水溜まりの底へ
落ちている?
けれど、どちらが上で、どちらが下なのか分からなかった。
湊の体は、水の中を沈んでいるようでもあり、空を落ちているようでもあった。制服がゆっくり揺れ、髪が額から離れる。口を開けても水は入ってこない。息ができる。なのに周りには、確かに水の気配があった。
暗くはなかった。
むしろ、妙に明るい。
水の中に、たくさんのものが浮かんでいた。
破れたノートの切れ端。
止まった目覚まし時計。
割れた月。
片方だけの靴。
赤いランドセル。
音の出ないピアノ。
名前の書かれていない名札。
紙飛行機。
そして、魚の群れ。
銀色の魚たちは、湊のまわりをゆっくり泳いでいた。尾びれを動かすたびに、小さな光の粒がこぼれる。その粒は泡のように上へ昇り、途中で文字になった。
『忘れないで』
『また明日』
『怖くないよ』
『こっちへおいで』
湊は手を伸ばした。
文字は指先に触れる前に弾けて消えた。
その瞬間、頭の中にいくつもの映像が流れ込んできた。
雨の日の窓。
誰かと笑った公園。
終わらない廊下。
階段だけの城。
顔のない犬。
空を泳ぐ魚。
水の中を漂いながら、湊は不思議なものをいくつも見た。
どれも知らないはずなのに、どれも見覚えがあった。
それらは湊のそばを通り過ぎるたびに、小さな記憶を落としていった。
小学校の運動会で、転んだこと。
発表会で台詞を忘れたこと。
誰かに手紙を書いたけれど、結局渡せなかったこと。
夜中に目が覚めて、急に世界に一人だけ取り残されたような気がしたこと。
全部、忘れていた。
忘れたつもりさえなかった。
でも、ここには残っている。
湊は胸を押さえた。
忘れるというのは、なくなることではなかったのかもしれない。
どこかに置いていくだけなのかもしれない。
その場所が、ここなのだとしたら。
自分は今まで、どれだけのものをここへ捨ててきたのだろう。
ふと、近くを小さな箱が流れてきた。
赤いリボンのついた箱。
湊はなぜか、それを開けてはいけないと思った。けれど、箱は湊の前で勝手に開いた。
中から、声があふれた。
「また明日ね」
少女の声。
湊は反射的に手を伸ばした。
しかし声は水に溶け、泡になり、指の間から逃げていった。
続いて、別の声がした。
幼い自分の声だった。
「絶対忘れない」
湊は息をのんだ。
絶対忘れない。
その言葉が、水の中で何度も反響する。
絶対忘れない。
絶対忘れない。
絶対忘れない。
そのたびに、胸の奥が痛くなった。
嘘つき。
誰かが、そう言った気がした。
湊は振り返った。
水の奥に、少女が立っていた。
白いワンピースの少女。
その少女が、自分の名前を呼んでいる。
けれど、声が遠い。
湊は叫ぼうとした。
君は誰だ。
俺は何を忘れた。
でも声は出なかった。
自分はこの子を知っている。
この子を忘れてはいけなかった。
少女は湊に向かって手を伸ばした。
湊も手を伸ばす。
あと少しで届く。
その時、黒い霧のようなものが水の中に広がった。
少女の姿が遠ざかる。
少女の輪郭がにじみ、水に溶ける。
最後に、少女の声だけが残った。
「迎えに来て」
その言葉と同時に、遠くで扉が開く音がした。
湊はそちらを見た。
水の底に、古い木の扉が立っていた
水の底に、扉があった。
木でできた古い扉。表面には、子どもの落書きのような絵がたくさん描かれている。魚、月、犬、階段、傘、そして二人の子ども。
一人は湊に似ていた。
もう一人は、顔の見えない少女だった。
扉が少しだけ開いた。
向こう側から、雨の匂いがした。
いや、雨だけではない。
草の匂い。
夕焼けの匂い。
古い教室の匂い。
知らないはずなのに懐かしい匂い。
湊の体は、その扉へ引き寄せられていく。
抵抗しようとしたが、手足に力が入らない。魚たちが湊の背中を押すように泳ぎ、光の粒が制服にまとわりついた。
扉の隙間から、声が聞こえた。
「湊」
今度は、はっきり聞こえた。
女の子の声。
湊は目を見開く。
自分の名前を呼ぶ声を、湊は知っていた。
知らないはずなのに、知っていた。
「湊、早く」
扉がさらに開く。
まぶしい光があふれた。
湊は最後に振り返った。
水の中の遠くに、現実の公園が見えた気がした。錆びたブランコ。魚の形の水たまり。雨に濡れた砂場。
そこに、幼い自分が立っている。
幼い湊は、こちらに向かって手を振っていた。
その隣にいる少女は、やはり顔が見えない。
でも、泣いているような気がした。
湊は何かを言おうとした。
ごめん。
待って。
忘れない。
そのどれもが、喉の奥で泡になって消えた。
扉が湊を飲み込んだ。
世界が白く弾ける。




