空を泳ぐ魚
目を開けると、空に魚が泳いでいた。
湊はしばらく、何も考えられなかった。
仰向けに倒れている。背中には草の感触があった。草は少し湿っていた。雨が降ったあとのような匂いがする。
空は夕焼けだった。
けれど、雨の匂いがした。
赤と紫が混ざった空の中を、銀色の魚たちがゆっくり泳いでいる。大きいものはバスほどあり、小さいものは手のひらほどだった。魚たちは雲の間を抜け、何もない空を進んでいく。
湊は起き上がった。
「……どこだ、ここ」
声がかすれた。
目の前には草原が広がっていた。けれど普通の草原ではない。草の先には、小さな文字のような光が宿っている。風が吹くたび、その光がかすかに鳴った。
遠くには塔が見えた。
ただし、塔というより階段だった。壁も屋根もない。階段だけが空へ向かって積み上がり、途中でねじれ、また別の方向へ伸びている。
さらに遠くでは、紙飛行機の群れが飛んでいた。
草原の真ん中には、机や椅子が浮いている。学校の教室にあるような机だった。誰も座っていないのに、机の上のノートだけが開いている。
夢だ。
湊はそう思った。
夢に決まっている。
けれど、頬をつねると痛かった。
草の匂いもする。手のひらには土がついている。夢にしては、何もかもはっきりしすぎていた。
湊は立ち上がり、草原を数歩歩いた。
歩くたび、足元の草が小さく鳴る。
最初は虫の声かと思った。けれど違った。草の一本一本が、短い言葉をささやいている。
「おかえり」
「忘れてたね」
「まだ泣いてる?」
湊は足を止めた。
「……誰だよ」
返事はない。
風が吹く。
草原が静かに揺れた。
湊は腕を抱いた。寒くはない。それでも、体の奥が冷えた。
この場所は、自分を知っている。
そう思った。
初めて来たはずなのに、すべてが湊を知っているようだった。草も、空も、魚も、遠くの階段も、浮かぶ机も。
湊だけが、何も覚えていない。
草原の先に、一本の白い線があった。
道かと思ったが、違った。地面にチョークで引かれた線のように見える。その線は草の上をまっすぐ伸び、遠くの階段の塔へ続いていた。
湊は線の前にしゃがんだ。
指で触れる。
白い粉がついた。
チョークだ。
その瞬間、耳元で声がした。
「ここ、テストに出るぞ」
湊は立ち上がった。
誰もいない。
けれど、別の声が聞こえた。
「早く帰らないと怒られるよ」
「まだ遊びたい」
「じゃあ、明日も来ればいいじゃん」
子どもの声だった。
一人は湊。
もう一人は、少女だった。
湊は白い線を見つめた。
この道を、自分は昔歩いたのかもしれない。
夢の中で。
少女と一緒に。
遠くの階段の塔が、夕焼けの中に立っている。階段は上へ伸びているのに、どこにもたどり着いていない。途中で途切れている段もあれば、空中で輪になっている段もある。
湊は、その塔を知っている気がした。
名前は思い出せない。
でも、小さいころ、あの塔に登ろうとしたことがある。
途中で怖くなった。
そのとき、隣にいた少女が手を握った。
「下を見なければ怖くないよ」
少女はそう言った。
湊は目を閉じた。
記憶が戻りかけている。
それなのに、肝心な部分だけが抜けていた。
少女の顔。
少女の名前。
約束の中身。
そこだけが、どうしても思い出せない。
ポケットの中で、何かが熱を持った。
湊はポケットに手を入れた。
駄菓子屋で手に入れた、銀色の魚の人形だった。水たまりに落ちたはずなのに、まだ持っている。
魚の人形は、手のひらの上で光っていた。
その目が、ゆっくり動いた。
湊は思わず手を引いた。
小さな魚は手のひらの上で身をよじり、空中へ浮かんだ。そして尾びれを振って、湊のまわりを一周する。
「……お前、生きてたのか」
小さな魚は答えなかった。
そのまま空へ向かって泳いでいく。
湊が見上げると、その先に大きな影があった。
一匹の大きな魚が、湊のすぐ上を泳いでいた。
銀色の腹が夕焼けを映している。黒い目が、湊を見下ろしていた。
魚は空中でゆっくり体をひねり、人間の声で言った。
「やっと、思い出しに来たんだね」
湊は息を止めた。
その声を、今日の朝から何度も聞いている気がした。
いや、もっと前からだ。
熱を出した夜。
雨の窓。
空を泳ぐ魚。
白い服の少女。
記憶のかけらが、少しずつ浮かんでくる。
けれど、まだ形にならない。
「お前……何なんだ」
魚は答えなかった。
湊のまわりをゆっくり泳ぐ。尾びれが揺れるたびに、光の粒が落ちた。その粒が湊の肩に触れる。
瞬間、映像が流れた。
小さな自分が、布団の中で窓を見ている。
空に魚がいる。
隣には少女がいる。
少女が笑っている。
顔は見えない。
でも、その笑い方を知っていた。
湊は頭を押さえた。
「俺は……ここに来たことがあるのか?」
魚は静かに答えた。
「あるよ」
「いつ」
「君がまだ、忘れるのが下手だったころ」
意味は分からなかった。
けれど、その言葉だけは妙に残った。
忘れるのが下手だったころ。
なら、今の自分は忘れるのがうまくなってしまったのか。
湊は周囲を見回した。
「ここはどこなんだ」
魚は、空から落ちてきた雨粒をひとつ飲み込んだ。
雨は降っていない。
それでも、透明な粒が確かに一つ落ちてきた。
「君が朝に捨てた場所だよ」
魚は言った。
湊は何も言えなかった。
朝に捨てた場所。
毎朝、目覚めるたびに忘れてきたもの。
「ここは……夢なのか」
「夢だったもの」
魚は言った。
「忘れられて、流れ着いて、形になったもの」
湊は魚を見上げた。
「じゃあ、お前も」
「うん」
魚の体が少し透けた。
「君が忘れた夢だよ」
湊は一歩下がった。
怖かった。
けれど、目をそらせなかった。
自分が忘れたものが、ここで生きている。
それだけは分かった。
魚はゆっくり空へ戻ろうとする。
湊は手を伸ばした。
「待て」
魚は止まった。
「俺は、どうすればいい」
魚は尾びれを揺らした。
「思い出せばいい」
「何を」
「君が捨てたものを。君を待っている子のことを。君がした約束を」
湊は息をのんだ。
白い服の少女。
顔の見えない少女。
また明日も来てね。
うん。絶対。
約束。
「その子は……誰なんだ」
魚は答えなかった。
代わりに、遠くの草原の向こうを見た。
湊もそちらを見る。
夕焼けの中に、誰かが立っていた。
白い服。
肩までの髪。
小さな影。
少女だった。
湊の足が止まった。
顔は、まだよく見えない。
けれど、湊には分かった。
あの子だ。
水たまりの向こうにいた少女。
夢の中で、自分と約束した少女。
少女の口が動いた。
声はほとんど届かなかった。
それでも、分かった。
「遅いよ、湊」
湊は少女の方へ歩き出そうとした。
けれど、足が動かなかった。
見下ろすと、草の間から黒い糸のようなものが伸びていた。それが湊の足首に巻きついている。
黒い糸は、草原の奥へ続いていた。
その先に、黒い霧が見えた。
遠くの地平線から、霧がゆっくり広がっている。雨雲ではない。煙でもない。草原の上を這うように近づいてくる。
霧に触れた草は、光を失った。
さっきまで声を出していた草が、黙っていく。
「あれは……何だ」
大きな魚が答えた。
「忘却の霧」
「忘却?」
「思い出されなかった夢を、もう一度眠らせるもの」
霧は静かに近づいてくる。
遠くの少女が何かを叫んだ。
けれど声は届かない。
黒い霧が、二人の間に入り込んでいた。
湊は足を動かそうとした。
黒い糸が強く締まる。
痛みはない。
ただ、体から力が抜けていく。
頭の中にあった映像も薄くなっていく。
雨の日の窓。
銀色の魚。
白い服の少女。
砂場の約束。
また、遠ざかっていく。
「ふざけんな」
湊は歯を食いしばった。
忘れたくない。
まだ何を忘れていたのか分からない。
けれど、もう一度忘れたら、今度こそ戻れない気がした。
湊はポケットを探った。
魚の人形はもうなかった。
代わりに、紙の感触があった。
取り出すと、それは濡れたノートの切れ端だった。
そこには、子どもの字で一言だけ書かれていた。
『リリカ』
湊はその文字を見た。
リリカ。
その名前を読んだ瞬間、遠くの少女の輪郭が少しだけはっきりした。
白い服。
肩までの髪。
少し怒ったような目。
湊は、その名前を口にしようとした。
けれど、声が出ない。
黒い糸がさらに強く足を締めつける。
魚が言った。
「まだ、完全には思い出していない」
「じゃあ、どうすればいい」
「近づいて」
「動けないんだよ」
「それでも」
魚は静かに言った。
「忘れるよりは、いい」
湊は息を吸った。
足に力を入れる。
黒い糸が食い込む。痛みはなかった。ただ、何かが少しずつ抜けていく。
それでも、一歩踏み出した。
黒い糸が切れた。
その瞬間、少女の声がはっきり届いた。
「遅いよ、湊」
湊は顔を上げた。
少女――リリカは、夕焼けの向こうに立っていた。
怒っているようにも、泣きそうにも見えた。
けれど、そこにいる。
湊はその姿を見て、ようやく分かった。
自分は、この子を待たせた。
理由はまだ分からない。
でも、それだけは分かった。
湊は震える声で言った。
「……ごめん」
リリカは答えなかった。
ただ、少しだけ目を伏せた。
空では、魚たちが静かに泳いでいる。
遠くで、学校のチャイムに似た鐘が鳴った。
湊は、ここがどこなのかまだ知らない。
なぜ来たのかも分からない。
どう帰ればいいのかも分からない。
ただ、自分がここに初めて来たのではないことだけは分かった。
忘れていただけだ。
風が吹いた。
草原の文字が鳴り、空の魚たちが尾びれを光らせた。




