぐに感じ取った。


「わかったよ。それじゃ、あの悪霊は君に頼んだよ」


「任せてください」


 累は膝下から血を流し意識が朦朧としている男を抱きかかえると、竹林の奥へと消えていった。

 ゼロは、微動だにせず静かに涙を流し続ける死装束の幽霊少女を、天狗の面の奥から真っ直ぐに見つめた。死装束の幽霊少女もまた、少しだけ首を傾げながらゼロのことを虚の目で真っ直ぐに見つめていた。


 夢に出てくる少女に雰囲気が似ている。なぜだろう。彼女のことを見ていると胸が張り裂けそうな、とても苦しい気持ちに襲われる。なぜ君はそんな顔をしているんだ。なぜそんな目で僕のことを見つめてくるんだよ。


「あい……な……」


 死装束の幽霊少女が声を発した。


「おいてか……ないでよ……」


 その辿々しくも悲しい声に、ゼロはピクリと体を揺らし、そしてポツリ。


「レイ……」


 それは、ゼロから無意識に出た言葉だった。自ら発したその言葉に驚いてゼロは大きく目を見開く。


『レイ』ってなんだ? レイは彼女のことだろう? 明るくて、優しくて、どこか影があって。


 それを皮切りに、次々に記憶が蘇ってくる。

 GHに殺されたこと。如月大輝というGHと戦ったこと。陰陽師たちの屋敷に行ったこと。二重人格の幽霊を助けたこと。仲間を救うため悪霊ピエロと戦ったこと。カフェ陰陽で、春明、アクタ、お嬢、マッチョ、ショタ、フォトに出会ったこと。そして、レイと出会ったこと。

 只、つまらない生活を送っていた。退屈で夢も希望も抱かずに。

 けれど、真夏の細道に突っ立っていた女の子のことを助けるために、道路に飛び出して、トラックに轢かれて、死にかけて。それから全てが変わった。沢山の人たちに出会い、そのなかで失ってしまったものも多くあった。目まぐるしい日々を過ごしていた。いま目の前にいる、この子との約束を守るために。


 ああ、そうだ。僕はゼロなんかじゃない。僕は………俺は………天池達海だ。

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