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6. 山中牧子の死(霊安室)

――湿った土と草の匂いがする。


――背中がひんやりとして濡れている。


――あぁ……起きなくちゃ。


――お婆ちゃんが家で待ってる……。


この時、私はうつ伏せになっていた。


――起きなくちゃ。



重い瞼を開き、ゆっくりと上半身を起こした。


ここは、校舎裏の花壇。辺りはすっかり闇が深くなり、人の声すら聞こえない。


見上げると、一番星が遠い空でやたら寂しそうに光っていた。


あぁ、いけない!!夕ご飯作らなきゃ……。


ガチガチに固くなった腰をゆっくりと上げると、制服についた土埃を払って立ち上がった。


真っ暗にそびえ立つ校舎は、怪談話に出てくるかのような不気味さを漂わせていた。


(うっ……もう、ここには居たくない!!)


すくみ上がりそうな気持ちを抑えて、家まで走って帰ることにした。



❇❇❇❇❇



この日は不思議なことが多かった。


校門を出てからずっと歩道の信号機は青色が続き、商店街を通っても、誰にも声をかけられないし、毎日ブロック塀の隙間からうるさく吠える秋田犬が、今日は大人しくしている。


街灯のオレンジ色が等間隔に道を照らす上り坂では、立ち止まらず、息切れしないで走れている。頭の片隅で不思議だと思いつつ、家へ向かった。


(お婆ちゃん、家にいてよ!!)


ようやく家の前に辿り着いたのに、灯りもなく、人の気配もしない。


(嘘!!お婆ちゃんが家にいない……)


私はショックのあまり、崩れるように地べたにしゃがみ込んだ。


ちょうどその時。右側から眩いライトが差し込んできた。


1台のタクシーが私の後ろを通り、隣の家で止まったのだ。


何気なくそちらを見上げると、父がタクシーから降りてきた。父は門扉を開け、玄関先のインターフォンを押していた。


ピンポーーン♪


「はぁ~~い!」


しばらくしてドアが開き、隣に住む佐藤のおばちゃんが出てきた。私は父の後ろに駆け寄った。


「あぁ~、勉さん。やっと来てくれたのね!節子さんは、ちょうど夕ご飯を食べているの。とにかく中へ入って」


(はぁ~!お婆ちゃん、隣の家にいたのね。良かった~!)


その言葉を聞いた私は、緊張の糸が緩むと、体中の力が抜けたような気がした。


「あの、牧子はまだ帰ってきてないんですか?」


佐藤のおばちゃんは、腕を組んで心配そうに唸った。


「そうなのよぉ~!!いつも送迎のあとに帰ってくるはずなのに、全然帰ってこないの。節子さん、暗くなっても門の前でずっと歌って待っていたのよ」


父は佐藤のおばちゃんに頭を下げた。


「あの……うちの母が大変ご迷惑をおかけして、申し訳ございません……」


「あら、いいのよ。男手一つで、お婆ちゃんも娘さんも面倒見るなんて大変よね」


何度も頭を下げる父の背広がよれていて、私は胸を締めつけられた。



父は15年間、オフィス文具メーカーに勤めて、今年の春から商品企画部から営業部に配属された。


それから父の帰りは毎日のように遅くなり、たばこを吸う量が増えていった。


私はというと、お婆ちゃんとほぼ毎日長い夜を過ごしていた。


お婆ちゃんが冷蔵庫を何度も漁り、何回もお風呂に入ったり、トイレが間に合わないままうろついて、その度に私が対応していた。


父は疲れているのか私が声をかけても、寝室から出てこなかった。


朝、父は私に『ごめん』とだけ伝えて、朝ご飯も食べずに身支度だけ整えて、仕事へ出ていくのだ。


朝日に照らされて出勤する父を見送りながら、私はいつも感謝していた。


この家の経済を支えているのは父だけだから。



「あの……牧子ちゃんが19時を過ぎても帰ってこないなんて、何かあったかもしれないわ。牧子ちゃんにスマホ持たせてないの?」


佐藤のおばちゃんが心配そうにしている。


「いいえ。うちはそんな余裕はないので……」


「……そう。だったら、連絡しようもないわね。あと1時間過ぎても来ないようだったら、中学校の先生に連絡を取ってみたら?それとも警察がいいかしら?」


警察と聞いて、私は慌てて父のもとへ駆け寄った。


(お父さん、おばちゃん、ただいま!!)


だが、2人は牧子を無視するかのように話し合っている。


(ただいまってば、牧子だよ!!二人とも無視しないで!!)


父の腕に触れようとした瞬間、雲を掴むように感触がなかった。


(なっ、何なの、今の!?)


もう一度掴もうとしたが、同じだった。


恐る恐る父の背中に触れてみると、手が父の体をすり抜け、貫通した。


突然、父が武者震いをした。


「どうなさったの?」

「いや、一瞬寒気がしたもので……」


私は呆然として両手を見つめた。私の両手の向こうに景色が見える。


(何で?私、透けてる……どうして?)


父は胸ポケットからスマホを取り出し、中学校に電話をかけようとしている。


(お父さん!!お父さんってば!!ここだよ!!)


どんなに私が近くで騒いでも、2人は私に気づかない。


(私はここにいるよ!!ここだってば!!)


(私、まだ死んでないよ!!ただ……、あっ、そうだ!透明人間になっただけ。私はちゃんとここにいるんだから!)


(だって、私がいなくなったら家が大変でしょ?)


(誰がお婆ちゃんと一緒にスーパーに行くの?)


(誰が夕ご飯を作るの?洗濯や掃除は誰がやるの?)


(私がいなくなったら、お父さんの負担が余計に増えちゃうよ。私が傍にいないと、お婆ちゃんもきっと寂しがるよ)


(お父さん……助けて。うぅ……私、ここだよ……)


父の足元で泣き崩れてしまった。縋りたいのにそれができずにいるのが、もどかしかった。



❇❇❇❇❇



1時間後、藤丘中学校から連絡が来た。


巡回中の警備員が、花壇で倒れている私を見つけ、中谷総合病院へ搬送したとの連絡だった。


父は、自分の兄と妹に連絡をし、お婆ちゃんは佐藤さんのおばさんに預け、おじさんの好意で中谷総合病院まで車で連れて行ってもらうことになった。


私も父についていく。かなり動揺していて、放っておけなかった。透明になった私ができることはないけど。


病院へ着くなり、父は受付へと駆け込む。


「山中牧子さんですね。夜間救急面談室、一番まで来てください」


院内の細くて長い廊下を父は息を切らせて走る。救急受付の近くにいた医師に、牧子はどこにいるのかと尋ねた。


「先程、搬送された中学生のお父さんですね。どうぞ、こちらへ」


通された小さな部屋には、救急隊員と医者と警察官2人が待っていた。


「娘は……牧子は?」


席に座るなり、父は医者に尋ねた。


「残念ながら、娘さんは搬送された時には既に心肺停止の状態で……誠に残念です」


医者は静かに答えた。


(え!?嘘でしょ……。私……)


――ドン!!


「嘘だ!!うちの子が死ぬわけない!!」


声を荒げ、父は机を叩いた。


「……いいえ。僕らが駆けつけたときは校舎裏の花壇でうつ伏せに倒れていました」


救急隊員も申し訳なさそうに答える。


「何で……?何で、娘はそんなところで……」


「こちらですでに現場検証を始めております。現状では、草むしりの途中だったのではないかと。それにご遺体の近くに60リットルの鉄製のゴミ箱がありまして、そのゴミ箱の角に血痕が付着していました」


淡々と話す警察官の説明に、父は納得がいかないのか、首を横に何度も振る。


「娘さんは後頭部に出血の跡が見られました。詳しいことは検視や司法解剖で明らかになると思います」


「司法解剖!?娘は……牧子は殺されたというのか!?」


「……その可能性もあるということです」


(……私、殺されたの?ゴミ箱なんかで?)


あまりに唐突な出来事に、頭が追いついていかない。


救急隊員が無線で誰かと話しながら部屋を出ていき、入れ替わりに男が1人、部屋にやってきた。


「あのーー」


(白崎先生!?)


突然現れた男性に警察官は質問した。


「あなたは?」


「藤丘中学校3年2組の担任の白崎です」


「お前ぇぇーー!!」


父は怒り心頭に発して立ち上がると、勢いよく先生の胸ぐらをつかみ、壁際に打ちつけた。


「学校は一体、何やってるんだぁ!!!」


(お父さん、やめて!!)


警察官2人が大暴れしている父を素早く羽交い締めにして、先生から引き離す。


突然の出来事に動揺したのか、先生は肩で息を切らせながら、震える手で歪んだ襟元を整えた。


「山中さん、落ち着いてください!!」


医者がなだめても、警察官に押さえられてもなお、父は暴れ続けた。


「むっ……娘が……娘が突然、学校で死んだんだぞ?落ち着ける親がどこにいるんだぁーー!!!」


顔を真っ赤にして大声を上げている父。普段は物静かで口数も少ない方なのに……。


「一人娘だぞ!!俺の唯一無二の娘なんだ!!それを……それを今、俺は失ったんだぞ!!あんたも同じ親なら、分かるだろうがぁぁーー!!!」


「……大変、申し訳ありません。こちらとしても青天の霹靂で……。ただ、山中さんは美化係でして、今日は花壇の草むしりを――」


「はぁ……はぁ……、1人でか!?」


父は肩で息を切り、先生を呪うかのように鋭く睨みつけた。


「それは……その……」


白崎先生は喉仏を上下に動かすと、黙り込んだ。


警察官の鋭い視線が先生に向かった。先ほどよりも険しい顔をしている。


父は暴れるのをやめると、崩れるようにパイプ椅子に座った。


父を押さえつけていた2人の警察官も、そっと父をから少し距離を置いた。


「あの、白崎先生。少しお話を聞かせてもらってもよろしいでしょうか?」


1人の警察官は先生を連れて、この部屋から出ていった。


「……」


静まり返った小さな部屋には、医者と警察官と父の3人だけに……。


父は項垂れながら、医者に尋ねた。


「牧子……牧子はどこだ?俺に牧子の顔を見せてくれないか?」


「……。娘さんは、霊安室にいらっしゃいます。しかし今、警察の方で検視が行われております。20分後にお呼びしますので、それまでこちらの部屋でお待ちください」


医者のポケットからバイブレーション音が鳴っている。小型の携帯をちらりと確認すると、「失礼します」と言って部屋を出ていった。


――この部屋には警官と父の2人だけになった。



ここからは私の遺体を解剖するため、司法解剖への承諾書のサインを求められた。


「今日はここでご遺体を霊安室で安置し、明朝に京塚医科大学へ搬送させていただきます。司法解剖は14時に予定しております。明後日、午前中にはご遺体はご自宅へお送りします。その際はこちらからご連絡致しますので、その間にご葬儀のご準備をお願いします」


「……はい。よろしくお願いします」


「大変な状況ではありますが、お父様からも牧子さんの最近の様子をお話いただければと……」


警察官が一枚の書類を取り出した。


父はさっきまでの勢いがなくなり、背中を丸め、呟くように話し始めた。


「……。牧子には、普段から母さんの面倒をみてもらって……申し訳ないといつも思っていました」


(お父さんが、私に申し訳ないって……)


「あの子の母親とは、10年前に離婚しました。それから、男手ひとつで、あの子を育てました。その後、俺の父さんが亡くなって、独りぼっちになった母さんを俺が引き取りました。あの子は優しい子です。すぐに母さんと仲良くなりました」


「そうでしたか」


「だけど、3年前ぐらいから母さんが認知症になってしまってから、牧子が夕ご飯を作ってくれるようになりました。ほとんどの家事を牧子に任せっきりで……。早く帰りたいのに、仕事が終わらなくて」


事情を聞いた警察官が鼻をすすると、帽子を目深に被った。


「学校での様子は何か言ってませんでしたか?」


「……。彼女とは朝しか話ができなくて……。ほとんどの会話は、母さんのデイサービスやケアマネジャーさんのことばかりで……学校のことなど何も……。3年生というのに、志望校もなにも聞かされていなくて……。いや、私も忘れていたのかも知れない。私自身も営業部へ配属になったばかりで、自分のことで手がいっぱいで……。いや、言い訳にしかならないが。結局私は、あの子に何一つしてやれることがなかった」


(お父さん……。志望校なんてないよ。私、お婆ちゃんが通っているデイサービスで働かせてもらえたらなって、思っていたの)


私は項垂れる父の傍に立った。


(私なんかが高校行っても、無駄なお金がかかるだけじゃん。お婆ちゃんが通うデイサービス代、おむつ代、通院代、お薬代、結構お金かかっているんだから!!)


(お父さんが毎日疲れて帰ってきているのに、私も働かなきゃって普通思うじゃん!!)


(……学校に行っても、どうせ惨めなだけよ)


お父さんは気落ちしたまま黙り込んでいた。


――分かってる。いくら話したくても、もう届かないって。


ドアをノックする音がした。


警察官がドアを開けると、ベテランそうな看護婦さんが立っていた。


「山中さん。そろそろ娘さんに会いに行きましょう」



❇❇❇❇❇



霊安室は寂しいぐらいに広くて真っ白な部屋だった。


遺体安置用の台が真ん中にあって、そこに制服姿の私がマネキンのように横たわっていた。


ステンレスのワゴンには小さな香炉があり、二本の線香がすでに立てられていた。


細くたなびく煙から、白檀の香りがした。


父は、横たわる私の頬に震える手でそっと触れる。


「少し柔らかいな……牧子」


頬に触れたあと、今度は手に触れる。


「……なぁ、牧子。お前、何で死んだんだ?お前に、何があったんだ?」


涙声で尋ねる父。


青白い顔の私は、ただ眠っているようにしか見えない。鼻の穴には白い綿が詰められていた。 


「しっかり者で優しいお前だから、俺はついお前に甘えてしまった。母さんの世話をお前に押し付けて、遊びにも行けずに、お前のわがままも聞いてあげられなかった。お前を早く大人にしてしまった、俺は……悪い父親だな……」


(そんなことないよ。お父さん)


「俺な。お前に謝らなければならないことがある」


「……お母さんが出ていったのは、俺のせいだ。俺が浮気をしてしまったから、愛想つかして出て行ったんだ」


(えっ、ちょっと初耳なんですけど!?浮気って?『お母さんは自由に生きたいから、お父さんと離婚した』とか言ってなかった?)


「ふと考えたんだ。お母さんと離婚しないまま暮らし続けていたら、お前はどうなっていたのかなって。お前はお母さんに甘えて、俺の前で子供らしい顔で笑っていただろうか」


(……お父さん)


「……なぁ、牧子。この15年間幸せだったか?」


(……幸せじゃない時の方が多かったけど、確かに幸せだった瞬間もあったよ)


「……俺、牧子のいない人生をどう過ごせばいいんだ?」


(……それは……)


私は何も言えなくなった。


「今朝まであんなに……あんなに元気だったのに」


顔を覆い、肩を震わせ咽び泣く父をこれ以上見ていられなくて、私はドアをすり抜け、廊下に座り込んだ。


元の生活に二度と戻れない現実を突きつけられて、私はどうしようもなく怖くなった。


(戻りたいのに、戻れないよ……お父さん)


今は、自分の体をしっかり抱きかかえて不安と悲しみに耐える他なかった。


読んでいただきありがとうございます。

次の回は10分後に投稿されます!

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