#0 ゼロとして—碌—
「あ……あ……」
レイは小さく呻き声を上げると、片手に持っていた脚をぼとりと地面に落とした。そして、虚な目を見開きながら、黒天狗に向かって走り込んでくる。その速さは徐々に増していき、そして、右手の拳を振り上げた。
黒天狗の男——達海は、彼女から振り翳された拳を右手で受け止めた。その黒いオーラを発する拳は、カフェ陰陽の庭園で稽古をしていた時よりも数段力強く、ずしりと重かった。
彼女から出る悪霊特有の黒いオーラは、手や足から少し漏れ出ているだけで完全なものではなかった。達海がお盆に出会った一郎の幽霊や二重人格だった佐野の幽霊と同じだ。完全に悪霊にはなっていない。
レイは達海に向かって左右交互に拳を打ち込んだ。荒々しくも重い打撃を。それを達海は手のひらで防ぎ続けた。その拳から彼女の悲痛な思いが伝わってくるようだった。
レイは生前、どれほど辛い思いをしていたのだろうか。いや、俺も彼女に辛い思いをさせてしまっていたんだろう。そして、きっとこれからも——
「あああああああああああああああああ!」
レイは叫び声を上げながら、体を捻らせて回し蹴りを繰り出した。達海は顔の横で構えた左腕で、それを受け止める。
「ごめん、レイ。辛いよな。苦しかったよな……。俺が必ずお前のことを救ってみせるから。だから……!」
達海は右腕で握り拳をつくるとレイの鳩尾に突きを喰らわせた。レイは嗚咽しながらゆっくりと達海の腕の中に沈んでいく。目を閉じて悲しい表情を浮かべた彼女の頬からは、一雫の涙がこぼれ落ちた。
達海は意識を失った彼女のことをお姫様抱っこでかかえた。
「おい」
向こうからどこかで聞いたことのある女の声がして達海は振り向いた。
数年前の地震でできたのだろうか。手前には向こう岸には渡れないほどにぱっくりと割れた地割れがあり、その向こう側には白いトレンチコートを着た、金髪の女が立っている。ショートボブでレイに顔が似ている女。GHに捕えられた際に達海は彼女の顔を一度見ている。副局長の橘麻里香という女。
彼女はレイのことを見て顔を驚かせていた。
「由里香……なのか?」
麻里香の死人を見たような、おどおどとした声。いや、死人を見た『ような』ではなく実際にそうなのだ。
そうか、レイの本当の名前……由里香っていうのか。
達海は、麻里香に背を向けて歩みを始めた。
「待て! 待ってくれ! 由里香!!!!」
それでも達海は歩みを止めなかった。麻里香の咽ぶような叫び声は遠く、遠くなっていった。
少し歩くと、天狗の面を外し不満そうな顔をこちらに向けて竹に寄りかかる累と切断された足にグルグルに包帯が巻かれたGHの男が地面に転がっていた。
「その男……なんとか一命は取り留めたようですね。ありがとうございます、累さん」
「全く、大変だったよ。それはそうと相棒、彼女はなんだ?」
累は達海の腕に抱かれた、死装束姿の幽霊に向かって指差した。
「彼女はまだ完全に悪霊にはなっていません。まだ、この世で成仏できるはずです」
「いやいや、もうこんな状態になってるようなら、すぐに地獄に送ったほうが良い」
「待ってください!」
無慈悲にも裁きの円を展開してレイのことをあの世に送ろうとする累に、達海は声を大にして拒否した。
「彼女のことは僕がしっかりと見張っておきます。だから……だからもう少しだけ様子を見させてもらえませんか?」
黒天狗の面の奥から見せる大きくてそれでいて鋭い眼差し。
彼の必死な訴えに累は折れた。裁きの円を消して彼は肩を落とす。
「はあ、相棒がそこまで言うなら……わかったよ。今回だけは君の言うことを聞いてやろう」
「ありがとうございます」
「ところで相棒…………君は本当に『ゼロ』か?」
累はくりくりとした目を鋭くさせて、目の前に居る少し雰囲気が変わった相棒のことを凝視する。
達海は天狗の面を外すと、その大きな目で、臆することなく真っ直ぐに彼の目を見た。
「僕はゼロですよ。……君が散々そう言ってたんじゃないですか」
達海は少し呆れたようにそう言って、すたすたと歩き始める。
累は何かを察すると、ははっと軽く笑ってからGHの男——加藤裕樹を担ぎ上げた。そして、達海の隣へと足早に駆ける。
「それじゃあ、帰ろうか相棒。帰ったら動画づくり頑張ろう」
「いや……僕もう眠いんですけれど」
「えー、相棒も手伝ってくれよ〜」
あの時の洞窟でのピエロからの問いかけ……今ならはっきりと答えることができる。そうだ、単純な理由だったんだ。大好きだったんだ、俺に何度も手を差し伸べて救ってくれたこの子のことが。今度は俺の番だ。また彼女の眩しい笑顔を見るために、今度は俺が大好きな人を……大切な人たちを救ってみせる。必ず、俺がレイの成仏を見届けてみせる。必ず。
——ゼロとして 完




